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 転入時からずっと気になっていたことだった。


 私のこれまでの人生において、それが良いことなのかどうかは判断が付かないけれど、身体の不自由な子は身近にいなかった。

 なのでもちろん車椅子の子だっていなかった。だから当然、名波(ななみ)さんの後ろに立って車椅子を押していること自体、手慣れているフリをしているだけでまさに初めての経験の真っ最中だった。


 身体が不自由な人の存在がどこか遠かった。いくら知識として知ってはいても、自ら接する範囲に存在しなければ実感なんて湧くことはない。だからこそ、初めて車椅子ユーザーを目の当たりにして戸惑ってしまった。


 気にはなりつつもきっとデリケートな話であることは間違いないだろう。本人がケロリとして身体が不自由なことを気にしている素振りさえ見せないせいで、車椅子が必要になるに至った経緯に触れることがどれくらい失礼に当たるのか計りようがなかった。


 けれどいまの流れだったら聞けそうな気がした。


 愛娘であろう名波さんの脚代わりであるはずの車椅子を、怒りに我を忘れていたにせよ蹴飛ばすような母親の姿を目の当たりにした直後では、むしろこの話題を切り出さない方が不自然なくらいだと思えた。


「この車椅子? ああ、脚のこと?」

「あ、もちろん話したくなかった答えなくっていいから……」

「ううん、平気。けど別に大層な話じゃないよ?」


 名波さんはむしろ逆に申し訳なさそうに語尾を濁らせる。


「そうなの?」

西森(にしもり)さんの家庭事情に比べたらぜんぜんだから。大病を患ってるとかじゃないし」

「病気じゃないんだ?」

「うん。生まれつき悪かったみたいに思われがちだけど、違うんだなーこれが」

「じゃあ、怪我……、っていうか、事故、的な?」

「そんな身構えなくっても平気だから。転んだんだよ」


 慎重に言葉を選ぶ私とは対照的に、名波さんはどこまでも軽くさらりと答えてしまう。


「……え、転んだ?」

「うん、そう。去年なんだけど、転んだせいで動かなくなっちゃった」


 わりと痛ましい出来事を想像した私が拍子抜けするほど、どこまでも取るに足らないことみたいにもったいつけるでもなく名波さんはあっけらかんと頷く。


「転んだのって、えっと、事故とかじゃなくて?」

「うん、事故……、ではないかな」


 なぜか歯切れ悪く言い淀み、思い出そうとするみたいにこめかみに指を添えて首を傾げる。


「え、どういうこと?」

「うーん……、むしろ大きな事故に巻き込まれたとかだったら良かったと思うんだけどね。ほんとに転んで尻餅をついただけなの」

「尻餅って……、けど、それだけで車椅子に?」

「って思うよね? ほんと私だってそう思ったよ。え、これだけのことで? って。でも、本当にそれだけなんだよ。転んで尻餅をついたら、私の脚は動かなくなったんだよ」


 表情だけはきっちりと笑顔を形作って、どこか適当な思いつきを口にするみたいな調子で語る名波さんの声は、けれどまるで笑ってなどいなかった。


「……ねえ、もしかして冗談で言ってたりする?」

「冗談じゃないよ、ひどいなー」


 口元を隠してくつくつ笑うけれど車椅子を押す私からは名波さんの表情までは窺えない。


「でも、転んで尻餅ついたって、どういうことなの?」

「えっと、あの日はね、寝坊しちゃって慌てて家を飛び出したんだ。自宅から集合場所までの道のりは通い慣れてたんだよ。慣れきってる道でいちいち安全確認なんてしないでしょ? そんな調子で普段通りに急いで走ってたんだよ。そしたらね、曲がり角でスマホ見ながら片手運転してた自転車と出会い頭にぶつかりそうになっちゃって」


 たぶんだけど、求められるたびに何度も語り聞かせてきた説明なのだろう、名波さんは指揮棒でも振るみたいに指先を動かしながら言い淀むこともなく軽快にそこまで語って、ふっと力が抜けたみたいに腕を下ろした。


「ぶつかったの?」

「ううん。危ないって思って咄嗟に身体を捻った拍子にバランス崩して、思いっきり尻餅ついたんだ。ドンって勢いで。……なんだか私のお尻が大きいみたいに思われそうで嫌だなぁ、実際にはそんな音なんてしてないよ? ただ、耳の奥っていうか頭の中ですごく響いたんだよ。でっかくて重たい壺みたいなものがガチャンッて割れる感覚」

「……それが、原因で?」

「うん。たったそれだけでって思うよね? 私でもそう思うよ。けどね、急ブレーキかけた自転車の男の人はチッて舌打ちしてそのまま走り去って行ってさ、ちょっとムカつきながら立ち上がろうとしたら……、立てなかったんだ」


 俯けていた頭を持ち上げて、勿体ぶるでもなく小さく咳払いをしてから名波さんが続ける。


「ほんとにね、ぜんぜん立てないの。打ち付けちゃったお尻はジンジンしてるんだけど脚の方はもう感覚がないっていうか、ずっと正座してて痺れちゃったみたいに全く力が入らないんだよ。その状態が自分でよくわかんなくってさ、どうして脚が動かないのか、どうして立てないのかぜんぜん理解が追い付いてこないんだよ」

「……それでどうなったの?」


 控えめに問い掛けた私の声は掠れていた。


 そんなことはお構いなく、名波さんは一番の盛り上がりポイントはここだとばかりに声の調子を上げる。


「そうやって座り込んだままもぞもぞしてる私に通りがかった人が声をかけてきて、まったく立ち上がれないうえになんだか気分まで悪くなってきて救急車呼ばれたんだよ。初めて担架に乗せられて救急車で病院に運ばれたの。この時点でも大したことないだろうに大袈裟なことになっちゃったって恥ずかしさしかなくって、私があまりに普通にしてるものだから救急病院でも拍子抜けしたみたいになっちゃってね。その時点では打撲って診断されたんだよ。救急車まで出動させといて打撲だよ? もうほんっとに恥ずかしくって、笑っちゃうでしょ?」


 えへへっと笑いながら同意を求めてくるけれど、私の目の前には車椅子に座っている名波さんの姿がすでにある。


 この話の最終的な着地点がわかりきっている以上、とてもではないけれど釣られて笑ったりなんて出来なかった。


「そのまま念のために検査入院って形になったんだけど、病院からの連絡で慌ててやって来たママからは『アンタがぼんやりしてるからだ』って怒られてね。しかも集合場所に現れない私を心配して集まってきたみんなからは呆れられて、ほんと散々だったよ。……で、翌日専門の先生に改めて精密検査をされたんだけど、検査が終わってからすごい深刻な表情で診断された結果が、脊髄損傷だったの」






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