第9話
書斎の扉を叩くと、聞き慣れた低い声が「入りなさい」と応えた。
お父様――アルディエール公爵は、机に広げた書類から顔を上げ、私を一目見るなり、ペンを置いた。
「……その顔は、ようやく決めた顔だな」
「お父様。お願いがあって参りました」
私は扉を閉め、机の前に立った。そして順を追って、すべてを話した。置き去りにされた数々の夜会のこと。反故にされた記念日のこと。病床に一度も現れなかったこと。「心が狭い」と言われた最後の話し合いのこと。そして今日、エルネスタが聞いてしまった、大夜会の約束の売り渡しのこと。
声は最後まで震えなかった。感情を挟まず、日付と事実だけを並べていく。話しながら、我ながら驚いていた。積み上げてみれば、よくもまあ、これだけのことを呑み込んできたものだと。
お父様は一度も口を挟まず、目を閉じて聞いておられた。私が話し終えると、長い沈黙のあと、静かに仰った。
「……よく耐えた。もう十分だ」
その一言で、目の奥が不意に熱くなった。責められると思っていたわけではない。それでも、政略で結んだ縁を娘の側から切ることを、お父様がどう受け止められるか、心のどこかで怖れていたのだ。
「レーヴェルト家との婚約を、解消していただきたいのです。私はもう、あの方の隣に立つ未来を望みません」
「望まなくてよい」
お父様は椅子から立ち上がると、書棚の奥から一つの文箱を取り出し、机の上で開いてみせた。中には、几帳面に綴じられ、日付順に整えられた書類の束が、ぎっしりと納められていた。
「見なさい」
一枚めくって、私は息を呑んだ。
三年前の観劇の日付。二年前の園遊会。先の建国祭。婚約者としての義務が果たされなかった日時と状況が、証人の署名つきで、克明に記録されていた。それだけではない。両家の間で交わされた贈答の目録の写し、公爵家からの支度に対して侯爵家側の返礼が年々形骸化していったことを示す帳簿。そして――侯爵家の金庫から、フォスター男爵家へと流れ続けていた金銭の記録。
「お父様、これは……いつから」
「三年前からだ。おまえが熱を出した夜会の翌日、私は調べを始めた。娘が泣かされている縁談を、親が漫然と眺めていたと思うか」
思えばあの頃から、お父様は折に触れて「無理はしていないか」と尋ねてくださっていた。私はそのたびに「大丈夫です」と微笑んで返した。親に心配をかけまいとした精一杯の見栄を、この方はすべて見抜いた上で、黙って備えてくださっていたのだ。
お父様は静かに、けれど刃のような声で続けられた。
「ただし、私からは動かなかった。この縁を切るかどうかは、おまえ自身が決めることだからだ。おまえが耐えると言う限り、私は口を出さぬと決めていた。……長く待たせたな、ヴィオレッタ」
涙が、一筋だけ静かに頬を伝った。慌てて拭う必要のない、温かい涙だった。
私は一人で立ってきたつもりだった。けれど本当は、この三年間ずっと、倒れたときに受け止める腕が、すぐ後ろに用意されていたのだ。
「それで、どうする。穏便に婚約を解消するか」
涙を拭い、私は顔を上げた。お父様の目に、試すような光が宿っている。私は首を横に振った。
「いいえ、お父様。解消では足りません」
「ほう」
「あちらの非をすべて明らかにした上で――こちらから、捨てて差し上げます。私の十年に、それだけの値打ちはあるはずですから」
お父様は目を細め、そして、獲物を前にした獅子のように笑われた。
「よろしい。それでこそ、アルディエールの娘だ」




