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「お母さんと一緒に帰らなくて良かったの?」

「あ、うん。ママは仕事に戻るはずだから」


 名波(ななみ)さんの母親の圧倒的な暴れっぷりのおかげというと語弊があるけれど、生徒指導室での話の続きがうやむやになって解放された。


 疲れ果てた表情のめーこせんせーは一気に老けたみたいに背中を丸めて、私たちのことを犬でも追い払うような仕草で手を振って見せた。


 生徒指導室を後にした私は車椅子の後ろに回り込んでハンドルを握り、生徒玄関で靴を履き替えて名波さんと途中まで一緒に帰ることにした。


 わずかな活動場所を主張し合うみたいに、野球部とサッカー部の男子が入り乱れて部活を行っているグラウンドを横切りながらゆっくり車椅子を押す。


 なんとなく押した方が良いだろうなって勝手もわからず始めたことなのに、申し訳なさそうに上体を捻って向き直り「ありがとう」と言った名波さんは、際立っていじらしく見えて胸の奥がむずむずしてしまう。


 私の内に秘めたるお姉ちゃん気質がビンビン刺激されてしまっていた。


 邪な気持ちを巧みに隠しつつもっと気遣ってあげたくなってしまう。車椅子を押すことで名波さんの背後に立つ格好となり、そのか細い肩は心許なく庇護欲まで溢れそうになってしまう。


 ちなみに私は一人っ子なので姉妹はいない。私の内側だけに息づくお姉ちゃん気質なのだ。


「それにしてもお母さん、けっこう大迫力な強烈キャラだったね。あ、馬鹿にしてるとかじゃなくって……、ごめん」


 開放感からどっと疲れが押し寄せてきてついうっかり本音が口から零れてしまった。慌てて口をつぐむがだいたい手遅れなことばっかりだ。


「ううん、強烈なのは本当だから。でも、西森(にしもり)さんも真っ向からはっきり言い返しててけっこう強烈だったよね」

「あー……、私のは勢いっていうか……」

「西森さんは家でもお母さんとあんな風に言い合ってたりするの?」

「ううん。私の母親って男作って蒸発したんだ。だから私に母親なんていないの」


 私の返事を吟味するみたいな間を作り、名波さんはぎこちなく首を捻って瞬きを繰り返す。


 たぶん蒸発したという意味がすんなり入ってこなかったんだと思う。


 まさか液体が気化していく意味での蒸発と間違えてはいないと思うけれど、私があまりにあっさり言い切ってしまったせいで受け止め方に戸惑っているのだろう。


「じ、蒸発って……」

「正確に言うと蒸発とは違うんだけどね。あの女、家のお金ごっそり全部かき集めて『彼ピと同棲始めまーす』って新聞広告の裏に書き置き残して出て行ったんだよ。駆け落ちっていうのかな? お婆ちゃんが蒸発って言ってるから私もそういうことにしたんだ」


 私の説明を聞き入っていた名波さんが今度は身体ごと捻ってジッと見上げてくる。意外なくらい柔軟性のある腰つきは羨ましくなってしまうほど華奢に見えた。


 あまり重苦しくならないように冗談っぽく伝えたからなのだろう、名波さんの視線には真意を探ろうとする色合いが滲んでいた。


「えっと、……だから、この時期に転入してきたの?」

「うんそう。私の学費から翌日の生活費まで根こそぎ持ち去られちゃってさ、私ってお小遣いとかも貰ってなかったからご飯食べることも出来なくなってね。それでお婆ちゃんに連絡とってこっちに越して来たんだ」

「お、お父さんは……?」

「知らない。私って行きずりの男との間に出来たんだって。だから父親もいないよ」

「……な、なかなかハードモードだね。あ、ごめん……」


 なんとか取り繕おうと口にした言葉が思った以上に軽々しく響いてしまったからだろう、名波さんは表情を強張らせながら謝ってきた。


 まあ、こんないまいち笑えない身の上話を聞かされたら仕方ないよね。


「あ、へーきへーき。気を遣ったりしないでいいからさ。ほんと笑っちゃうくらいハードモードだけどもう済んだ話だから。それに、私はあんな奴のこと母親だなんてこれっぽっちも思ってないし。顔も知らない父親に至っては論外だし」


 強がっているつもりなんてなかった。我が身に降りかかった災害だと割り切っていた。どんなに備えていようと天変地異には敵いっこないんだから。


「お婆さんの家に越してきたって、……お婆さんとは、その、……良好、なの?」

「あ、変に気遣わせちゃった? ごめんごめん、心配しないで。お婆ちゃんは私が信頼する数少ない大人だからさ。ほんと、あの男狂いのクソ女の母親とは思えないくらい優しいんだよ」


 お婆ちゃんを信頼しているのは本当だった。お婆ちゃんが優しい人であればあるほど、実の母親の身勝手さが際立ってしまってますます笑えなくなる始末だ。


 とにかくそういった理由から、私は大人を認めない。認めるわけにいかなかった。


 名波さんの母親に猛然と食ってかかったのは、他人の母親相手にやることではなかったかもしれないけれど、どこまでも純粋な反発心からだ。


 私は経験上知っている。

 強く高圧的に押さえ付けてくる大人ほど、結局いざとなったときに助けてなんてくれないことを。


「なんか、踏み込んだこと聞いちゃってごめんね……」


 名波さんがそろそろと前に向き直りしゅんとして肩を落とす。


「いいよいいよ、ほんとに。あー……、じゃあお返しっていうのも変だけどさ、私も気になってること聞いてもいい?」

「うん、なに?」

「……名波さんの、この車椅子について、なんだけど」


 車椅子のハンドルを握る手に、知らず力がこもる。


 ちょうど校門を抜けた私たちに少しだけ湿っぽい風が吹き抜けて、名波さんの癖っ毛と私のピンクを緩くさらった。






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