28
「おはよう依乃里ちゃん。……昨日、どうだった?」
翌日、よほど私と由川さんとの勝負の行方が気になっていたのだろう、普段より少し早く登校してきた朱々寧が車椅子を席に滑り込ませるなり小声で訊ねてきた。
私のご機嫌を伺うみたいに控えめな上目遣いで瞬きを繰り返す仕草から、気になっているのが勝負の『結果』ではなく『行方』なのだと物語っていた。
由川さんと同中で何らかの関わりがあった朱々寧は、その実力のほどまで知っていたに違いない。
つまり、私では勝てないと目星を付けていたのだろう。
「あー……、ぜんぜんダメだった。由川さん、めっちゃ速かった」
朱々寧の声音に合わせるみたいに私も囁くほどの声量で口に手を添えて返す。
どう予想されていようと腹も立たないくらいの完全敗北だったのだから、いまさら八つ当たりなんて見苦しい真似をする気にもならない。
「でしょう? それで陸上部は復活できそうなの?」
「あー、いやー……、それがー……」
「……うん? え、断られたの?」
朱々寧としてはきっと、勝負の結果がどうあれ陸上部復活の話は進むものだと予想していたに違いない。
昨日も帰り際にそのようなことを言っていたし、確かに一時は由川さんも乗り気になりかけてもいた。
煮え切らない私の返事を耳にして戸惑いの表情を浮かべる朱々寧の耳元に口を寄せ、
「みっともないんだけどさ、余計に由川さんのこと怒らせちゃったみたいで……」
限界までひそませた声を吐息に乗せると朱々寧はくすぐったそうに首を竦めた。
「……なにがあったの?」
「いやぁ、なにって言うか……」
おそらく全ての選択を間違えた自分の失態を思い返して苦々しく顔をしかめながら、教室前方の席の由川さんを仰ぎ見る。
私たちの席からだと背筋を伸ばし凜として座っている背中しか見えないし、これだけ声をひそめていればまさか聞こえるなんてあり得ないだろう。
まさか素知らぬフリをして聞き耳を立てられたりしてたらわからないけれど、昨日の由川さんの蔑みきった視線を思い出すかぎり私への興味なんて爪の先ほども残っていないだろう。そんな私の発する言葉に関心なんて示すはずがない。
「んー、ちょっと後で話そう」
すぐにホームルームが始まりそうだったし、聞かれていないだろうとはいえやっぱり由川さんがいる空間でお喋りすることに気が引けてしまった。
そのまま授業が始まったけれど、当たり前ながらクラスメイトの由川さんが都合良く教室内からいなくなることなんてなかった。
なかなか話すチャンスが訪れないまま時間だけが過ぎて三限目が終わり、次は午前の授業最後となる体育だった。
クラスメイトたちは着替えるために更衣室へと移動を始め、由川さんも休憩時間になるなりさっさと教室を出ていった。これはチャンスだ。
「ごめん朱々寧、今朝の続きなんだけどっ」
すぐに体を捻って後ろに振り返り、朱々寧に覆い被さる勢いで昨日の話の顛末を掻い摘まみながら早口で伝えた。
「――ってわけでね、勝負は私の完敗だったんだ。それで由川さんからもう一回走ろうって誘われたのに私が余計なこと言っちゃって……」
「余計なことって?」
「私はただ走るのが好きだっただけで、由川さんみたいに本気で陸上やってたわけじゃない、って言ったら、期待した私が馬鹿だったって……」
「あー……、それは、うん……」
朱々寧が天を仰ぐみたいに視線を持ち上げながら掠れ声を漏らす。
てへぺろ、なんて舌でも出してウインクの一発でも決めたいところだけれど、私たちはお互いに由川さんに冗談が通じないことを知っているため冗談めかす余裕もなく溜息を零す。
「まあ、それで陸上部復活の話はうやむやになったんだけどね。話したいことはそれじゃないんだ。話したいことっていうか聞きたいことだけど」
「聞きたいこと? 私に?」
「うん。走り終わってすぐに、中学の時に由川さんが陸上部を辞めてるって朱々寧から聞いたって話をしたら、アイツの言ったことなんか気にしないでっていかにも確執がありそうな感じだったんだよ。で、なにかあるの?」
私からの歯に衣着せない質問を前に、朱々寧はまるで叱られたみたいに居住まいを正して視線を逸らす。
昨日の由川さんもだけれど二人揃って隠し事が下手すぎだと思う。
それとも、たったそれだけのことで平静さを失ってしまうほどの確執があったということなのだろうか。
「香奈――、……あの子は、なんて言ってたの?」
「由川さん? 別になにもないって突っぱねられたから何も聞けてないよ」
「……まったく何も、聞いてないんだよね?」
「うん。ていうか、どういうことなの? なんだかわかんないけど、由川さんが陸上部を辞めた原因って朱々寧が関わってるんだよね?」
「……ごめんね。あの子が言わなかったなら、私から言うべきことじゃないと思う」
「えー、なにそれ? お互いに言わないとか気になるじゃん」
「本当にごめん。依乃里ちゃんが気にするような大した話じゃないから……」
朱々寧は眉尻を下げて困りきったみたいな笑顔で頬を引き攣らせ、
「ほら、早く着替えないと授業始まっちゃうよ?」
黒板のうえに掲げられた質素なアナログ時計を指し示す。
うっかり話し込んでしまったせいで教室内には私たち二人以外の姿はなく、朱々寧の指摘通り次の授業まで残りの休憩時間はわずかだった。
「うわっ、やばっ」
転げそうな勢いで慌てて荷物を手に教室を飛び出す私に、貼り付けたみたいな笑顔の朱々寧がひらひらと手を振っていた。
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