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「……走るって、どこを、じゃなくって、何をどうするつもりなのよ?」
なんとか気を取り直して念入りに咳払いし、由川さんは律儀なくらい怪訝そうに眉をひそめてから問い掛けてきた。
「体育祭のクラス対抗リレーに出よう」
まるで狼狽えることなく私は胸を張って即答したけれど、由川さんのひそめられた眉間の皺が戻らなくなりそうなくらい深くなっただけだった。
「は? そんなこと出来るわけないでしょ?」
「どうして? やっぱり由川さんは、朱々寧が走れるとは思っていないってこと? やるだけ無駄だって、走れるわけがないって思ってるの?」
「いや、そういう意味じゃなくって、常識的に考えて――」
「それが常識的かどうかなんて考えなくていいじゃん」
「ええ……?」
「普通に走れるわけがないとか、いま私が聞いてるのは、やりたいかどうかだよ? クラス対抗リレーで走りたいかどうか。普通だの常識だのなんて後から考えれば良くない?」
「……っ」
道理を踏んづける私の暴論に由川さんは絶句してしまう。
「なにも問題ないよ、朱々寧は走れる。それにこれは、私と由川さんの勝負の延長でもあるんだから」
「……勝負の延長?」
「うん。今日、本気で走ってやっぱりわかった。由川さんの言う通り今の私じゃ、私だけの力じゃどう頑張っても勝てない。だから条件を変えさせてほしい。体育祭のクラス対抗リレーでバトンを繋いで、朱々寧が一位でゴールしたら私と一緒に陸上部の復活を手伝ってほしい」
たぶん、これまで見てきた中で一番、由川さんの表情が困惑一色に染まった。
それは紛れもなく、私の発している言葉の意味にまったく理解が追い付かない現れだった。
「……なにを言ってるのよ?」
「由川さんは、朱々寧に走れるわけがないって思ってるんでしょ? だから、ちゃんと朱々寧は走れるって証明してあげる。そのうえで一位になれば私の勝ち」
「いや、意味がわからないわ……? それなら今日みたいに、西森さんが勝てるまで何度でも競争すれば良いじゃない?」
「それじゃダメだよ、由川さんの後悔が晴れないから」
「……私の、後悔?」
「そう。朱々寧がもう走れないと思い込んで、二度と果たせないと諦めてしまってる、バトンを繋げなかった後悔。それに晴らすためには由川さんにもクラス対抗リレーに出てもらわないと意味がない。朱々寧が一位になれるように第一走者でスタートダッシュを決めて圧倒的なリードを稼いでほしい」
「ちょ、ちょっと待って。情報が多すぎてパンクしそうっ。……どうして私と西森さんの勝負なのに、同じチームメンバーとしてクラス対抗リレーに出ることになるのよ?」
今にもショートカットの髪を掻きむしりそうな勢いで由川さんは頭を抱えてしまう。
「それが全部まとめて手っ取り早いからだよ」
「手っ取り早い……?」
「由川さんが第一走者でバトンを託し、私がそのバトンを本気で走って朱々寧に届ける。そして朱々寧がちゃんと走れることを証明して一位でゴールテープを切る。これで私たち全員のリレーに関わる後悔を上書き出来る。一発で片付く唯一の手段でしょ。うん、これしかないよ」
呆れ果てたのか返す言葉をなくした由川さんは愕然と瞬きを繰り返す。
対照的に、朱々寧はただ黙ったままジッと真剣な表情でまっすぐに私を見つめてきていた。
「朱々寧が病院に運ばれた予選会の日、由川さんは全力でバトンを届けるつもりだったんでしょ? アンカーの朱々寧へバトンを託したかったんでしょ?」
だらしなく開いていた唇をきつく結び直した由川さんは、頑なに私の質問を受け入れようとしない。ほんのうっかりでも、絶対に頷かないように気を張っているその姿こそが疑う余地もなく肯定しているのに。
「朱々寧、陸上に興味なかったなんてただの強がりだよね? 由川さんの失言をせめて薄れさせるためにみんなの前で吹聴してただけだよね? まったく興味がなかったならそもそも続けるはずがないんだから。本当は陸上が好きだったんだよね?」
「どうしてそんな――」
「由川さんのスタートダッシュは一番速かったって朱々寧が言ってたんだよ。全幅の信頼を置いてるからこそアンカーの自分は普通に走るだけでいいって思ってたんでしょ? 由川さんが誰よりもやり過ぎなくらい練習してることも、400mリレーで全中出場を目指してることも全部知ってたじゃない。本当は由川さんから託されるバトンを一番にゴールに運ぶつもりだったんでしょ? 陸上が好きで、同じくらい由川さんのことも好きで、興味なかった人の口からは出てこないんだよそんな台詞っ」
なにか口を挟もうとした朱々寧を遮って一息に言い切る。
圧倒されて上体を仰け反らせる朱々寧は、制服ごと胸元を握り締めて唇を震わせていた。
「ほんとひどいなぁ、依乃里ちゃん……。そこまで言い当てられたら、もう強がって否定も出来ないじゃん……」
それまでずっと私のことを見つめていた顔を伏せて、朱々寧は唇だけじゃなく声まで震わせながら独り言みたいに零す。
「私も、自分可愛さに諦めて真剣に走らなかった、不完全燃焼で終わった後悔は同じリレーでしか上書き出来ない。他の何かじゃダメなんだ。だから私たち三人がこの後悔を晴らすため、体育祭のクラス対抗リレーで想いを託したバトンを繋ぐ。おあつらえ向きだと思わない?」
語尾だけ軽い調子で持ち上げて、私は正座を崩してあぐらをかきながら首を傾げてみせる。
平気なフリをしているけれどさすがに脚が痺れて、いま下手に触れられたら悶えてのたうち回りそうだった。
「仮にクラス対抗リレーで走るとして、そんなの私が手を抜くとか考えないの? 西森さんを勝たせないために……」
「大丈夫。由川さんはそんなことしない。手を抜いて走るなんて卑怯なことはしない」
「どうして言い切れるの――」
「今日だって何度走っても勝てない私に対して、ただの一度だって手を抜かなかったじゃん。由川さんは走ることに不真面目な人を許さない。それは自分自身も同じなんでしょ。だからどんな状況だろうと絶対に手を抜いて走ったりしないよ」
私の断定に心が動いたのか、それともただ呆れ疲れてしまったのか、由川さんは小さく顎を引いて視線を外すとそのまま朱々寧を見下ろす。
「……朱々寧、今度こそちゃんと聞かせて。陸上、好きなのよね?」
「うん。好きだよ」
「走りたいのよね?」
「……うん。走りたい。もう一度、走りたい」
「スタートから私が託すバトン、一番にゴールへ届けてくれる?」
「うん。あの予選会の日に出来なかった香奈の想いのこもったバトン、私が絶対に一位でゴールに運ぶからっ」
だんだんと朱々寧の声が熱を帯びて強い意志が滲んで見えた。
埃っぽいグラウンドの端っこで、一度は燻ってしまった私たちの青春が再び燃焼をはじめた。
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