第九話:兄弟
カイルの学校生活は、ひどく辛いもので。
そしてその中でアイリスが、彼にとって救いであった。
が、強すぎる依存は、執着は。
時としてはそれは、愛から毒に変わってしまう。
じわじわと自信を苦しめる、痛みに成っていってしまう。
─────すべては彼の育った、家庭環境によって。
─────兄弟。
それは、お互いを阻害し、救助し、やがて遠くの未来で別離する存在。
が、その存在は当たり前ではなく、一人っ子や家庭環境などによって、その恩恵を得られない者も多く存在する。
そして人々はそれらの違いに惹かれ、話し合い、自らの家庭の”当たり前”を広めて笑い合う。
─────残酷で不可免な、ある種の”当たり前”を、排除したまま。
「…もう止めてよ。お父さん…。」
これは、幼いカイルが発した最初の反抗であった。
生まれながらにして狂乱と多大な挫折を背負い、現在も学院に通う青年の過去。
彼のあの卑屈じみた性格と冷静さは、此処から始まったのだった。
─────齢、九歳。
「何で…。何でそんな事するの…?
嫌だって、そう言ってたじゃん…。」
「いや、そんな事もないぞ。
ほら、喜ばしいだろう?」
「…はい…!
ありがとうございます…!
ありがとうございます…!」
泣き崩れた彼女。汚れた床と枕。
ドアを開けた先の光景は、もう思い出す事が出来ない。
生まれた時から乳を与え、子守唄を歌い、本を読み聞かせてくれた侍女はもう。
其処には居なかったのだ。
─────齢、十三歳。
「兄さん…。やめてよ…!
何で、何でそんな事するの?」
「何でってそりゃあ。
見た目が良かったからさ。
お前と仲良く遊んでるところをみたら、つい、な。」
「僕は…。こんな事をするつもりじゃあ…」
「あっはは!wwごめんごめん!!
ちょっと経ったらお前にも”貸してあげる”から!w」
「大丈夫だよ。カイル君…!
しばらくしたら、また会えるから…!」
昼下がり、まだ日の高い密室。
彼は昼食の知らせに訪れた自分を、後悔しなかった事はない。
彼が兄の裸体を見たのはそれが初めてだっただろうし、勿論彼女の事も。
共に庭を駆け巡り、幸せに遊んだ隣家の幼馴染も、それから会う事は無くなったのだった。
─────齢、十五歳。
「ごめん。私、他に好きな人ができたから。
今日で話すのも、終わりにしましょ?」
「何で…?僕が何かしたの…?」
「だって、君も結局シてるんでしょ?
あの、娼館で。」
「僕はそんな事はしてないよ!!
きっと学校の奴らが好き勝手に……!!」
「君だけはそんな事、しないと思ってたのにな…。
ごめんなさい…。」
別れ際の、冷めきった目と唇が印象に残っている。
清純だった彼女はクラスの中心人物のモノとなり、結局は服装も化粧も娼館の女たちのように変わっていった。
彼は大人しくも思いやりのある彼女を大切に、大切に思っていたのだけど。
悪意にまみれたほんの少しの噂だけで、関係は崩壊して無くなってしまったのだった。
─────もう、痛みも、苦しみも。
彼はとっくに忘れてしまったから。
毎日が傷だらけで、飽き飽きしてしまったから。
家に帰るのも、辛くない。辛くない。
響き渡る声の幾つかが、自分の知る人だったとしても。
もう気にしないと、自分で決めたのだ。
「ただいま。」
彼は家に帰る。
ドアを開けても、親と兄の姿はない。
当たり前に部屋からは振動と嬌声が聞こえた。
そして父に与えられた自分の部屋に入って、オルゴールをかけて。
チリチリと鳴る美音に聞き入って。
勉強机の椅子で塞ぎ込む。
─────カイルの日常はいつもそれきり。
(そんなでも、友達は出来たから。
いいんだ。僕は幸せだ…。)
つい最近、友達が出来ました。
ようやく仲間として認めて貰えた気がして、とても嬉しいです。
自分から誘った遊びも、皆は受けいれてくれました。
これからの生活は、きっと薔薇色に満ちています─────。
そうノートに書き殴って。
カイルはベッドに倒れこむ。
背中に感じる柔らかいシーツの感触と、湿度の低い部屋の空気が肌に触れる。
そして天井を見上げると、窓にかかった月が美しく反射していた。
「今夜は月が綺麗だな…。」
練習した魔法を、一回でも父は見てくれただろうか。
才能があると言って、無理やり学校に通わせた癖に。
泣きわめいても気にも留めず、練習部屋に閉じ込めた癖に。
「魔力線、解放…。」
カイルは寝ころんだベッドから指先を宙に掲げる。
細い糸のように巻き付いた魔力玉は、手のひらサイズの小さな塊。
さらにそれが二つの大きな羽と、虹彩の豊かな両眼に解けていく。
─────指先に止まる、紫色のトンボ。
透き通った胴体は魔力で出来た証で、月夜の輝きを受けて鈍く光っている。
トンボは周囲を見渡し、羽をばたつかせて飛行準備に入るだけ。
まだ見ぬ空を見上げて背筋をぴんと伸ばしていた。
「魔法構造、成形完了…。」
トンボはその羽を上げる。
そして尾を立て、完璧な体勢で離陸を試みる。
…が。
それは魔力の霧散によって虚しく散ってしまう。
そして彼の、紫の魔力はその循環を失ったのだった。
「僕も、こうなってしまうんだろうか…。」
────飛び立つ事は、地上からの枷を解き放つ事。
俗世のしがらみを断ち切る事は、それらがもたらす恩恵すらも手放す事。
仮に街に一人で出たとして、親の財力が無ければ彼は生きていけない。
循環する魔力が無ければ生きられないトンボの様に、飛んだ瞬間にその身は砕け散るだろう。
そしてまた地上にしがみついて、生かしてくれと叫ぶのだ。
惨めで可哀想な、寄生虫の様に。
「僕には、アイリスさんしかいないから…」
気付けば無言で泣いている。
追い詰められ、生きている意味の無かった自分に現れた唯一の希望。
暗く湿った部屋の中、月明かりだけが照らす窓辺で。
思考も、善悪も、全ては彼女のために、彼は動こうとしていた。
それは新たにすがり付く先を、求めているだけだというのに。
(そうだ…。頼ってばかりじゃいけない。
僕もあの人のために出来る事をしなくちゃ…。)
親に刷り込まれた魔法技術もどうにか役に立つ時が来たのだと感じ取る。
そしてカイルはベッドを降り、扉を静かに開けた。
先には明かりの点いた部屋が数個と、後は暗い廊下。
勉強用の魔法書が所蔵されている書庫まではあと数十メートルといった所。
そして依然女性の喘声が響き渡る中を、彼は進んでいく。
耳に入るその音を、雑音だとひたすらに信じ込んで。
(練習と知識を蓄えないと。
魔法で、自分で何でも出来るようになれば、きっと彼女の役に立てるんだから…!)
時間は午後7時頃。
夕食も無く。明かりも無く。
家族団らんの時間帯に、彼は放置された書庫の扉へと突き進む。
一歩。一歩。
木で出来た床を踏みしめる音がする。
カイルはその間も俯いたままで、自らの足を一心に見つめるだけ。
交互に前に動いていく自分の肉体を、静観するのみであった。
「ふー。ヤったヤった!!ww
ハハ。やっぱ平民はいいなw壊しがいがあって!!ww」
明かりの漏れる扉の前を通り過ぎる。
そして室内の男はそれにも気づかず、話し続けていく。
隣で倒れこむ女性の顎を掴んで、ぐちゃぐちゃに汚れた顔に瞳を向けて。
─────彼は、こう言ったのだ。
「なあ?お前。“アイリス”って知ってるか?」
その瞬間、カイルの足が止まる。
(─────は?)
まさか。そんな事があるわけがない。
そう思っても聴覚は否定し続け、先ほどの言動をひたすらにリピートしていく。
─────”アイリス”という、人名の響きを。
「これから家に来るんだぜー?
その子、えらく美人らしくてな!!
あはは!!嫉妬しちゃうか!?ゴメンゴメンww」
ああ。疑念は確信に変わる。
動揺は、怒りに変わっていく。
そして心臓の鼓動は、限りなく高ぶっていく。
(何で…!?何で…!?
分からない…!分からない…!)
頭を抱え、カイルは廊下を駆けだしていく。
部屋の中を見る事を恐れ、逃げるように書庫へ向かっていく。
兄の笑った顔と、愛しい人の情事を想像して吐き気がする。
─────アイリスが汚れていく様を、鮮明に思い描いてしまう。
「……ぁあ!!クソクソクソ!!!」
そして書庫の扉の前、廊下の突き当りで彼は立ち止まる。
瞳は血走り、髪は掻き毟ってボロボロに。
自らの内から響く歯ぎしりの音と、耐えきれない程の頭痛を感じて。
─────彼は扉の木壁に、爪で傷跡をつけ始めたのだ。
ギリギリギリギリ。
鈍い音を立てて、五本の跡は右上から左下に流れていく。
そしてそのうち、反り返る圧力に負けた爪はミシミシと剥がれていく。
飛び散った血は無機質な扉のキャンバスに彩りを与え、さらに動きを加速させる。
彼の腕と手は、指の肉を擦り卸すまで止まらない。
削れて尖った木片が刺さっても、関節が逆さに捻じれても止まらない。
もはや手とは言えぬ肉塊と化した右の指先を、扉に擦り続けるだけ。
─────そして数分後。
カイルは動きを止めて手を降ろす。
「……………………。」
顔は、喜怒哀楽の全てが抜け落ちている。
色も無く、背中を丸め、扉を眺めて立っている。
自分で彫った苦痛の残滓に、何かの感情が沸く事は無い。
ただ事象全体を見て、彼は少しばかり口を開いた。
「そうだ…。こんな事しなくてもいいんじゃないか…。
アイリスさんは強いから無事かもしれないし、早く助けに行く方が重要なのに。
一体、僕は何をしてるんだろう?」
そうやって独り言を呟いている間も、表情は変わらない。
目、鼻、表情筋は一切の動きを見せず、口だけが盛んに動いている。
「うっかりしてた。
すぐ考えたら分かるはずなのに。
いつも兄が人さらいを依頼する人達ならとっくに知っているし。
ルートも、全部分かってる。」
依然として痛ましい傷跡を見つめたまま。
彼は閉じた扉の前でそう呟き続けた。
「はやく行かないと。
帰ってくる前にアイリスさんを助けないと。
…そうだ。
助けたら、褒めてもらえるかな…?」
目は瞬きを許さない。
それは常に見開かれたままで、口だけが動く。
だらんと降ろされた右手からは血が垂れ落ちてポタリポタリと音を立てており、床には小さな血溜まりが出来ようとしていた。
「…………!!」
ぐるんと体を捻る。
そして視線を廊下の空中に向け、あるはずの無いカメラに向かって指を指す。
真顔のまま、”こちら”の世界を意識して。
「…そんな事してる場合じゃない…。
はやく行こう…。」
視線を戻して、ケインは走り出す。
休憩中、慢心創痍の兄はその音に気付くことは無い。
扉を開け、外出するその気配すらも、彼には感じ取れなかった。
─────午後8時。ガリベルデ地下通路。
首都ガリベルデには都市内の治水用に張り巡らされた地下水道が幾つも存在しており、そのほとんどには水が流れていない。
そして主に災害に応じた放水路としての役割が期待され、日常では貴族の密偵や貧困者たちの住処となって街を静かに支えていた。
「ここだ…。」
「…!?誰だ!?」
丸く削られた空間の中。
赤黒いレンガに囲まれた暗闇で、カイルは男に声をかける。
─────兄が依頼した人攫いは、まだジェネラリーゼ家に向かう途中。
いつもの地下通路を駆け抜け、出口から地上に登るその前に、男は彼に見つかってしまったのだ。
「よかった…。
見つかって…。」
じりじりと近寄っていく。
負傷した右手はだらりと垂れたままで、左右に頭を振って意識ありのままに示す。
その様は、まるで感染したゾンビの姿であった。
「は?誰だお前?」
下を向いているカイルの顔は男には見えない。
この地下通路の暗闇の中で近づいてくる者は、同業者か物乞いの二択であるから。
男は挙動不審な彼の顔を見ようと、少しばかり顔を横に傾ける。
「ここだよ。」
突然の急接近。
避けようとする男に対してカイルは、その首を掴んだ。
爪の無い右手指が喉を絞め、鼻口の呼吸を妨げる。
食い込んだ紅い指はハンコのように、血を朱肉にして跡を付けていく。
「クソッ!?ぁあっ!?」
が、カイルの弱い力は男の手によってあっさりと解かれてしまう。
男は手を首に当てて残る絞首の感覚を確かめながら、反動でよろけながら立っているカイルの姿を捉えた。
「…誰かと思ったら弟さんじゃないですか…!
どうしたんです?そんな事して…?」
「…………………。」
カイルは答えない。
夜の暗闇の中を、男の持つランプだけが彼の影を映している。
そして地下水道の湿った空気と首から香る血の臭いが、その神経を研ぎ澄ましていく。
(チッ。コイツはヤバいな…。手に負えねえ…。)
とうにカイルの精神は壊れている。
アイリスによって治りかけたその心は、また親族によって傷つけられる。
そして、今までと違って。
最後にとどめを刺したのは、彼自身の妄想と紛れもない、アイリスの存在であった。
─────カイルの右手先から、魔力線が伸びる。
前に伸ばした右腕の先が異形と化していく。
紫色の魔力に赤い血が溶け、その色彩は黒味を増して止まらない。
そしてそれは延長線上に弧を描くように屈曲し、陰湿に地を這う生物を作り出す。
…そう。その姿こそ。
─────大きな牙と胴体を特徴とした、”蛇”の姿であった。
「……………………。」
彼の手先は形を変えていく。
指は何処にも見当たらず、その場所にあるのは蛇の厳めしい頭だけ。
前は細くしなやかだった腕も、今は鱗の生えた巨腕となっている。
「何だ…。それ…。」
無言を貫くカイルのアンバランスさに男は戸惑い、恐怖した。
彼の大きく膨れ上がった右腕と全身を覆う禍々しいオーラとが男の心臓を縮め、
筋肉を弛緩させていった。
「クソッ…!!逃げ…」
「─────蛇姦傷、”白夜”。」
その、悪意に満ちた言葉と共に。
右腕が、不自然に男へと伸びていく。
空中をうねり、蛇行し、その首を掴まんと追いかける。
そして、男がその姿を捉える前に。
二つの牙は首元に到達した。
…ザクッ。
「…………ぁ。」
瞬間、男は白目をむき、その場に膝立ちになる。
両膝を地面に付け、あとは立った状態のまま。
腕をだらんと下げて口を開けた。
(見えない…。何も…。見えない…?)
白くぼやけた視界しか、男には映らない。
…いや、より正確に言えば。
既に男は、視力を失っていたのだ。
「な、にが…。…ぁ。…ゲホッ。」
だらしなく開けたままの口から血が垂れ流される。
徐々に全身の力が抜け、かろうじて立っていた膝さえも倒れこんだ。
そうして男はうつ伏せのまま、少しずつ近づくカイルを受け入れるしかない。
「痛みますか…?」
「…ぁ…?」
「痛みますね。嗚呼。可哀想。可哀想。」
カイルには少しの表情の変化も無い。
未だに目は見開かれたまま、口だけが動いている。
「…。可哀想ですね…。」
そう言って去っていく。
ビチャビチャと鳴る足音の他には何も聴こえない。
割れたランプは火を失い、煙と共に消え。
そして一切が見えず、聞こえない男の心臓は、その鼓動を静かに止めたのだった。
「………………。」
ビチャビチャと。ヒタヒタと。
─────歩みを止めぬ彼の足は、ジェネラリーゼ家へと向かっていく。
それをまだ誰も、知る事はできない。




