第28話
婚礼を明日に控えた夜、私は自室で、荷造りの済んだ部屋を眺めていた。
明日からは、王子宮が私の住まいになる。十八年を過ごしたこの部屋は、驚くほどがらんとして、それでいて、隅々にまで思い出が染みついていた。窓辺の椅子。読み込んだ本の並んでいた棚。泣いた夜に顔を埋めた、あの枕の場所。
「お嬢様。白湯をお持ちしました。……眠れませんか」
「ええ、少しだけ。あなたも座って、エルネスタ。最後の夜くらい、いいでしょう」
侍女は少し迷ってから、寝台の脇の椅子に浅く腰かけた。湯気の立つ碗を挟んで、私たちはぽつりぽつりと、昔話を始めた。
初めて刺繍の針で指を刺して、泣くのを我慢した日のこと。侯爵家の帳簿を徹夜で写して、二人して朝日を見た日のこと。約束を反故にされるたび、この娘が私の代わりに怒った顔をしてくれたこと。下町のカフェで、生まれて初めて自分の好きなお茶を頼んだ、あの解放の日のこと。楽しかった思い出より、苦しかった思い出のほうが多い十八年。それでも今夜は、どの思い出も、不思議と柔らかい光を纏って見えた。
「……覚えておいでですか。婚約破棄の、あの大夜会の朝のこと」
「ええ。あなた、私のドレスの紐を結びながら、手が震えていたわね」
「武者震いでございます」
澄まして言うから、二人で吹き出した。ひとしきり笑ったあと、エルネスタはふと碗を置き、居住まいを正した。
「お嬢様。畏れながら、今夜だけ、申し上げたいことがございます」
「なあに、改まって」
「……私は、覚えております。お嬢様が我慢して泣かれた夜を、ぜんぶ。枕を濡らして、朝には何事もなかったお顔で立っていらした日を、ぜんぶ、この胸に覚えております」
声が、震えていた。
「お側におりながら、お守りできませんでした。差し出がましいことも言えず、ただ髪を梳くことしか。それがずっと、ずっと悔しくて」
「エルネスタ……」
「ですから、これからは」
彼女は顔を上げた。涙をいっぱいに溜めた目が、まっすぐに私を見ていた。
「これからは、お嬢様が笑われた日を数えます。泣いた夜の数なんて、とっくに追い越してしまうくらい、たくさん、たくさん数えてまいります。……それを、私の生涯の仕事にさせてくださいませ」
私は碗を置き、彼女の手を両手で包んだ。
「なら、命じます。エルネスタ・メイル。明日より王子宮の侍女長として、私についてきなさい。あなたの生涯の仕事とやらを、一番近くで果たしてもらうわ」
「……っ、はい。はいっ……!」
主従の作法も忘れて、私たちは手を取り合ったまま、泣いて、笑った。泣いた夜を数えてくれる人がいた。それだけで、あの十年は孤独ではなかったのだと、今なら分かる。この娘がいてくれたから、私は壊れずに歩いてこられたのだ。
そのときだった。窓の外、前庭のほうから、何やら押し問答の声が聞こえてきた。
「なりません殿下、婚礼の前夜に花婿が花嫁に会うのは、縁起が悪うございます!」
「顔を見たいだけだ。窓越しでいい。三十数える間だけ――いや、二十でいい。十五で手を打とう」
「な・り・ま・せ・ん!」
衛兵と侍従に両側から押しとどめられている、見慣れた夜色の髪が、月明かりの下に見えた。
私とエルネスタは顔を見合わせ、涙も忘れて笑い転げた。氷の王子が聞いて呆れる。明日には夫になる人は、今夜も変わらず、少し不器用で、どこまでも真っ直ぐだった。
だからきっと、大丈夫。明日からの日々は、笑った日の数のほうが、ずっと多い。




