第5話
誕生祝いから十日ほど経った頃、私は高熱を出して倒れた。
張り詰めていた糸が、切れたのかもしれない。医師は過労だと言った。侯爵夫人主催の慈善市の采配、公爵家の来客対応、王妃殿下の茶会の準備。それらすべてを、いつも通り完璧にこなした翌朝、私は寝台から起き上がれなくなっていた。
「レーヴェルト様には、すでに使いを出しております」
濡れた布を額に置き替えながら、エルネスタが言った。婚約者が病に伏せたのだ。見舞いに駆けつけるのが道理であり、礼儀でもある。熱に浮かされた頭の片隅で、それでも私は期待をしていた。今度こそ、来てくれるのではないかと。
その日、彼は来なかった。
翌日も、来なかった。
代わりに侯爵夫人から心のこもった見舞いの品と手紙が届き、エルネスタが読み上げてくれた。息子の非礼を詫びる一文に、夫人ご自身の困惑が滲んでいた。婚約者の実家にすら案じられているのに、当の本人だけが動かない。熱の下がらない頭で、私はぼんやりとそれを聞いていた。
三日目の午後、届いたのは彼本人ではなく、豪奢な花束と一枚のカードだった。
『快癒を祈る。今日はミレーヌの刺繍の会の付き添いがあるので伺えない。大事にしてくれ』
刺繍の会。婚約者の病床と、幼馴染の刺繍の会。彼の中で天秤は、迷いもなく傾いたのだ。
「……お嬢様。この花は、いかがいたしましょう」
エルネスタの声が、珍しく硬かった。花束はどこまでも美しく、どこまでも事務的だった。おそらく従者に手配を任せたのだろう。彼の好みでも、私の好みでもない、ただ高価なだけの花。
「飾っておいて。花に罪はないもの」
私は目を閉じた。瞼の裏が熱いのは、きっと熱のせいだった。
その夜、私は夢を見た。
夢の中の私は八歳で、婚約が調ったばかりだった。幼い私は鏡の前でくるりと回り、エルネスタに笑いかける。この絵に描いたような政略結婚でも、一生懸命に努力すれば、いつかきっと好きになってもらえるわ、と。刺繍が上手になったら。お茶を上手に淹れられたら。彼の領地のことを、彼より詳しくなったら。いつか、きっと。
いつか。いつか。いつか。
幼い私が無邪気に積み上げていく「いつか」を、熱に浮かされた今の私は、ただ黙って見ていることしかできなかった。教えてあげられたらいいのに。その日は十年経っても来ないのだと。あなたの席は、いつだって彼から三つ離れた場所なのだと。
夢の終わりに、幼い私がこちらを振り返った。そして少し寂しそうに、けれどはっきりと言ったのだ。
――もう、いいよ。
四日目の朝、熱は下がった。医師が床上げを許してくれたのは、それからさらに三日後のことだったけれど。
寝台の上で身を起こすと、窓の外には抜けるような青空が広がっていた。エルネスタが涙ぐみながら粥の匙を差し出してくる。私はそれを受け取り、自分の手で口へ運んだ。温かい粥の味が、妙にはっきりと分かった。
体は軽かった。そして胸の奥は、それよりもっと軽く、そして静かだった。
あれほどしつこく燻っていた「いつか」の火が、消えている。悲しみも、怒りすらもない。熱と一緒に、心のいちばん深いところにあった何かが、すっかり冷めてしまったのだと分かった。
私はもう、あの人に期待をしていない。
その事実だけが、洗いたての敷布のように、さっぱりと胸に広がっていた。
「エルネスタ。今日はいいお天気ね」
「……はい、お嬢様。とても」
窓を開けてもらうと、庭の緑の匂いのする風が部屋に流れ込んだ。私は深く息を吸う。十年間背負い続けた重い外套を、熱と一緒に脱ぎ捨ててしまったような、不思議な身軽さだった。この軽さが何を意味するのか、その時の私はまだ、はっきりとは分かっていなかったけれど。




