第27話
婚約が正式に整うと、王宮での王子妃教育が始まった。
王族に嫁ぐ者が修めるべき課程は、山のようにある。宮廷儀礼、王家の歴史、諸外国の情勢、公務の作法、王領の財政。婚礼までの一年半で修めきれず、嫁いでから泣きながら学び直す妃も珍しくない――と、教育係の老女官長は、初日に厳かに宣言した。
「厳しく参りますよ。どうぞ覚悟なさいませ」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
その覚悟が揺らぐことは、結局、一度もなかった。
宮廷儀礼の試問で、私は満点を取った。王家の歴史も、外つ国の言葉も、財政の帳簿仕事も。女官長が次々と繰り出す難題を、私は淡々と解き続けた。三日目の夕方、ついに女官長は試問の紙を置き、まじまじと私を見た。
「……ヴィオレッタ様。失礼ながら、これらをどちらで」
「十年間、次期侯爵夫人になるための教育を受けて参りました。家政も、帳簿も、社交も。……嫁ぎ先が変わっただけで、学びは学びのままでございますから」
女官長は、しばらく黙っていた。それから、老いた目元をわずかに和らげて、深々と頭を下げた。
「長く宮仕えをしておりますが、これほどの令嬢は初めてでございます。あなた様の過去の十年は、一日たりとも、無駄ではございませんでした」
無駄では、なかった。
その一言が、思いがけず胸の深いところに沁みた。報われない婚約のために積んだ研鑽だと、心のどこかで疎んじてもいた十年。それが今、私自身の足場として、確かに私を支えている。あの日々を過ごした私を、初めて、抱きしめてやりたいと思った。
その晩、日誌にこう書いた。努力は、向けた相手を間違えても、積んだ本人のもとには残る。あの十年は彼のためのものではなく、今日の私を作るためのものだったのだ、と。
かくして王子妃教育の大半は免除の扱いで修了となり、残る課程は王家固有の儀礼だけとなった。婚礼の日取りは、当初の予定を大きく繰り上げられることになった。
多忙なはずの殿下は、それでも毎日、必ず会いに来られた。
公務の合間の四半刻。庭を歩くだけの日もあれば、無言で茶を飲むだけの日もある。それでも欠かさず、必ず。約束の刻限に遅れたことは、この半年で一度だけ。その一度も、先触れと理由と詫びの言葉が、本人より先に届いた。ある日、供の侍従がぽろりと零したところによると、殿下は執務の予定表の一番上に菫の花の印だけを記した枠を設け、いかなる政務もその枠には入れさせないのだという。
「殿下があのように笑われるのを、私どもは初めて拝見しました」
侍従は、しみじみとそう言った。氷の王子と呼ばれた御方は、いまや私の淹れた茶を片手に、茶葉の蒸らし時間について大真面目に議論を挑んでくる、少し不器用な婚約者だった。ちなみに議論の勝敗は、目下のところ私の全勝である。
その日の帰り際、殿下は思い出したように言った。
「日取りが決まった。……春だ。君の一番好きな、あの花の咲く頃にした」
あの花。温室の茶会で、たった一度、口にしただけの花の名を、この方は覚えていた。半年も前の、何気ない世間話のひとかけらを。
「どうして、と訊いてもよろしいですか」
「決まっている。君が一番よく笑う季節に、一番の笑顔が見たい。それだけだ」
言うだけ言って、さっさと踵を返すのは相変わらずで。回廊の向こうへ足早に消えていく、その広い背中を見送りながら、私は口元を押さえて笑いを堪えた。
その耳が赤いことに、私はもう、気づいてしまうのだけれど。




