第29話
婚礼の朝は、雲ひとつない春空だった。
王都の大聖堂へ続く道は、夜明け前から祝いの人々で埋め尽くされていた。楽の音、花売りの声、子どもたちの歓声。屋根の上にまで人が鈴なりになって、手を振ってくれている。国中が、今日という日を待っていてくれたかのようだった。
支度の間で、私は鏡の前に立った。純白の婚礼衣装。裾には、王家の意匠とともに、アルディエールの紋である菫の花が銀糸で縫い込まれている。職人が半年をかけた見事な仕事を、エルネスタが最後にそっと整えてくれた。鏡の中の花嫁は、十年前の少女が夢見たどんな姿よりも、穏やかに笑っていた。
「……お綺麗です。世界中の誰よりも」
「泣くのは式のあとまで我慢なさい、侍女長どの」
「お嬢様こそ」
控えの間に、お父様が迎えに来られた。娘の姿を一目見て、この人は何かを言おうとし、二度失敗し、三度目にようやく、掠れた声で一言だけ仰った。
「……よい婚礼日和だ」
それがこの方の精一杯なのだと知っているから、私は笑って、その腕に手を添えた。
大聖堂の扉が開くと、光と、祝福のどよめきが押し寄せた。
参列席には国中の貴族が並び、その最前に王家の方々が座しておられる。長い長い緋の絨毯の先、祭壇の前に、正装の殿下が立っていた。
一歩ずつ進むたび、思い出が足元を流れていった。一人で立った夜会。白くなった手帳。温室の茶会。雨の回廊。絶版の本と、蒸らしすぎた渋いお茶と、「順番を待つのは得意だ」と言った真顔。この絨毯の一歩一歩が、あの日々の上に敷かれているのだと思うと、不思議と涙は出なかった。ただ、誇らしかった。婚約破棄も、それに至る十年も、隠すべき傷ではない。この光へ続く道の、確かな一部だった。
祭壇の前で、お父様は私の手を殿下の手へと渡した。渡す瞬間、お父様が小声で「例の件、お忘れなきよう」と釘を刺し、殿下が真顔で「無論です」と返したのは、たぶん、私しか聞いていない。
誓いの言葉は、古式に則って進んだ。健やかなるときも、病めるときも。富めるときも、貧しきときも。定型の文言に、殿下は淀みなく応えていき――そして最後に、司祭が閉じようとした間隙に、静かに一文を差し込んだ。
「――加えて、私は生涯、彼女を一番に選び続けることを、ここに誓う」
大聖堂が、ざわりと揺れた。
定型にない誓句。司祭が目を白黒させる。けれど参列席の多くは、あの大夜会を知る人々だった。その一文が、誰に向けた、何への答えなのか。悟った誰かが手巾を目に当て、すすり泣きが、さざ波のように広がっていった。参列席の最前で、お父様が天井を仰いだのも、その後ろに控えたエルネスタが式のあとまでという約束を早々に破ったのも、視界の端に見えていた。
一番に、選び続ける。
十年間、ただの一度も選ばれなかった私に、この人は、これ以上ない場所で、これ以上ない言葉をくれた。
「……ずるい方」
囁くと、殿下は少しだけ口の端を上げた。この人のこんな顔を知っているのは、世界で私だけだ。
「言っただろう。一生かけて証明すると。今日はその、初日だ」
誓いの口づけは、額に、羽根のように軽く。大聖堂の鐘が、一斉に鳴りはじめた。
扉が開かれ、光の中へ、二人並んで歩み出す。抜けるような青い空から、街中の人々が撒く花びらが、雪のように降っていた。
「ヴィオレッタ」
夫となった人が、花びらの雨の中、隣で静かに言った。
「君の隣は、もう空席にはならない」
涙は、今度こそ幸福の色をして、頬を伝った。




