第25話
ミレーヌ・フォスターの最後の賭けは、王都でも指折りの豪商、バルド商会の当主だった。
妻を亡くしたばかりの、五十絡みの商人。貴族の令嬢という肩書きに弱く、社交界の噂には疎い。彼女の目利きは、今度ばかりは確かだった――少なくとも、入り口までは。
病がちを装った儚げな令嬢に、当主はすっかり心を奪われた。後妻の話は瞬く間に進み、結納の日取りまで決まりかけた。男爵家の借財を清算し、彼女には過分な支度金が贈られる約束だった。
破談は、たった一通の調査書で訪れた。
商人という人種は、貴族よりよほど堅実にできている。大きな取引の前に相手を調べるのは、彼らにとって挨拶と同じことだった。バルド商会が抱える調査人は、半月とかけずに、社交界の誰もが知る「事実」を主人の机に積み上げた。
十四度の仮病。四十件を超える貢がせの記録。第二王子による公開の断罪。傾いた侯爵家と、廃嫡された元嫡男への、便箋一枚の絶縁状。
「……病がちで健気な、か」
当主は調査書を閉じ、深い溜息をついた。彼が惚れ込んだ「儚さ」が、帳簿のように整然と、作為の産物であったことを示されては、商人として退くほかなかった。亡き妻の面影を重ねかけた分だけ、失望は深かったという。破談の使者は、結納の品の代わりに、慰謝料の請求書を携えて男爵家を訪れた。婚約に至る過程で、虚偽の申告があったためである。
男爵家は、今度こそ完全に折れた。
「おまえというやつは……どこまでこの家の名を汚せば気が済むのだ!」
初老の男爵は、娘に初めて、絶縁に等しい沙汰を下した。北の辺境にある遠縁の農園への、事実上の追放だった。行儀見習いという名目だが、迎えの馬車が粗末な荷馬車であることが、すべてを物語っていた。男爵夫人は娘の顔を見ようともせず、部屋に籠もったきりだったという。甘やかして育てた責めの半分は自分たちにあると、今さら気づいたのかもしれない。
「お父様、待って。私は悪くないわ。私はただ、生きようとしただけよ。何も持たずに生まれた娘が、持っている人から少し分けてもらって、何がいけないの」
「……その理屈で、おまえは何人を沈めた」
男爵は、それきり娘を見なかった。娘の言う「少し」が、一つの侯爵家と、自分の家と、そして娘自身の人生を沈めたことを、老いた父は誰より正確に数えていた。
出立の朝は、皮肉なほどよく晴れていた。
荷馬車の粗末な木の座席で、ミレーヌは膝の上の小さな鞄を抱えていた。詰められたのは、僅かな衣類だけ。宝飾はすべて、慰謝料と借財の穴埋めに消えた。
馬車が王都の大路に差しかかったとき、街中の鐘という鐘が、一斉に鳴りはじめた。
祝いの鐘だった。第二王子ジークハルト殿下と、アルディエール公爵令嬢ヴィオレッタ様の婚約を寿ぐ、国を挙げての祝鐘。沿道には花を手にした市民が溢れ、誰もが幸せそうに笑っていた。あの令嬢は健気に十年耐えた末に真実の愛を得たのだと、市井の吟遊詩人までが歌にして、その物語は国中の娘たちの涙を誘っているという。
「……なによ」
ミレーヌは俯いて、唇を噛んだ。
あの女は、私が要らないと捨てた男の、成れの果てを引き取っただけのはずだった。それがどうして、国中に祝福されて、私はこんな荷馬車に揺られているのか。どこで間違えたのか、彼女には最後まで分からなかった。
分からないまま、荷馬車は鐘の音に追われるように、王都の門を抜けていった。
見送る者は、一人もいなかった。




