8
――脊髄損傷。
言葉としては私でも知っている単語だった。
ただ知っているというだけで、これほど身近に感じることになるとは思いもしなかったけれど。
「……それって、転んで尻餅をついただけで起こり得るの?」
「ママも同じ質問してたけどね、強い衝撃が加わりさえすればあり得るし、これまでにも似た症例はいくらでもあるんだって。要するに打ち所が悪かったってやつ。まあ精密検査が終わる頃には脚の感覚は完全になくなってたしね」
「じ、自転車の男は? そいつのせいで転んだんだから悪いのは自転車の男でしょ?」
憤りを滲ませる私の問い掛けに、まるでそう問われることがわかっていたみたいに名波さんは力なく首を横に振る。
「あの時すぐに警察でも呼んでいれば違ったかもしれないけど、住宅街の信号もない曲がり角で防犯カメラの死角みたいな位置だったせいで証明する術がなかったんだ。それにそもそも、私と自転車は接触してないんだよ。だから、いくら主張してもあの舌打ちした自転車の人は私の記憶の中にしかいないの。いまもどこかで片手離しのながら運転してるんじゃないかな?」
小さく肩を竦めてみせる名波さんにかける言葉が見つからなかった。
大層な話じゃないと前置きされたせいで油断してしまったけれど、大層にも程がある話だった。
男を作って蒸発した私の母親のビッチエピソードなんて、影も形も残さず霞みきってしまうくらい段違いの話だった。
「ね? 笑えるでしょ。信じられないくらい良いオチの付いた笑い話だよほんと」
「……ちょっとさすがに、笑えないよ」
精一杯の気遣いを乗せた私の呟きを敏感に感じ取ったのか、名波さんは打ち消すみたいな笑顔をパッと咲かせた。
これまでにも何度もこのやり取りを繰り返してきて慣れきっているのか、名波さんは車椅子の肘掛けをポンと叩いて、
「だからさ、ただ私の不注意が原因なんだよ。ママにしたっていきなり生活が一変しちゃって余裕ないだけなんだよ。……ちゃんとしてない私が悪いだけなんだ」
「だからって、さっきみたいに車椅子を蹴ったりするなんて余裕なくてもやりすぎでしょ」
「あー……、今日は本当に、特別苛立ってただけで普段はあんなことないんだよ、もうちょっとはマシだから。本当に」
人差し指と親指で、ちょっとを示してみせる。その指と指の間隔がとても狭かったのは、心情的にその程度しかマシではないと物語っているようだった。
そこまでして必死に母親を擁護する名波さんの姿は痛々しく映った。その痛々しさが伝染するみたいにチクチクと私の気持ちを刺激してきて苛立たせた。
確かに名波さんの母親にしてみれば生活が一変してしまったのは事実だろう。
家族が突然、車椅子での生活を余儀なくされるだなんて私なんかでは想像も付かない。
けれど、それを踏まえた上で、その事情を誰よりも一番に理解するべきなのが母親ではないのだろうか。
にもかかわらず、名波さんにとって動かない脚の代わりである車椅子を蹴るという有様だったのだ。思い返すだけで腹の底から煮えくり返るみたいな憤りがわき上がってくる。
私は自分の母親だった女が、私のことなど省みない身勝手の極みみたいな体たらくだったせいで、母親という属性を持つ一番身近な大人を信用していなかった。
やっぱり大人は勝手だ。
名波さんの話を聞き終える頃には、私の大人に対する不信感は改めて強固なものへと研ぎ澄まされていた。
まあ、そんな私の気持ちは別に良いとしても、いずれにしろ名波さんは被害者なのだ。そして誰が悪いのかといえば自転車の男だ。不用心に曲がり角から飛び出したかもしれないけど、安全に気を払うべきは自転車側なのだから。そして次に悪いのはあの母親だ。絶対にそうだ。
「……ほんとにアレで、マシなの?」
「うん、本当にマシだよ。心配してくれてありがと」
「でもさ、次に成績悪かったら退学させるとか言ってたじゃん?」
「あー、まあ、あれも勢いでぶつけてきてるだけだよ。私を本当に退学なんてさせたら困るのはママなんだから。とにかくなにか言わないと気が済まないタイプなんだよ、あはは……」
「じゃあリハビリしてないのはどうして?」
そこまでわかっているのなら、母親のご機嫌を取る目的でもリハビリはした方が得策だと思えた。ここまで母親を擁護していながら自ら機嫌を損ねる理由がわからない。
「それは……、なんかもう、どうせ無理だろうし別にやんなくても良いかなって」
わずかに躊躇を覗かせ、ふっと弱々しい吐息を漏らして名波さんは頭を振る。ふわりと揺れる癖っ毛は思わず手櫛を通したくなる心許なさを感じた。
「でもさ、リハビリってまた歩けるようになる可能性があるからやるんでしょ?」
「うん。それはそうなんだけど、なんか頑張るのが億劫なんだよ。痛いし、しんどいし、とにかく面倒臭くってさ。まあ、それでママの機嫌が悪くなっちゃってるんだけどね。よしっ」
ぼそぼそと呟くように言っていたかと思うと、話はこれで打ちきりとばかりに勢いよく両手をパンと合わせる。名波さんは前を向いたままでその表情は窺い知れない。
「……なんか、軽々しく聞き出しちゃってごめん」
車椅子を押す手にぎゅっと力を込めながら名波さんの後頭部に謝る。
「ううん。私が先に西森さんの話を聞いたんだから、ぜんぜん気にしてないよ。それに腹を割って話すっていうの? なんだか親友になっちゃったみたいだね私たち」
「え、いいじゃん。なろうよ親友」
「そうだね。うん、なろうなろうっ」
ぐるりと首を捻って振り返ってくる名波さんが幼い子供みたいにはにかむ。たったそれだけの仕草にキュンとしてしまう私はきっとチョロい女なのだろう。
「手始めにさ、朱々寧って呼んでもいい?」
「もちろんだよー。じゃあ私も、依乃里ちゃんって呼ぶね」
「へへっ、一気に親友っぽくなったね」
「青春って感じだね」
「おおっ、一緒に青春しようぜっ」
パッと表情を綻ばせニッと歯を見せて笑う朱々寧を見つめ返しながら、私は胸の内側がこそばゆくなって身悶えてしまう。
転入してすぐ生徒指導室へと呼び出されたときにはどうなることかと思ったけれど、結果的に腹を割った身の上話から親友が出来た。
教科書に載せたいくらいに、これぞ青春って感じだ。
ふつふつと湧き上がってくる嬉しさを噛みしめ、けれど悟られるのは恥ずかしいからぐっと唇を結んで堪えながら、私は軽快に車椅子を押す速度を上げた。
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