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 あまりに度を超えた驚きを前にして、うまく喉から声が出てこなかった。


 突然、そんな漫画みたいな状況に自分が立たされるだなんて想像もしていなかった。


 ほんのわずかに、むしろ一縷の望みとして朱々寧(すずね)の冗談ではないかと思いたかった。


 けれど、さすがにこの状況でそんな笑えない冗談を言うような子じゃない。


 私はこれまでの人生においてどんな分野であろうと、全国で活躍するような実力を有した人物と巡り会ったことがなかった。

 それは私の生き方に問題があるようなことじゃないはずだし、偉大な人物と巡り会えるかどうかは運みたいなものだと思っている。


 そんな中で、生まれて初めて目の当たりにした全国レベルで活躍していた人物が目の前の朱々寧だった。そんな人物が現実に存在することに直面して言葉を失ってしまう。


 そして同時に、膝から太腿をゆっくりと撫で続ける朱々寧を見下ろして、やるせない気持ちが疼いた。


 だって私の目の前にいる朱々寧は、車椅子に座っている。車椅子を必要とする生活を余儀なくされているのだ。


 100mだけに限った話ではなく、陸上は身体を、脚を使う競技がほとんどだ。むしろどんなスポーツであろうと運動する以上は脚を使うに違いない。


 そんな陸上競技で県の記録を塗り替えた実力を持っていた朱々寧にとって、要であるその脚が動かなくなってしまう絶望感はどれほどのものなのだろう。まったく想像できなくて途方に暮れてしまう。


「……え、待って。生徒指導室の前で朱々寧のお母さんが言ってた『推薦を取り下げてこの高校を受験した』って、もしかしてスポーツ推薦だったの?」

「うん、そうだよ。県の記録を塗り替えてから、陸上に力を入れてる高校の監督さんからいっぱい声かけられてたんだ。そのうちの一校へ推薦が決まってたんだけど、……走れなくなっちゃったらね。ママは抗議してたんだけど、さすがに推薦は取り下げるしかなくなったんだ」

「それ、は……」


 さらなる高みを目指せることを見越しての推薦なのだ。けれど、ここまで明確に走ることが適わなくなってしまっては致し方ない処置と思うしかないのだろう。


 でもそれは、大人の事情だ。身勝手な大人側だけの事情だ。


 いつだって私たち子供は大人の事情に振り回される。

 足繁く通い詰めて甘い言葉で色々なメリットを提示して朱々寧のことを口説き落としたくせに、走れなくなった途端に切り捨てたんだ。

 いや、切り捨てた事実すら認めず自主的に取り下げさせたんだ。


 もしかすると、そこには様々な葛藤や問題があったのかもしれない。

 大人たちの間で、私なんかの想像も及ばない苦渋の決断を経て現在に至っているのかもしれない。


 それでも、朱々寧の現状と、見切りを付けた事実が覆るわけじゃない。


 大人の勝手を目の当たりにし、はらわたが煮えくり返る苛立ちを抑えるため、奥歯が欠けてしまいそうなくらい噛み締める。

 それだけじゃ到底足りず、手のひらに爪が食い込みそうなくらい硬く握り締めて震わせる。やるせなさを痛みで上書きするしか出来ない自分にますます苛立ちを覚えてしまう。


「まあ推薦の話はそういうことなんだけど、話を戻すね」


 怒り心頭な私の様子を察したのか、朱々寧は宥めるために腕を上下させて見せて、私の返答を待つことなく小さく咳払いして続ける。


「400mリレーは標準記録とかなくって、単純に一番になったチームが全中出場権を勝ち取るルールなんだよ。それで陸上部の中でタイムの速い子から順に選抜されたんだ。集められた四人のメンバーで勝利を目指そうって奮い立ってるみんなを余所に、私は頑張――、らなかったんだ……。うん。私は頑張ってなかった」


 歌うように軽快に語っていた朱々寧が、不意に表情に影を落として弱々しく語尾を曇らせる。


「いや、頑張ってたから選ばれたんでしょ?」

「ううん、私は頑張ってなかったんだよ。……それで、そんなつもりじゃなかったのに巡り巡って、……香奈(かな)に誤解されちゃったんだよ」


 首を振って頑張ってないと言い張る朱々寧は頑なだった。


 それなのに由川(よしかわ)さんの名前を口にする寸前、わずかに逡巡する仕草を覗かせて肩を窄ませる姿は車椅子の上で小さくなってしまったように見えた。


「……ごめん朱々寧、順を追って説明してもらってもいい?」


 私は車椅子の前にしゃがんで朱々寧と視線の高さを揃えて問い掛ける。


 正直なところここまでして聞き出すべき話なのかと疑問は抱いていた。朱々寧にとってはまず間違いなく、嫌な思い出でしかないはずなのだから。


 それでも由川さんとの確執を目の当たりにし、おかしな使命感を振りかざして中途半端に首を突っ込んだのだ。


 そこまでしておきながら自分の手では持て余してしまう問題だと気が付くなり、首を捻って知らん顔を決め込むのはあまりに誠実ではない気がした。






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