EP 4
4LDKシェアハウスの聖母? 安全靴の亡命姫キャルル
帝都の西側、中流貴族や裕福な商人が住まう閑静な住宅街の一角に、その瀟洒な魔導マンションは建っていた。
オートロックのガラスエントランスを抜け、エレベーターで上がった最上階の角部屋。
表札には『401号室』とだけ記されている。
「ここですわ、リオン様! 私たちが肩を寄せ合って生きる、愛と絆の4LDKシェアハウスですの!」
芋ジャージ姿の自称・地下アイドル人魚姫リーザが、胸を張って鍵穴に真鍮のキーを差し込んだ。
俺——アルディス外れ交番の巡査長、リオン・フォン・アルディスは、制服の襟を正しながら警戒を緩めていなかった。
「愛と絆ねぇ……。さっき交番では『滞納したら笑顔で骨を折られる』って泣き叫んでたすがりついてきたくせに、随分と前向きな評価だな」
「そ、それはそれ、これはこれですわ! キャルルさんは普段は慈愛に満ちた聖母のような方なんですの! ただ、ちょっとばかり嘘とお金の滞納に厳しいだけでして……!」
ガチャリ、と重厚なドアが開く。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、俺の鼻腔をくすぐったのは、香ばしい焼き菓子の匂いと、微かに漂う上質な薬草の香りだった。
だが、その穏やかな生活感とは裏腹に、土間に整然と揃えられていた履き物に俺の目は釘付けになった。
——ごつい。
鋼鉄の先芯がこれ見よがしに埋め込まれ、分厚いビブラムソールに魔導補強プレートが噛まされた、見るからに質量兵器じみた黒革の靴。
「……おいリーザ。あの玄関の靴、ホームセンター『タローマン』のプロ仕様コーナーで売ってる『タローマン特注・重作業用安全靴(対ドラゴン踏み付け強化型)』じゃないか?」
「ええ! キャルルさんの愛用シューズですわ!」
「妙齢の女子の玄関に置いていい靴の質量じゃねえだろ……」
俺が思わず引いていると、奥のリビングからバタバタと小気味よい足音が近づいてきた。
「おかえりなさい、リーザちゃん! 遅かったから心配して——」
リビングの扉から姿を現したのは、息を呑むほどに美しい少女だった。
頭頂部からピンと生えた、白く柔らかな二本の兎耳。
腰まで届くプラチナブロンドの豊かな髪に、ルビーのように澄み渡った真紅の瞳。
エプロン姿で、手には可愛らしい人参柄の刺繍ハンカチを握りしめている。
元レオンハート獣人王国第三姫君にして、近衛騎士隊長候補——キャルル・ムーンハートその人である。
「……あら? そちらの方は……帝都のお巡りさん、ですか?」
キャルルが小首をかしげ、不思議そうに俺を見つめる。
その瞬間、リーザが滑り込み土下座の姿勢で廊下に額を擦り付けた。
「ごめんなさいキャルルさん! 今月の家賃、金貨3枚……どうしても用意できませんでしたのーッ! でも私、遊んでいたわけではありません! 悪徳スカウトマンに騙されて危うくマグローザ漁船行きになりかけたところを、このリオン巡査長様に救っていただいたのですわ!!」
「……え?」
キャルルの紅い瞳が、すっと細められた。
彼女はゆっくりと土間へ歩み寄ると、靴を履いていない素足のまま、音もなく俺の目の前へと歩み寄ってきた。
ふわっ、と甘い人参スコーンの匂いが鼻先をかすめる。
だが、距離が近すぎる。
胸が触れ合いそうな至近距離で、キャルルは長い兎耳をピクピクと細かく震わせ、俺の左胸——心臓の鼓動にじっと耳を傾けた。
(……耳で、俺の心音を聴いてるのか……?)
トクン……トクン……トクン……。
元社畜営業として、そして天使長ヴァルキュリアの地獄の特訓を生き抜いた俺の心肺機能は、極めて規則正しいリズムを刻んでいる。嘘や動揺による乱れは一切ない。
「…………」
数秒の沈黙の後、キャルルはスッと顔を上げた。
その陶器のような白い頬が、ぽっと薔薇色に染まる。
ルビーの瞳が、蕩けるような熱を帯びて潤んでいた。
「……嘘を、ついてない……。一つの不純な乱れもない、どこまでも澄み切った、誠実でまっすぐな鼓動……♡」
「えっ?」
「素敵……こんなに綺麗な心音の殿方に、私、生まれて初めて出会いました……♡」
「ちょ、ちょっと待ってくださいキャルルさん!? 初対面の男の胸に耳当てて何言ってんの!?」
一歩後ずさる俺に対し、キャルルは両手を胸の前で組み、うっとりとした表情で一歩詰め寄ってくる。
ヤンデレだ。
間違いなく、愛が重すぎて相手を窒息させるタイプの美少女だ!
「コホン! ……失礼いたしました。取り乱してしまいましたわ」
キャルルはコホンと可愛らしく咳払いをすると、人参柄のハンカチで口元を押さえ、上品なお辞儀をして見せた。
「初めまして、お巡りさん。私はキャルル・ムーンハートと申します。我が家の問題児が、大変なご迷惑をおかけしたようですね」
「あ、ああ……巡査長のリオン・フォン・アルディスです。リーザの言っていた通り、彼女は詐欺事件の被害者でしてね。交番の支給品カツ丼で保護し、悪徳スカウトマンは先ほど現行犯逮捕して本部に突き出しました」
「まあ……! リーザちゃんを助けてくださったのですね。本当にありがとうございます」
キャルルは深々と頭を下げた後、廊下にへばりついているリーザへと視線を落とした。
その瞬間、聖母のような笑みがすっと消え失せ、冷徹な大人の顔になる。
「……でもリーザちゃん? 騙されたのは同情しますけれど、家賃の滞納は契約違反です。私たちのシェアハウスのルール、覚えていますわよね?」
「ひ、ひぃぃっ! 『家賃の滞納は、命の労働または骨折で支払うこと』……!」
「分かっているなら話が早いです。さあ、奥の道場で私の『月影流・鐘打ち』を受けていただきますね♡」
「待て待て待て! 笑顔で骨折を執行しようとするな!」
俺は咄嗟に割って入り、キャルルの肩を押さえた。
その華奢な肩の奥に、鋼のような筋肉と凄まじい闘気が秘められているのが手に取るように伝わってくる。
こいつ、本物だ。素手で魔導戦車を叩き割れるレベルの武闘派だ!
「リオン様……! どうかお止めにならないでください。彼女の甘えを許すのは、彼女のためになりませんの」
「いや、止めるのが警察の仕事だ! それにリーザはさっき、犯人の隠し口座と不当利益をお賽銭掃除機で全額回収するファインプレーを見せたんだ。事件解決の協力金として、俺のポケットマネーから今月分の家賃を立て替える」
「えっ!? リオン様が……!?」
リーザが涙目で顔を上げる。
俺はため息をつきながら、財布から金貨3枚を取り出してキャルルの手のひらに乗せた。
手取り十六万の小市民公務員にとって、金貨3枚(約三万円)の出費は血を吐くほど痛い。だが、目の前で女子高生相当の未成年が骨を折られるのを見過ごすわけにはいかない。
「ほら、これで今月分の家賃は決済完了だ。文句ないだろ?」
「…………」
キャルルは手のひらの金貨と、俺の顔を交互に見つめた。
そして——再びトクン、と跳ね上がった俺の心音を聴き、ぽろぽろと大粒の涙を瞳から零し始めたのだ。
「う、嘘……。見ず知らずの他人のために、身銭を切ってまで守ってくださるなんて……。なんて自己犠牲に満ちた、尊いお方なのでしょう……っ!」
「いや、そこまで大袈裟な話じゃ——」
「決めましたわ。リオン様、貴方は今日から、私の『運命の人』です♡」
「重い! 家賃3枚で背負わされる運命が重すぎる!!」
ドンッ、と玄関の外から鈍い地響きが轟いたのは、まさにその時だった。
「た、助けてくれぇぇぇっ! キャルル様はいらっしゃるかァッ!?」
悲鳴と共に、血まみれの男が転がり込んできた。
帝都の下町で鍛冶屋を営んでいるドワーフの親方だ。右腕が不自然な方向に折れ曲がり、脇腹からは大量の血が噴き出している。
「親方さん!? どうされたのですか!?」
「工房の魔導炉が暴走しちまって……! 鉄骨の下敷きになっちまったんだ! 帝都の大病院じゃ治療費に金貨百枚要求されて……もう俺には、ここしか頼る場所がねぇんだよぉっ!」
致命傷だ。今すぐ手を打たなければショック死する。
俺が救急要請のために通信機に手を伸ばそうとした瞬間——キャルルが動いた。
「動かないで。今、治します!」
キャルルは迷うことなくドワーフの血溜まりの中に膝をつき、両手から眩いばかりの銀色の光——『月光』のマナを迸らせた。
光がドワーフの傷口を包み込んだ瞬間、砕けた骨がゴキゴキと音を立てて整復され、引き裂かれた筋肉と皮膚が急速に再生していく。
「ぐ、おおおおっ……!? 傷が……痛みが消えていく……!?」
「『月光再生療法』——傷よ、我が身へ還れ!」
カハッ! と、キャルルの口から鮮血が吐き出された。
「キャルルさん!?」
俺は叫んだ。
彼女の治癒魔法は、相手の傷と痛みを自分の生命力で肩代わりしながら急速治癒させる、自己犠牲の極致のような術式だったのだ。
ドワーフの親方の傷が完全に塞がり、意識を取り戻すのと引き換えに、キャルルの顔色は紙のように真っ白になっていく。
「げ、元気になった……! 嘘だろ、骨まで完全にくっついてる! あ、ありがとうよキャルル様! 治療費はいくら払えば——」
「いりません……っ」
キャルルは口元の血を人参ハンカチで拭い、弱々しく、だが凛とした笑顔で首を振った。
「お代は結構です。貴方が無事でいてくだされば、それだけで……十分ですから……」
「か、神様だ……! キャルル様は本物の聖女様だぁっ!」
ドワーフの親方は涙を流して拝み倒し、何度も頭を下げながら帰っていった。
静まり返った玄関で、キャルルはその場に力なくへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……。よかった、間に合って……」
「よくないだろ! 血ィ吐いてるじゃないか! なんで無償でそこまで無茶をするんだ!?」
俺が駆け寄って彼女の背中を支えると、キャルルは弱々しく微笑みながら、胸ポケットからペラペラの紙切れを取り出した。
「私……元はレオンハート王国の姫でしたけれど……民を救えない王族の欺瞞が嫌で、国を捨てて亡命してきたのです。持っている特許料や村長手当で年収は一千五百万円ほどありますけれど……貧しい人々の無償治療と、自警団の活動費に全部寄付してしまって……」
「年収一千五百万の超エリートが、なんで金貨3枚の家賃に困ってんだと思ったら……!」
「手元には……ファミレス『ルナキン』で食べる、週に一度のイチゴパフェ代しか残らないんですの……えへへ……」
へにゃり、と力尽きて俺の胸の中に倒れ込んでくるキャルル。
トクン、トクン、と彼女の耳が俺の心音に触れる。
「リオン様の鼓動……やっぱり、とっても温かいです……♡ 怒ってくださるのも……私を心配してくれているからだって、心音が教えてくれます……♡」
「……ったく。お前ら、どいつもこいつも極端すぎるんだよ」
俺はため息をつきながら、キャルルを軽々と横抱きに抱き上げた。
前世の社畜時代、過労で倒れるまで働いていた自分を思い出す。身を削って他人に尽くす人間を、俺はどうしても放っておけないのだ。
「リーザ、給湯室……じゃなくてキッチンどこだ? 砂糖を入れた温かいミルクか緑茶を淹れるぞ。低血糖と貧血でぶっ倒れられたら、交番勤務の巡査長として寝覚めが悪い」
「は、はいですわ! 案内します!」
こうして、俺の平穏だったはずの小市民ライフに、年収数千円の極貧人魚姫に続き、年収一千五百万の自爆系ヤンデレ亡命姫が正式にエントリーしてしまった。
だが、このカオスな4LDKシェアハウスには、まだあと二人——常識のネジが完全に吹き飛んだ問題児が残っていたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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