第8話
王家主催の大夜会の招待状が届いたのは、あの話し合いから数日後のことだった。
社交シーズンの締めくくりに催される、一年で最も格式の高い夜会。国中の貴族が集い、婚約者のある者は必ず連れ立って出席するのが慣例とされる。ここで一人で立つことは、婚約の破綻を社交界に公表するに等しい。それほどの場だった。
意外なことに、クロード様からはすぐに書状が届いた。
『大夜会は当然、君と行く。迎えの馬車を出す』
当然、という言葉を、彼はどの口で書くのだろう。それでも私は「承知いたしました」とだけ返事をした。心はすでに冷えきっていたけれど、婚約が続いている以上、公式の場での体面は守る。それが貴族というものだ。
夜会を三日後に控えた午後、エルネスタが青い顔で私の部屋へ駆け込んできた。
「お嬢様。……申し上げにくいことが」
彼女はその日、夜会用の小物を求めて王都の商会街へ出ていた。仕立て屋の並ぶ通りで、偶然、見覚えのある二人連れを見かけたのだという。クロード様と、ミレーヌ様だった。
「立ち聞きするつもりはございませんでした。ですが、店の前で……フォスター男爵令嬢が、泣いておられたのです」
――ドレスが、どうしても夜会に間に合わないの。こんなみすぼらしい姿では出られない。でも一人で欠席するのは惨めで、怖くて。
――泣くな、ミレーヌ。……分かった。当日は俺が付き添う。会場まで一緒に入れば、誰も君を軽んじたりしない。
――でも、ヴィオレッタ様との約束が。
――あいつは強いから平気だ。事情を話せば分かってくれるさ。昔から、聞き分けだけはいい。
エルネスタの声が、途中から震えていた。彼女は主の恥になることを恐れて、それでも黙っていられずに帰ってきたのだ。
「……『聞き分けだけはいい』、ですって」
私は思わず、小さく笑ってしまった。エルネスタが痛ましげに私を見る。違うのよ、と首を振った。悲しくて笑ったのではない。あまりにも、あの人らしくて。
当然、君と行く――あの書状の文字を思い出す。当然と書いたその手で、彼は三日後の約束を、涙一つと引き換えに手放した。しかも本人には、手放したという自覚すらないのだろう。私への断りは、まだ届いていないのだから。
事情を話せば分かってくれる。つまり彼は、当日か、よくて前日に、悪びれもせずこう言うつもりなのだ。すまない、ミレーヌが困っていて、と。そして私が今回も微笑んで頷くことを、髪の色や瞳の色と同じくらい当たり前の事実として、信じきっている。
十年間の私の「聞き分け」が育てたのは、愛でも信頼でもなく、この底なしの甘えだった。
「エルネスタ。よく知らせてくれました。あなたは何も間違っていない」
「お嬢様……」
「それから、涙を拭いて。あなたが泣くことではないわ。……泣く場面は、もう過ぎたの」
私は立ち上がり、窓の外を見た。夕暮れの空が、燃えるような茜色に染まっている。怒りは、不思議なほど静かだった。静かで、澄んでいて、そして固かった。鍛えられた鉄が冷えて、二度と元の形に戻らない鋼になるように。
最後の誠意は尽くした。問いには答えず、心が狭いと返された。そして今、彼は大夜会の約束すら、私に断りもなく売り渡そうとしている。
もう、十分だった。誰に対しても、天に対しても、胸を張ってそう言える。
その足で私は部屋を出た。向かう先は自室でも、涙を流すための寝台でもない。
廊下の突き当たり――お父様の書斎の、重い樫の扉の前だった。




