第95話:過去も未来も関係なく、今この場所で家族と仲間たちと笑い合うのが一番幸せだよ
前世の病室にいた頃の僕は、いつも「今」以外の時間ばかりを見つめていた。
壁に掛けられたカレンダーの数字を眺めては、「去年の今頃はまだ外を歩けていたのにな」と失われた過去を悔やみ、「来年の春には退院できるのかな」「明日の検査結果はどうなんだろう」と、まだ見ぬ未来への不安に怯えてばかりいた。
終わってしまった過去に囚われ、先の見えない未来に怯えているうちに、手のひらから「今日という一日」が虚しくこぼれ落ちていく。
病室の真っ白な天井を見上げながら過ごす時間は、それくらい孤独で、途方もなく長かったのだ。
「ルーカス、見てごらん。父さんが剥いたみかんだよ。ほら、小鳥の形に見えないかい?」
ふいに耳元で届いた朗らかな声に、僕は思考の海から引き戻された。
目の前では、父アロイスが少し不器用そうにみかんの皮を広げて、誇らしげに笑っている。
その隣で、母エレナが「ふふ、どちらかというとカエルに見えるわよ、あなた」とクスクス笑い、ポットから新しいカモミールティーを注いでくれた。
「あはは、本当だ。ちょっと羽が太めの小鳥さんだね、父さん」
僕が笑うと、父は「うーん、次はウサギに挑戦してみるよ」と照れくさそうに頭を掻いた。
コタツの向かい側では、カイル兄さんが脱力しきった柔らかい手つきで、僕のお皿の上に薄く剥いたリンゴを並べてくれる。
「ルーカス、喉が渇いていないかい? 今日は庭師のフレディが、日向の匂いがする新しいハーブを摘んできてくれたんだよ」
「ありがとう、兄さん。すごく爽やかでいい香りだね」
足元では、子恐竜がみかんの皮の匂いに興味津々で「くぅ〜ん」と鼻を寄せ、丸っこいぬくぬく君が「ピュイ……ピュイ……」とご機嫌に緑のランプを揺らして僕のつま先を暖めてくれている。
コンコン、と控えめなノックの音がして、ドアが少しだけ開いた。
「ルーカス様、失礼いたします。パン屋のザハール殿が、焼きたてのハニーラスクを焼き上げて参りましたのでお届けに上がりました」
お茶汲みのジーナが、湯気の立つ籠を恭しく運んできてくれる。その後ろからは、庭師のフレディが「自室の窓辺に飾る、今朝一番に咲いたカモミールのお花です」と、小さな花瓶をそっと置いてくれた。
「ジーナさん、フレディさん、いつもありがとう。みんなも良かったら、お茶を一杯飲んでいかない?」
僕が声をかけると、二人は恐縮したように顔をほころばせ、「もったいないお言葉にございます」「お気持ちだけで胸がいっぱいです」と深々と一礼して、温かな笑顔を残して廊下へと戻っていった。
ドアの隙間からは、館の警備を終えた元SSランク冒険者のラグナルが腕組みをして満足げに頷く姿や、衛生長官クララが廊下の隅を念入りに除菌しながら慈母のような微笑みを浮かべているのがチラリと見えた。
壁一面のモニターの隅では、太古の世界の狩猟民たちや、中世の元騎士たち、そして未来都市の技術者たちが、それぞれの時代で温かいご飯を食べ、笑顔で暮らしている姿が小さく流れている。
コタツでみかんを口に放り込んでいた時間の神クロノスが、宙に漂う光の粒を愛おしそうに見つめながら、静かに口を開いた。
「……わしはな、何万年、何億年という果てしない時空の流れを監視し続けてきた。その中で、数え切れぬほどの生命を見てきたが……過去の栄光にしがみついて今を呪う者か、あるいはまだ見ぬ未来の不安に駆られて今をすり減らす者ばかりであったよ」
クロノス神はパジャマの袖をそっと引き上げ、穏やかな眼差しを僕に向けた。
「だが、ルーカス様は違う。過去を悔やむことも、未来を過剰に恐れることもなく、ただ『今この瞬間』を生きる者たちの健やかさと安らぎを願っておられる。だからこそ、どの時代の者も、貴方のその温もりに触れて肩の荷を下ろすのじゃろうな」
神様の深みのある言葉に、僕は湯呑みを両手で包み込みながら、静かに首を横に振った。
「僕なんて、大層なことは何もしていませんよ。ただ……前世でずっと後悔ばかりしていたから、よく分かるんです。どんなに素晴らしい歴史があったとしても、どれだけ進んだ未来が待っていたとしても……今、目の前にいる大好きな人たちと一緒に笑い合えなかったら、全部意味がないんだって」
僕はコタツを囲む家族を見渡した。
優しく微笑む父アロイスと母エレナ。
いつでも僕の安全を最前線で守ってくれる頼もしいカイル兄さん。
そして、僕の隣で「お兄様のお言葉、一文字も漏らさず胸に刻んでおりますわ……!」と感涙でメモ帳を抱きしめている妹のリリィ。
部屋の外には、僕のボヤキをいつも大真面目に受け止めて、一生懸命に形にしてくれる50人の温かい仲間たちがいる。
過去の太古の世界に想いを馳せるのも、未来のハイテクに驚くのも楽しかった。
だけど、僕にとって何よりかけがえのない宝物は——。
「過去がどうだったとか、未来がどうなるかなんて関係ないよ。僕にとってはさ……今、この場所で、お父さんやお母さん、兄さんやリリィ、そして大好きな仲間たちと温かいお茶を飲んで、美味しいものを食べて『美味しいね』って笑い合えるこの時間こそが、世界で一番幸せなんだ」
僕の胸の奥からこぼれ落ちた、飾らない本音。
すると、リリィが瞳いっぱいに大粒の涙を浮かべ、胸の前でメモ帳をぎゅっと抱きしめた。
「お兄様……ッ! 過去の栄華にも未来の技術にも惑わされず、いま目の前にある命の温もりを何よりも尊ばれるその御心……! 私、お兄様の妹に生まれてこれて、本当に、本当にお幸せですわ……ッ!」
「リリィ、泣かないでよ。ほら、涙を拭いて」
僕がハンカチを差し出すと、カイル兄さんも柔らかく目を細め、僕の肩にそっと手を置いてくれた。
「ルーカス。君がそうやって笑っていてくれるだけで、僕たち家族は全員、この上なく幸せなんだよ」
「うん……ありがとう、兄さん」
外の景色がどう変わろうと、時空の果てまで世界が広がろうと、僕の帰る場所はずっとここにある。
膝の上で丸くなる子恐竜の柔らかな寝息と、くるぶしを温めてくれるぬくぬく君の優しい駆動音。
澄んだハーブティーの湯気がふわりと立ち上る部屋の中で、僕は愛する家族と仲間たちが紡いでくれる温もりに包まれながら、かけがえのない「今日」という時間を、心ゆくまで噛みしめるのだった。
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