第10話
大夜会の当日は、雲ひとつない宵だった。
王宮の大広間は千の蝋燭に照らされ、国中から集った貴族たちの衣擦れとざわめきに満ちている。社交シーズンを締めくくる、一年で最も格式高い夜。婚約者のある者は連れ立って入場するのが、百年続く慣例だった。
クロード様からの「迎えの馬車」は、ついに公爵邸へ来なかった。
断りの書状すら、なかった。
代わりに三日前、公爵邸には別の申し入れが届いていた。差出人は、第二王子ジークハルト殿下。曰く――婚約者に義務を果たす気のない男を待つ必要はない。当夜、公爵令嬢のエスコートの栄を、私に賜りたい。お父様は書状を一読して笑い、「受けなさい」とだけ仰った。
開宴の刻限。大広間の入り口で来客の名が読み上げられるたび、貴族たちの視線がそちらへ流れる。そして、その名が告げられた瞬間、広間のざわめきは明らかに質を変えた。
「レーヴェルト侯爵家嫡男、クロード・レーヴェルト様。並びに、フォスター男爵令嬢、ミレーヌ・フォスター様」
――婚約者では、ない令嬢と。
二人が並んで入場してくる。クロード様は堂々と、ミレーヌ様は淡い薔薇色のドレスの裾を摘まみ、恥じらうように俯いて。仕立てが間に合わないと泣いたはずのドレスは、誰の目にも真新しく、上等だった。
扇の陰、柱の陰で、囁きが波のように広がっていく。
「アルディエール公爵令嬢はどうなさったの」
「まさか、婚約者を置いてあの令嬢と?」
「あの二人の噂は前々から……でも、よりにもよってこの夜会で」
クロード様は、ざわめきの意味に気づいていないようだった。知人に鷹揚に会釈をし、ミレーヌ様を気遣って歩調を緩める。その姿は本人の中では「身寄りの少ない幼馴染を守る紳士」なのだろう。周囲の目にそれがどう映っているかを、彼は最後まで想像しなかった人だ。
やがて誰かが、恐る恐る彼に尋ねたらしい。ヴィオレッタ様は、と。彼の返事は、近くにいた者たちの耳から耳へ、さざ波のように広まった。
「彼女は聞き分けのいい人だ。事情は分かってくれている」
その時だった。
大広間の扉が、ひときわ高く開かれた。
「――ヴァイスラント王国第二王子、ジークハルト・ヴァイスラント殿下。並びに、アルディエール公爵令嬢、ヴィオレッタ・アルディエール様」
広間が、水を打ったように静まり返った。
私は殿下の腕に手を添え、ゆっくりと大広間へ足を踏み入れた。纏うのは、夜明けの空の色の絹に銀糸の刺繍を施したドレス。青でも薔薇色でもない、誰の色でもない、私が私のために選んだ色。
千の蝋燭の光の下、あらゆる視線がこちらへ注がれるのが分かった。驚愕、好奇、感嘆――そのすべてを、私は真っ直ぐに受け止めて微笑んだ。俯く理由など、今夜はひとつもない。
「怖いか」
殿下が、前を向いたまま小さく問うた。
「いいえ。……不思議なくらい、静かな心地です」
「そうだろうな。君は十年、もっと重いものを持って立っていた。今夜のこれは、それに比べれば羽根のようなものだ」
素っ気ない声に、ほんのわずかないたわりが滲んでいた。私は前を向いたまま、小さく笑った。
人垣が割れていく。その向こう、広間の中央あたりで、こちらを見たまま凍りついている一人の男が見えた。
クロード様の顔から、みるみる血の気が引いていく。隣のミレーヌ様の指が、彼の袖をきつく掴んだ。
私は二人の前で歩みを止め、この十年で最も完璧な、そして最後の淑女の礼をとった。
「ごきげんよう、レーヴェルト卿。……今宵は、お連れ様とご一緒でしたのね」




