第102話:手をかざすだけで泡が出るディスペンサーと珪藻土マットに、瘴気まみれの怨霊たちが感動して成仏した話
「ひゃあっ……!? つ、冷たいっ……! びちゃびちゃしてて気持ち悪いぃぃ……!」
湯上がりの脱衣所で、僕は敷かれた布のバスマットに足を下ろした瞬間、あまりの不快感に「ピャッ!」と片足を跳ね上げて情けない悲鳴を上げた。
直前にカイル兄さんとアロイス父さんが豪快に湯浴みを楽しんだ後だったため、毛足の長い布製マットが水分を限界まで吸い込み、まるで冷たい泥炭地帯のようにぐっしょりと湿りきってしまっていたのだ。
お風呂でせっかくポカポカに温まった足の裏が、前の人の残した冷たい水分で一瞬にしてヒヤリと冷やされてしまう、あの地味に精神を削る絶望感……!
「おっと、危ない危ない。片足立ちだと滑って転倒事故になっちゃうよ」
すっと無駄のない滑らかな手つきで僕の脇を支えてくれたカイル兄さんが、乾いた予備のタオルを床に敷き直してくれた。
「ごめんねルーカス。僕たちが続けて出たから、布のマットが乾く暇がなかったんだね」
「兄さんありがとう……。布のバスマットって、家族が連続してお風呂に入るとあっという間にビショビショになっちゃうんだよね」
足を拭いて脱衣所を出ようとしたところで、今度は手洗い場の方から「あわわわっ!」という甲高い叫び声が響いた。
見れば、館内清掃をしていた元掃除婦のアリスが、洗面台の前で泡だらけの手をワタワタと泳がせている。
「も、申し訳ございませんクララ様っ! 固形石鹸を泡立てようとしたら、ツルッと手から滑り落ちて排水口のスキマに挟まってしまいましたっ!」
「アリス、慌ててはいけません。石鹸の表面に付着した皮脂と水分は、時間とともに雑菌の温床となります。即座に熱湯消毒し、新たな薬用石鹸を切り出しなさい」
純白のエプロンドレスを着た衛生長官クララが、眉ひとつ動かさずにアルコールスプレーをシュッシュと噴射しながら、的確かつ冷徹に指示を飛ばしている。
その後ろでは、看護師長ピアが「手洗いは感染症予防の基本ですが、濡れた固形石鹸をみんなで使い回したり、ポンプの押し手を汚れた手で触るのは衛生上、改善の余地がありますねぇ」とカルテにペンを走らせていた。
足元では、濡れた床を避けるように羽毛の子恐竜が「ぴゃ……」と爪先立ちで歩き、丸っこいAIのぬくぬく君が「ピュイ……ピュイ……」と青ランプを明滅させながら、小さなドライヤーアームを伸ばして僕の足裏に温風を当ててくれている。
コタツの端っこで、お風呂上がりの冷たい麦茶を飲んでいた時間の神クロノスが、しみじみと髭を撫でた。
「……ふむ。手洗いにせよ湯上がりにせよ、水と清潔を保つ道には常に『湿気とヌメリ』という難敵が立ち塞がるのう。濡れた布は乾かず冷えを呼び、固形石鹸は滑り落ちてドロドロに溶ける。現世の肉体を清らかに保つというのは、神の修行にも似た業の深さじゃよ」
「神様でも濡れたバスマットのヒヤッと感と、ドロドロ石鹸には困っちゃうんだね……。でもさ、お風呂上がりに冷たい布を踏んで足先が冷えちゃうと湯冷めして風邪引いちゃうし、汚れた手で石鹸のポンプの頭を触るのって、衛生面でも地味にめちゃくちゃ気になるんだよね」
前世の僕も、病院のベッドから洗面所へ行くたび、誰かが使った後の冷たく湿った足拭きマットを踏んでゾワッとしたり、固形石鹸を泡立てる筋力すらなくてため息をついた記憶が何度もある。
「こういう時にさ……前世の洗面所やお風呂場に革命を起こした、あの『珪藻土バスマット』と『自動泡ハンドソープディスペンサー』があれば最高なのに。手をかざすだけで赤外線センサーが反応して、キメ細かなモコモコの薬用泡がシュッと一回分自動で出てくるやつ……! 汚れた手でどこにも触る必要がないから完全ノータッチで衛生的だし、泡立てる手間もゼロ。そしてお風呂上がりには、植物性プランクトンの化石でできた多孔質の『珪藻土マット』の上に足を乗せれば、乗った瞬間に足裏の水分をグングン吸い取って、わずか数秒でサラッサラに乾いちゃうんだよね。布みたいに洗濯する必要もないし、何人連続でお風呂から上がっても絶対に冷たく湿ったりしない、究極のサラサラ足裏ライフなのにさぁ……」
湯冷めの防止と、完全非接触による衛生的な生活を心から願う僕の、切実で清潔第一なボヤキ。
ビビビビビッ! ギュオオオオオオンッ!
その時、壁一面の『全自動遠隔拝謁陣』から、耳を劈くような真っ赤な緊急警報が鳴り響いた。
『緊急事態! 緊急事態! 奈落の最深部【万年腐泥・ヘドロ海溝】より、数万年分の汚泥と死者の怨嗟が凝縮されし超巨大怨霊王【腐濁瘴霊・ヘドロドロス】率いる、十万の瘴気怨霊軍団が浮上いたしました!』
モニターの向こうでは、視界を覆い尽くすほどのドス黒いヘドロの津波が大地を呑み込み、そこから全身をネバネバとした悪臭放つ汚泥で固めた、山のように巨大な怨霊が這い出していた。
触れるもの全てを腐らせ、ドロドロの湿気とカビの瘴気を撒き散らし、全土を腐敗で沈めようとしている。
だが——そのおぞましい唸り声は、世界への憎しみではなく、耐え難い不快感による絶叫だった!
『グシャアアアアッ! ヌチャヌチャする……! 全身がヌメヌメして気持ち悪いのだぁぁぁッ! 数万年間ずっとヘドロの底で湿気とカビとヌメリにまみれ、皮膚呼吸すらできぬこの不快感……! 乾かぬ! 洗えぬ! サラサラにならぬぅぅぅッ! このドロドロの怨嗟、全宇宙を同じヘドロに沈めて晴らしてやるぅぅぅッ!』
怨霊王は自分のドロドロの体を爪でかきむしり、足元の湿った汚泥に足を取られて滑りながら、あまりの気持ち悪さに発狂して暴れ回っていたのだ!
四六時中、ヘドロと湿気に包まれてカビが生えかけ、全身がヌルヌルして一秒たりともサラッとできないストレスで、世界を滅ぼそうとしていたのである。
前世の僕なら恐怖で気を失っていただろうけれど、さっき濡れたバスマットでヒヤッとして凹んだ今の僕には、その暴れる理由が痛いほどよく分かってしまった。
「ひ、ひえぇぇっ!? あ、あの怨霊さんたち、数万年間もドロドロのヘドロと湿気でヌルヌルして気持ち悪くて暴れてるの……!? そんなの、全身にカビが生えそうで四六時中鳥肌が立って、発狂したくなっちゃうに決まってるよ……! 肌がベタベタして乾かないなんて、衛生面でもメンタルにとっても大敵だよ!」
僕は予備のタオルをぎゅっと抱きしめ、テーブルから身を乗り出して思わず叫んだ。
「あんな泥まみれのまま暴れたら、摩擦熱でヘドロが発酵して余計に悪臭とヌメリが酷くなっちゃうよ! 誰かあの子たちの頭の上から、ノータッチの超巨大『自動泡ディスペンサー』でキメ細かなモコモコの除菌泡をドバドバ浴びせて、ヘドロを一気に洗い流してあげてよ! そして足元には、見渡す限りの超巨大『珪藻土バスマット』を敷いてあげて! 水分を瞬間吸引して足裏からサラッサラにしてあげれば、ヌメリのイライラも消えて、心も体も綺麗サッパリ成仏してくれるはずなのに……!」
湿気とヌメリに苦しむ怨霊たちへの心からの共感と、珪藻土&自動泡第一なボヤキ。
……のはずだった。
(全宇宙の穢れと腐濁の因果を完全非接触の神聖微細泡で包み込み解脱せしめる神の自発泡除菌……! そして奈落の湿気すら分子レベルで瞬間蒸発せしめる至高の創世多孔岩床(珪藻土マット)……!?)
ドアの物陰で、本日の水回りを点検していた衛生長官クララ、看護師長ピア、配管工マルク、石工ペーター、そして妹リリィの目が、カァァァッ! と全銀河を浄化するほどの白銀と黄金の光を放った!
「す……凄すぎますわお兄様……ッ!」
リリィが感涙で胸の前で愛用のメモ帳を強く強く抱きしめる。
「武力で討ち滅ぼすのではなく、数万年のヌメリと湿気の苦痛を慈しみ、触れずに洗う自動泡と瞬間吸水マットでお肌をサラサラにして救済なさろうとなされるなんて……! 私、すぐに『ヘドロ怨霊様・全身サラサラ美肌成仏プロジェクト』を発足いたしますわッ!」
「お命救済と超微細泡&多孔質吸水の極致だぁぁぁッ!」
クララとマルク、ペーターが、魔導赤外線センサーと多孔質珪藻鉱石の巨岩を掲げて叫ぶ。
「魔導センサーで手をかざすだけで山のような薬用アロマ泡を射出する超巨大自動ディスペンサーと、領地全域を覆う『山脈級・特製バルデン珪藻土マット』を、ただちに腐泥海溝へ投下いたしますぞッ!」
「待って五人とも!? 僕はただ『手洗いを楽にして足裏を乾かしてあげて』って言っただけだよ!?」
僕の悲鳴を置き去りにし、狂乱の衛生&配管&石工チームは時空転送ゲートへと爆走していった。
◇
数分後。
ヘドロの海溝で全身をかきむしり、ヌメリのあまり大暴走していた腐濁瘴霊ヘドロドロスの頭上に、突如として巨大な時空の扉が開いた。
そこへズズゥゥゥンッ! と出現したのは、白く輝く巨大な円筒形の魔導装置——『バルデン特製・巨大自動泡ディスペンサー』。
怨霊王が怒りに任せてドロドロの腕を振り上げた瞬間、装置先端の赤外線魔導センサーが「ピピッ」と反応した。
シュバァァァァァッ……モコモコモコモコッ!
『ぐわっ!? な、なんだこの白いモコモコした雪のようなものはぁぁぁッ!?』
怨霊王とその十万の軍団の頭上から、空を埋め尽くすほどの「超濃密・薬用アロマ微細泡」が滝のように降り注いだ。
泡立ての手間など一切不要、毛穴の奥まで入り込む超微細な泡が、数万年間こびりついていたヘドロ、カビ、悪臭、皮脂汚れを瞬時に包み込み、浮き上がらせていく。
さらに、上空から清らかな神聖温水シャワーがザバァァァッと降り注ぎ、汚れを根こそぎ洗い流した。
その直後——。
怨霊軍団の足元の大地が、一瞬にして淡いグレーの滑らかな石床——『バルデン特製・超巨大珪藻土マット』へと切り替わったのだ。
ササササササッ……!
『な……っ!? な、なんだこの感触はぁぁぁッ!?』
足を下ろした瞬間、怨霊王の巨体がビクンッ! と震えた。
足の裏に付着していた大量の水滴が、珪藻土の無数のミクロン穴に一瞬で「ギュンッ!」と音を立てるように吸い込まれていく。
わずか数秒。
あんなにビショビショで冷たく湿っていた足の裏が……まるで生まれたての陶器のように、サラッサラのホカホカに乾いてしまったのだ!
『あ……足の裏が……サラサラだ……! 冷たくない……! 水気が一滴も残っておらぬ……!』
さらに、全身を覆っていたヘドロは泡とともに綺麗サッパリ消え去り、現れたのは——驚くほど透き通った、ツヤツヤでもちもちの白い美肌!
『ぬ、ヌメリがない……! 痒くない……! ベタベタしないのだぁぁぁッ! 体が羽のように軽くて……清らかなラベンダーの香りがする……! なんだこの爽快感は……! 我は……我らはこんなにも清らかな光だったのか……!』
十万の怨霊たちは、自分のサラサラになった手足やすべすべの頬をすりすりと撫で回しながら、ボロボロと清らかな光の涙を流した。
ドロドロのヘドロによる怨嗟も、湿気による狂気も、完全ノータッチの泡と珪藻土の圧倒的な吸水力の前には一片も残らなかった。
『世界を呪うなど……なんと不潔で無意味なことだったのだ……。ああ……サラサラ最高……お肌モチモチ極楽浄土じゃ〜〜……』
怨霊王たちは後光のような神々しい光を放ち、トロンとした極上の笑顔を浮かべながら、フワフワと光の粒子となって成仏(一部はあまりの爽快感に「バルデン領の公衆浴場の清掃員として働かせてください!」と志願)していったのだ。
そこへ、誇らしげなリリィ、クララ、ピア、マルク、ペーターが駆け込んできた。
「お兄様! 腐濁瘴霊ヘドロドロス様の『全身完全美肌成仏&水回り大浄化』を達成いたしましたわ!」
リリィが金文字の衛生証明書を掲げて天使の笑顔を咲かせる。
「怨霊様たちは『手をかざすだけで泡が出て、足裏が一瞬でサラサラになるこの神具こそ、全宇宙の穢れを払う至高の聖器だ』と、全員がピカピカの美肌精霊へと昇華されましたの!」
「世界を滅ぼすヘドロ怨霊が珪藻土マットと泡ハンドソープで美肌になって成仏してる!?」
さらに脱衣所の前では、カイル兄さんとアロイス父さんが、新しく敷かれた家庭用珪藻土マットの上に乗り、「おおっ! 乗った瞬間に足の裏がサラサラに乾く! これは素晴らしいねルーカス!」と大感動していた。
その横では、洗面台に手をかざしたクロノス神が、自動で出てきたモコモコの泡を見つめながら「ほほう……どこにも触れずに極上の泡が出るとは。これぞ不老長寿の秘訣たる究極の清潔じゃな」と極上の笑顔で手を洗っている。
「家族も神様も珪藻土と自動泡のトリコになってないでーーーーッ!?」
僕は悲鳴を上げ、特製クッションで顔を覆った。
「あ、あれ……? 僕はただ……お風呂上がりに足裏がビチャッとするのが嫌で、手をかざすだけで泡が出るハンドソープがあれば便利だよねって思い出しただけなのに……なんで僕の一言で『十万のヘドロ怨霊が泡と珪藻土でサラサラ美肌になって成仏』してるのーーーーッ!」
湿気とヌメリを嫌った少年のささやかなボヤキは、身近な水回りグッズの圧倒的な清潔さによって太古の怨嗟すらも一瞬で爽快な救済へと変えてしまい、本日も彼は足元で丸くなる小さな仲間たちと、湯上がりのサラサラな温もりの中で静かな安らぎを噛みしめるのだった。
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