25
私以外には誰もいない更衣室で体育着へと着替える。
窓越しに運動部の声出しや気の早い吹奏楽部の音出しがのんびりと響いて聞こえる。
中学まではそれが当たり前だったのに、放課後に運動するために着替えるという行為がとても懐かしく思えた。更衣室を出た私はちょっぴり心躍る気分でグラウンドを目指した。
野球部やサッカー部の男子たちが練習する様子を眺めながらぐるりと迂回してグラウンド端の練習コースに辿り着くと、私と同じく体育着に着替えた由川さんが大きく脚を開いて柔軟体操をしていた。
「遅かったわね。すっぽかされたのかと思ったわ」
ほんのわずかに私を一瞥して、そんな嫌味を口にしながら開脚したままぺたりと前屈する。
細身の引き締まった由川さんの身体は薄いのに健康的な張りを感じさせ、その柔軟性からもしなやかという表現がぴったりに見えた。
「すっぽかしたりしないよ、せっかくの勝負だもん」
何に対する対抗意識かは自分でもわからないけれど、足の爪先を地面に付けて足首をぐりぐり回して見せる。
ぺたりと前屈したままの由川さんはまるで見てもいない。
柔軟を終えて立ち上がり軽くぴょんぴょんと跳ねて屈伸しながら、
「私から走って勝負って言っちゃったけど、あなたって陸上はなにをやってたの?」
やっと私に視線を寄越して由川さんが訊ねてきた。
準備運動で身体が温まってきたからなのか、学級会で突き付けられた研ぎ澄まされた刃物を彷彿とさせる鋭さは感じられなかった。
「私が通ってた中学って顧問教師が未経験の素人だったから、みんな短距離走だったんだよ」
「そう。じゃあ距離はどうする? あなたの得意な距離でいいわよ」
「いいの? だったら100mで」
「わかったわ」
表情を変えることなくあっさりと答え、練習コースへと視線を移した由川さんからの申し出に私は内心でほくそ笑んだ。
ひょっとすると顔に出てにやけてしまっていたかもしれない。
なにしろ私は、ほんの少しだけれど脚には自信があった。
いや、少しなんてものじゃなく、かなり自信があった。
私は中学三年の時点で100mのタイムは陸上部内で一番だった。
ただもちろん校内において一番だっただけで、いわゆる標準記録に到達したことなんてなかったし、中学三年間で学区内の予選会を勝ち抜くことも出来なかった。
それでも、たとえどんなに小さな括りであろうとも一番速かった事実は私の密かな誇りだった。自己ベストを更新した瞬間には湧き上がる達成感みたいなもので胸がいっぱいに満たされもした。
だから私は、負ける気なんてしなかった。
由川さんも中学時代に陸上部だったと朱々寧が言っていた。真剣に取り組んでいたとも聞いた。こんな陸上部が廃部になってしまうような高校じゃなく、もっと別の高校に進学することも出来たはずだとも聞いた。
けれど、それだったら私だって同じだ。
走ることが大好きだったし部活は真面目にこなしていた。進学先に選んだ高校だって陸上競技を含め部活動に力を入れていると謳っていた学校を受験した。
残念ながら母親もどきのクソ女のせいで一ヶ月しか通うことはなかったけれど。
由川さんの実力のほどはわからない。でも、私には揺るぎない自信があった。勝負事はなにより気持ちが大切だ。意気込みが足りないようでは勝負する前から負けているも同然だ。
「スタートの合図はどうする?」
「あなたが声をかけてくれていいわよ。声を出すと調子が狂うなら私が合図するけど」
「……わかった、じゃあ私が合図するね」
練習コースのスタート位置に並んで立ち、ぶっきらぼうにスタートの合図すらも委ねてきた由川さんに驚いてしまう。
スタートの合図を自らのタイミングで切れるのはとんでもなく有利な条件だ。
普通はスターターピストルに合わせて一斉にスタートを切るので、コンマ一秒の差を争うスタートはタイミングを計ることに全神経を集中するのだから。
そのスタートのタイミングを私に委ねるだなんて、由川さんは思ったよりずっと素人か、逆によほど脚に自信があるのか、もしくは私が侮られているかだろう。
いずれにしろ、私の闘争心に静かに火が付いた。
「じゃあ、始めましょう」
「うん。……位置について」
小さく息を吐き、由川さんが顔を上げてゴール地点を仰ぎ見る。
「よーい」
私の合図に合わせ二人並んでクラウチングスタートの姿勢を取り、
「――スタートッ」
完璧すぎるスタートが切れた。
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