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「……っ、はい」
驚きだった。
刺々しい印象だった声が毒気を抜かれたみたいに鳴りを潜めていたこともだけれど、なにより私の名前を覚えていたことが信じられなかった。
確かにあの生徒指導室前で嫌味っぽくフルネームを告げていたけれど、ピンク頭で気性の荒い小娘くらいにしか記憶されないだろうと思っていた。
それなのに朱々寧の母親は決して好感なんて持っていないはずの私の名前を記憶していた。
そろそろと様子を窺うみたいに頭を上げた私を見下ろすその視線は、どこか疲れきっていて失礼だろうけれど実年齢よりずっと年老いて見えた。
「……私は、この子の母親として、大人として失格だと思っているの」
その、どこか自信なさげな切り出し方に、私は純粋な衝撃を覚えて目がチカチカした。
「家での朱々寧は、ちっとも陸上を頑張っているような素振りも見せなかったし、どこか遊び半分みたいな態度だった。大事だったろう予選会だって別に見に来なくていいって言われて、……ううん、これは言い訳ね。とにかく私はずっと仕事を優先して朱々寧が晴れの舞台で走っている姿を一度も見なかった。そのうち落ち着いた頃に行けばいい、次のタイミングで調整して見に行けばいいって先送りにしていたの。……そうしたら罰が当たったのね、ある日いきなり、朱々寧が走ってる姿を二度と見ることが出来なくなってしまった」
ゆったり抑揚を感じさせずに語りかけていた朱々寧の母親は、そこで区切って小さく長い息を吐いた。
その息遣いはこちらの心配を増長するみたいに響いて、どうにも気になって上目遣いで様子を窺ってしまう。
そこで視線が絡んだ朱々寧の母親は、わずかに微笑んでいるように見えて私の困惑に拍車をかけてしまう。その反応を望んでいたのか一拍おいて再び口を開いた。
「もっとちゃんと見ておけば良かったって後悔したわ。いまさら虫のいい言い訳にしか聞こえないわよね。けれど朱々寧は、入院中からずっと陸上なんてどうでも良かった、別に走れなくなってもぜんぜん辛くないって、わかりやすい強がりばっかり口にしてたの」
いつの間にか朱々寧の嗚咽は止んでいて、保健室内の息遣いが全て耳に付きそうなほど静まりかえっていた。
自分を犠牲にして嘘を吐き続けていた朱々寧の思い遣りは、学校だけに留まらず自宅ですらその対象だった。
あまりに献身的すぎる心情を思うと、安易にリレーに引っ張り出して参加させてしまった軽率すぎる自分の行動を恥じるしかなかった。
「……だから、朱々寧のそれがただの強がりだってわかるから、母親である私に対してさえ強がってみせる自分の娘から、ついに本心を聞き出すことが出来なかった。だからもう、その強がりを優先させることにしたの。これ以上朱々寧になにも諦めさせたくなかった。もうこれ以上、理不尽に奪われるような人生を歩ませたくなかった。私は出来損ないの母親だったから、せめて朱々寧に二度も挫折を味わわせたくないって考えたのよ」
その言葉の重みは、明らかな質量を伴って私にのしかかってきた。親としての想いと願いの強さで押し潰されそうになってしまった。
「特別なんかじゃなくていい、一番になる必要だってない。これからはただ普通の子でいてほしかった。普通に勉強して当たり前に卒業して人並みの幸せを手にできる、たったそれだけで良いと願った。それなのに、強がるくせに無気力に過ごすばかりで普通にすらなろうとしない態度に焦って苛立ちを募らせてしまった。大人げない苛立ちをぶつけるばかりだった私には朱々寧を前に進ませることが出来なかったのよ。西森さん、あなたはそんな朱々寧の本心と正面から向き合って前に進ませてくれたのね。本当に、頭ごなしに怒鳴ったりして、駄目な大人の姿を見せちゃって、ごめんなさいね……」
視線を上げた私から逃げるみたいに、つむじが見えるほど腰を折って頭を下げた朱々寧の母親の姿を前に、どうしようもない居心地の悪さを感じて狼狽えてしまった。
私の知っている大人はみんな、子供の気持ちなんてお構いなしに自分たちの都合だけで枠にはめ込もうとする勝手な生き物でしかなかった。
まかり間違っても、私みたいな跳ねっ返りに深々と頭を下げて謝罪してくるなんて天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた。
それなのに、朱々寧の母親が紡いだ言葉には、疑いようもなく溢れんばかりの愛情が滲んでいた。
母親からの愛なんてろくに知ることもなく大人を蔑んでいたのに、そのあまりに直情すぎる気持ちは私の心に容赦なく溶け込んできて、沁みた。
「……わ、私、えっと――」
たまらず発した自分の声が、思いがけず湿って震えていて、愕然とした。
あれだけ反発して絶対に聞き入れず認めようとしなかった大人の言葉で、私は涙を流していた。
堪えようとするだけで鼻の奥がツンとして痛かった。
「私は朱々寧がこれ以上傷付かずに済む方、せめて間違っていない方へと導くことばかり考えていたわ。朱々寧が頑なにさらけ出そうとしない本心に歩み寄ろうともせずにね。そんな私じゃ、ついに出来なかったこの子の本心を、本当は走りたいって本当の気持ちを、あなたは導き出してくれた」
「……私、……ほんとに、……ごめんなさい、ごめんなさいっ」
たぶん褒められているのだろう。
けれど、いまの私を支配しているのは罪悪感だけだった。
押し出されるみたいに口から零れる謝罪の言葉と、ぽろぽろ溢れる涙をどうやって止めればいいのかわからなかった。
「ほら、もう良いから。あなたは友達の、朱々寧のわだかまりを解いたのよ。形はどうあれ、それは誇っていいことだわ。それよりもね、女の子がこんな簡単に肌を晒すものじゃないわ」
保健室まで朱々寧を運び込むことに無我夢中だった私は、当たり前だけれど裸足なうえにずっとブラ丸出しの裸だった。
朱々寧の転倒を目の当たりにして、それ以外のことに気が回っていなかったせいで恥ずかしさなんてどこかに吹き飛んでいた。
ふわりと優しく私の肩を撫でてくる朱々寧の母親の手のひらは、しっとりとしていてけれどじんわり温かくて、余計に涙が止まらなくなった。
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