第30話
あれから、いくつかの春が巡った。
王弟妃ヴィオレッタの名は、いまや国中に知られている。曰く、財政に明るく、視察を厭わず、市井の声をよく聞く妃殿下。曰く、氷の王子を春にした人。孤児院の子どもたちは私の顔を見ると花を差し出してくれるし、下町のカフェのおかみさんは、いまだに私を「ヴィオラさん」と呼んで、蜂蜜と林檎のお茶を出してくれる。
あの十年に積んだものは、何ひとつ無駄にならなかった。帳簿を読む目は王領の財政を支え、社交界の力学を読む頭は外つ国との交渉に生き、そして――蔑ろにされる痛みを知る心は、声の小さい人々の声を聞き逃さないための、何よりの羅針盤になった。かつての痛みは、もう痛みの形をしていない。あの日、見切りをつける勇気を出した自分への、静かな誇りに変わっている。
「妃殿下。そろそろお時間でございます」
侍女長のエルネスタが、執務室の扉から顔を覗かせる。彼女の手帳には、相変わらず何かがせっせと記録されているらしい。先日「もうすぐ三千に届きます」と誇らしげに報告されたけれど、何の数かは、教えてもらえなかった。もっとも、見当はついている。三千日には少し足りない結婚生活と、ぴたりと重なる数だから。
廊下を渡り、続きの間の扉を開けると、先客が待っていた。
「遅い」
「まだ約束の刻限の前でございますよ、陛下の右腕ともあろう御方が」
「一刻も早く会いたかった。何か問題が?」
真顔で言い返してくるのは、私の夫となって久しい、この国の王弟殿下である。卓の上には、彼が淹れたのだろう茶が二杯、湯気を立てていた。数年の修練の末、殿下の茶はようやく「飲める何か」から「おいしいお茶」に昇格している。
この茶の時間は、結婚以来、一日も欠かされたことがない。
どんな政務よりも、どんな来客よりも、この四半刻が優先される。今日も扉の外では、決裁を待つ大臣が所在なげに廊下を往復しているはずだ。もっとも近頃では、大臣たちのほうも心得たもので、この時間の前後には端から予定を入れなくなったと聞く。気の毒に思って一度だけ「お仕事を先に」と勧めたら、夫は心外そうに眉を上げてこう言った。妻との約束は、国政の一部だ、と。屁理屈が上手になったものだと思う。
「……何を笑っている」
「いいえ。幸せだなあ、と思っただけでございます」
素直に答えると、夫は虚をつかれた顔をして、それから、耳を赤くしてそっぽを向いた。結婚して幾年経っても、この人のこういうところは変わらない。きっと生涯変わらないのだろう。変わらないでほしいと、思っている。窓辺の席に着くと、夫はさりげなく、日の当たらない側の椅子を私に譲った。こういう小さなことを、この人は絶対に口にしないのだ。
窓の外では、庭の花が満開だった。私の一番好きな、春の花。婚礼のあの日、花びらの雨の下をくぐった、あの花。
ふと、遠い日のことを思い出す。数えきれない夜会の隅で、空っぽの隣を抱えて立っていた、若い日の私。あの子に教えてあげられたら、と今でも時々思う。あなたの流した涙は無駄にならない。あなたの積んだ努力は消えない。そして、あなたを一番に選ぶ人は、ちゃんといる。だからどうか、自分を疑わないで、と。
けれど、きっと言葉は要らないのだ。あの日々を歩き抜いた私が、今ここで笑っている。それが何よりの答えだから。
一番大切な人に、一番に選ばれる。
ただそれだけのことが、世界で一番の幸福だと――私はもう、知っている。




