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 朱々寧(すずね)が八回目のスタート合図で腕を振り下ろした直後、私は踏み出したはずの足が付いてこずに前のめりにすっ転んだ。


 勢い余って前転する格好になり、背中から受け身も取れずに叩き付けられた。


 もしかすると九回目だったかもしれないけれど、もはや回数なんて気にしていられる余裕はなかった。蓄積された疲労が限界を迎えていた。


 コース上で大の字になって私は空を見上げて胸を上下させる。


 突き抜けるみたいに青く晴れ渡った空には雲一つなく、吹き抜けていくわずかな風は少しだけ埃っぽいけれど気持ちいい。ただ、止めどもなく吹き出す汗で濡れた背中だけがひんやり冷たくて不快だった。


「……大丈夫?」


 戻ってきた由川(よしかわ)さんが倒れた私を見下ろしながら肩で息をしている。


 何度となく競争しても息一つ乱していなかった由川さんでも、さすがにここまで立て続けにダッシュを繰り返せば疲れるんだな。額に浮かんだ汗の粒が眩しく見えてしまう。


「ち、ちょっと、だけ……、休憩、させて……っ」


 息も切れ切れに唇を動かして伝えた私はちょっとだけと懇願しつつも、たぶんちょっとやそっとでは立ち上がれそうになかった。


「無茶しすぎよ……」


 心配そうな表情でため息を吐いた由川さんは、無茶をしすぎているとわかっていながら、ただの一度として手を抜くことはなかった。


 勝てるまで何度だって走ると宣言した私に狼狽えていたくせに手加減だけは絶対にしない。

 わざとでいいから、たった一回だけ負けてみせればそれで終わる条件だったのに。

 恨めしく思いながらも、それでこそ由川さんらしいとも感じていっそ清々しかった。


依乃里(いのり)ちゃん、大丈夫……?」


 車椅子を漕いで私の側まで近付いてきた朱々寧がそろそろと顔を覗き込んでくる。


「ぜ、ぜんぜん、平気だよ。すぐに、次の準備、するからさっ」


 大の字に倒れたまま首だけ動かして笑顔を返すと、


「……これ以上やっても無駄よ」


 ごにょごにょと語尾を濁らせながら由川さんが独り言みたいに零した。


「そんなこと、ないよ。まだ、私の本気は、これからだからっ」

「ごめんだけどはっきり言うわ。今の西森(にしもり)さんじゃ私には勝てないわよ……?」

「じゃあ、どうしたら、そんなに速く、走れるのか、教えてっ」

「教えてって、時間をかけてしっかりトレーニングして――」

「時間なんか、かけてられない。だから、勝てるまでやる」

「……どうしてそこまで――」

「勝ちたいからだよっ!」


 困り果てた様子で眉尻を下げる由川さんを遮って、私は駄々をこねる子供みたいに叫んだ。


「どうしても勝ちたい。いま由川さんに勝って、陸上部を復活させて、……今度こそ、私は本気で走って陸上をやりたいって思ったんだよっ」


 やっと息が落ち着いてきて、なんとか上体を起こして二人を仰ぎ見る。まさしく棒のようになってしまった脚はまだ動かせそうにない。


「……やってたんでしょう陸上、中学の時に」

「うん。でも、由川さんと走ってみて、すぐに気が付いた。ううん、違うな。思い知らされた。私がやってたのは陸上なんかじゃなかったって」


 含みを持たせた私の言い回しに二人がそれぞれ釈然としない表情を浮かべる。揃って口を開かないので先を促されているものと解釈して続ける。


「私、二人からそれぞれ中学時代の話を聞き出したよね? だから今度は、私の話を聞いてほしい。あ、先に断っておくけど、二人に比べたらぜんぜん深刻な話じゃないから」

「……うん、聞かせて」


 思いがけず低く紡がれた声音は朱々寧のものだった。


 根掘り葉掘り興味本位だけで自分の過去に首を突っ込まれた腹いせ、というわけではないことくらい私でもわかる。


 あの生徒指導室の前で朱々寧と腹を割って話したときと同じ、きちんと話を聞くよと暗に態度で示しているに違いない。由川さんも朱々寧に習うみたいに小さく顎を引いて頷く。


 練習コースに座り込んだ姿勢の私に穏やかな風が吹いてピンクが揺れる。


「私って、すごく小さい頃から走ることが好きだったの。走ることに限らず運動全般、身体を動かすことが好きだった。球技はまるっきり駄目だったけどね。小学校のクラブ活動から陸上を選んでとにかくいつも走ってた。二人だって似たようなものでしょ?」

「……そうね。本格的ではなかったけれど、陸上競技に触れたのは小学校からだったわ」


 律儀に答えてくれた由川さんに合わせるみたいに朱々寧も視線だけで頷く。


「中学に上がってもちろん陸上部に入部した。だけど、私は単純に走ることが好きだっただけで記録を更新したいとか、全中出場だなんて大それた目標があったわけじゃなかった。そんな私におあつらえ向きに、中学の陸上部は誰一人として真面目に取り組んでる人はいなかったんだ。……まあ、その事実に気が付くのはもっと後からなんだけどね」

「真面目に取り組んでる子が一人もいなかったの?」


 驚きの中に不愉快そうな色を滲ませて、由川さんが信じられないとばかりに口調に棘を含ませる。本当に陸上を真面目にやらない人の存在が許せないらしい。






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