第26話
その人が公爵邸の門前に現れたと聞いたのは、婚約の祝賀が一段落した、ある秋の午後だった。
「クロード・レーヴェルト……いえ、今は家名を返上して、ただのクロードと名乗っておられるようです。お目通りは望まない、門前で一言だけ伝えたいことがある、と」
取り次いだ家令は、困惑を隠さなかった。追い返すのは簡単だった。けれど「目通りを望まない」という言葉に、以前の彼にはなかった何かを感じて、私は門まで出ることにした。エルネスタと、護衛を伴って。
門の外に立っていたのは、記憶より随分と痩せた男だった。
仕立ての落ちた外套。日に焼けた顔。荷運びで固くなったのだろう、節くれだった手。聞けば今は、王都の外れの商会で、荷運びと帳簿付けの職を得ているという。あの侯爵家の嫡男だった人の姿としては、あまりに落魄していて――けれど不思議と、目の色だけは、以前より澄んでいた。
「……時間を取らせて、すまない。すぐに済む」
彼は深く息を吸い、そして、頭を下げた。貴族の礼ではなかった。腰から深く折る、市井の人間の、飾りのないお辞儀だった。
「謝りたかった。言い訳は、もうしない」
顔を上げた彼は、途切れ途切れに、けれど逃げずに言葉を続けた。
「今なら分かる。俺は君の努力の上に胡座をかいていた。君が調えてくれた席に座り、君が守ってくれた体面を着て、それを全部、生まれつきの持ち物だと思っていた。君を蔑ろにしている自覚さえなかった。……自覚がなかったことは、罪が軽いことじゃない。一番重いことだったんだと、全部失ってから知った」
働きに出て、初めて知ったのだという。約束を破れば職を失い、帳簿を疎かにすれば給金が消える。当たり前の因果の中で暮らして初めて、自分がどれだけ因果の外で生きてきたか、そして誰がその因果を肩代わりしてくれていたのかが、身に沁みて分かったのだと。
風が、門前の枯葉を転がしていった。
「幸せになってくれとは、言わない。俺に言われるまでもなく、君はもう幸せだ。ただ……済まなかった。十年分、済まなかった。それだけを言いに来た」
私は、静かにその言葉を受け止めた。
不思議なほど、心は凪いでいた。怒りも、ざまあみろという昏い喜びも、湧いてこない。目の前にいるのは、私を十年苦しめた婚約者ではなく、すべてを失ってようやく人の痛みを知った、一人の労働者だった。赦す必要はない。憎み続ける必要も、もうない。私の心の中で、この人の占める場所は、とうに空き部屋になっていたのだから。
「……クロード様」
私は、最後にもう一度だけ、その名を呼んだ。
「その言葉を、三年前に聞きたかった」
それが、私の答えのすべてだった。赦しではない。呪いでもない。ただの、事実。
彼は目を伏せ、「……ああ」と掠れた声で頷いた。そのひと言に、万感が詰まっているのが分かった。そして、もう一度深く腰を折ると、二度と振り返らずに歩き去っていった。曲がり角に消えていく後ろ姿を、私は最後まで見送った。見送りながら、胸の内で静かに扉を閉めた。十年間の、最後の扉を。
「――終わったか」
振り向くと、いつの間に来られたのか、殿下が門の内に立っていた。
「殿下。また様子を見にいらしたのですか」
「悪いか」
「いいえ。……ちっとも。むしろ、嬉しゅうございます」
差し出された手に、私は自分の手を重ねた。振り返った先に、もう過去はない。あるのは、私を待っていてくれる人の、あたたかい手のひらだけだった。




