第6話:目に見えない病原菌を恐れた少年のボヤキが、王都の暗殺者を衛生の鬼に変えた件
「うぅ……寒くなってきたなぁ。季節の変わり目は一番体調を崩しやすいんだよ」
超快適な床暖房と二重サッシで守られた自室で、ルーカスは身を縮こまらせていた。
「風邪とかインフルエンザみたいな感染症が一番怖いんだよ。目に見えない細菌やウイルスなんて、気づかないうちに忍び寄ってくる『目に見えない殺し屋』みたいなものだし……。前世の病院みたいに、玄関に『アルコール消毒液』を置いて、全員が『手洗い・うがい』を徹底しないと安心して長生きできないよ」
ルーカスは温かいハーブティーを一口飲み、ふと前世の日本の冬を思い出して遠い目をした。
「はぁ……こういう寒い日は、四角いテーブルに布団をかぶせた『こたつ』に入って、ミカンでも食べながら、昆布と鰹節の効いた温かい『お出汁のうどん』を食べたいなぁ。足をぬくぬく温めて美味しいお出汁をすすれば、病気予防にもなって最高なのに……」
前世の冬の風物詩と、病院で叩き込まれた衛生管理の知識を懐かしむだけの無害なボヤキ。
……のはずだった。
(目に見えない暗殺者を滅殺する神の聖水……! そして、入った者の戦意を削ぎ落とす至高の封印具と、魂を浄化する奇跡のスープ(オダシ・ウドン)……!?)
ドアのわずかな隙間で、消毒用のクロスを持っていた妹リリィが、狂おしいほどの速さでメモ帳にペンを叩きつけていた。
カリカリカリカリカリッ……!
「すごいですわお兄様……! 目に見えない死神の脅威から全領民を守り、心まで温める『衛生と食の革命』まで見据えておられるなんて……! 私、すぐにお薬師さまと料理長さんに伝えなくっちゃ!」
目を輝かせた天使(妹)は、風のように廊下を走り去っていった。
◇
その夜。月明かりすら届かない男爵家の屋根の上に、黒装束を身にまとった一人の影が潜んでいた。
王都の裏社会で「不可視の毒刃」と恐れられる超一流の暗殺者、クララ・シュタイン(22歳)である。
ロバート監査官から「バルデン領のルーカス・フォン・バルデンなる少年は国家を脅かす危険人物かもしれない」という緊急報告を受けた王都上層部が、極秘裏に派遣した最鋭の隠密であった。
(ふん……「創世の天才」だか何だか知らないが、所詮は辺境の小僧。私の存在に気づくことすらできずに、夢の中で息絶えるがいいわ)
クララは気配を完全に消し、ルーカスの部屋の窓枠へと無音で降り立った。
鍵は二重サッシの特殊ロックがかかっていたが、暗殺道具の細金を使えば一瞬……のはずだった。
「な……なにこの空気……!?」
窓の極小の隙間から漏れ出てくる空気を吸い込んだ瞬間、クララは目を見開いた。
室内から漂ってくるのは、ハイエルフの薬師フィオナがルーカスのボヤキをもとに精製した「高純度植物性アルコールと除菌アロマ」の澄み切った空気だった。
(毒……じゃない!? むしろ……体内の不純物や微小な魔力毒が綺麗さっぱり浄化されていく……!? 私の体に長年蓄積していた暗殺用の毒素まで消えていくというの……!?)
ショックを受けつつも、クララは洗練された動作で室内へと侵入した。
薄暗い部屋の真ん中。すやすやと寝息を立てる少年のベッドの横に、見慣れない「低い四角いテーブル」が置かれていた。テーブルの上には分厚いフカフカの布団が掛けられている。
(なんだ……この怪しげな台は? 罠か……!?)
警戒したクララは、その台の構造を確かめようと、そっと忍び寄り……吸い寄せられるように、台の下へ足を差し入れてしまった。
——カチッ。
魔導発熱陣が、優しく足を包み込んだ。
「……ッ!?」
衝撃がクララの全身を駆け抜けた。
(あ……温かい……なにこれ……? 足元からポカポカとした幸せな温もりが……背骨を伝って脳みそに登ってくる……っ!?)
極寒の屋根の上で凍え切っていたクララの体が、一瞬で弛緩した。
膝から崩れ落ち、吸い込まれるように「こたつ」の中へと上半身まで潜り込んでしまう。
(だめ……立ち上がれない……! 殺意が……私の殺意がどんどん溶けていく……! こんな……こんな幸せな場所から出られるわけがないじゃない……っ!)
殺し屋としての矜持も、王都からの指令も、すべてが圧倒的な「こたつの魔力」の前に消え去った。
「ん……? 誰……?」
ベッドから起き上がったルーカスが、目をこすりながらこたつから上半身だけ出している不審な黒装束の女性を見つめた。
「ひっ! 天才ルーカス……! 察知されていたのか……!?」
殺される、と覚悟したクララだったが——。
「あ、夜食食べに来たの? ちょうど料理長が作った『お出汁のうどん』があるから、食べる?」
ルーカスは湯気が立ち上る丼をテーブルに置いた。
出汁の芳醇な香りが部屋いっぱいに広がる。
クララは震える手で箸を取り、お出汁を一口すすった。
「つっ……!? 旨味が……舌の上で爆発する……!? 黄金のスープが命の芽吹きを感じさせる……ッ!!」
ズルズルッと麺をすすり、熱々のスープを飲み干したクララは、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「美味しい……! こんな温かくて優しい食べ物、私……生まれて初めて食べた……!」
幼少期から暗殺者として育てられ、冷たい毒と死の中に生きてきたクララにとって、こたつの温もりと出汁の優しさは、魂を根本から救済するものだった。
「あ、あの! 玄関で手を洗って、この透明な液で手を消毒すれば、病気の菌に勝てるんだよ」
ルーカスが親切に消毒液を差し出すと、クララはドゲザの姿勢で床に頭を擦り付けた。
「ルーカス様ぁぁぁッ! 私をお傍にお置きくださいッ! 目に見えない殺し屋(病原菌)からこの館と領民を守るため、私は『衛生長官』として全身全霊を捧げますッ!!」
「えっ……? 暗殺者さんじゃないの? 衛生長官……!?」
◇
翌朝。
男爵家の館の玄関には、「手洗い・消毒義務化」の看板が掲げられ、黒装束から純白の侍女服に着替えたクララが、眼光鋭く立っていた。
「待ちなさい! 貴方、爪の間に汚れが残っています! 石鹸で30秒洗い直しなさい!」
「ひぃぃっ! クララ様ごめんなさい!」
「館に入る者は全員、このアルコール消毒液を手に吹きかけるのです! 雑菌の持ち込みはルーカス様への反逆とみなします!」
元・最鋭の暗殺者による完璧すぎる衛生管理により、男爵家およびバルデン領の「感染症発生率」はゼロ%を叩き出し、世界で最も清潔で安全な領域が完成してしまった。
自室のこたつの中でミカンを剥いていたルーカスは、窓の外で完璧な手洗い指導を行うクララを見て白目を剥いた。
「あ、あれ……? 僕はただ……風邪をひきたくなくて、こたつでうどんが食べたかっただけなのに……なんで王都の暗殺者が我が家の衛生隊長になってるの……!?」
ただ病気にかかりたくない少年のささやかなボヤキは、男爵領に「絶対衛生エリア」を爆誕させ、王都の裏社会の均衡すらも塗り替えていくのだった。
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