第23話
雨の日から半月後、王家からアルディエール公爵家へ、正式な使者が立った。門番から報せを受けた屋敷中が、朝から上を下への大騒ぎになった。
第二王子ジークハルト殿下より、公爵令嬢ヴィオレッタへの求婚の申し入れ。口上を述べる使者の後ろで、殿下ご本人が直立していたものだから、公爵家の家人たちは仰天した。求婚の使者に本人が随行するなど、前代未聞である。
「使者任せでは、肝心の誠意が伝わらんでしょう」
殿下は大真面目にそう仰った。
応接の間に、お父様と殿下が向かい合った。国で二番目に尊い青年と、国で最も敵に回したくない公爵。傍で控える私は、緊張のあまり指先が冷たくなっていくのを感じていた。
長い長い沈黙のあと、先に口を開いたのはお父様だった。
「殿下。率直に伺います。娘の何を、望まれますか」
「ヴィオレッタ嬢自身を。……と答えたいところですが、それでは足りませんな」
殿下は居住まいを正した。
「公爵はご存じのはずだ。彼女が十年、どのように扱われてきたかを。私が望むのは、彼女が当たり前のものを当たり前に受け取れる場所です。約束が守られ、隣の席が埋まっていて、努力が努力として敬われる場所。それを、私の隣に作りたい」
「……王族の結婚は、政略と切り離せませんぞ」
「無論です。この縁組みが王家にも公爵家にも利をもたらすことは、否定しません。ですが公爵――政略で結ばれて、なお相手を大切にすることは、できる。それを怠った男の末路なら、我々はつい先日、揃って見届けたばかりでしょう」
お父様の口元が、僅かに動いた。笑いを堪えた顔だった。
「一つだけ、申し上げておきます」
お父様は静かに、けれど底冷えのする声で仰った。
「娘は、二度泣いております。一度目は他家の不実に。二度目は安堵に。……三度目を悲しみで泣かせたなら、殿下。王族であろうと、私は容赦をいたしません」
公爵家の当主が王族に向ける言葉としては、明白に一線を越えていた。けれど殿下は眉ひとつ動かさず、即答した。
「その時は、公爵自ら私を斬って構いません。剣はいつでも預けましょう。――もっとも、その機会は生涯、差し上げませんが」
一切の淀みのない即答だった。売り言葉に買い言葉ではない。この方は本気で、生涯を賭ける覚悟で、ここに座っている。
沈黙が落ち、やがてお父様は深く息を吐いて、初めて相好を崩された。
「……ヴィオレッタ。おまえの心は」
問われて、私は前に進み出た。震えそうになる声を、腹の底で支える。
「お受けいたします。この方の隣に、私の意志で、立ちとうございます」
政略でも、家のためでもなく、私の意志で。人生で初めて口にするその言葉は、驚くほど温かく、舌の上で確かな重みを持っていた。八歳の春に始まった一度目の婚約と、何もかもが違う。あの時の私は選ばれる側ですらなく、ただ差し出される側だった。今の私は、自分の足でここに立ち、自分の声で選んでいる。
婚約は、その場で内定した。
数日後、両家連名の婚約内定の報せは、国中の貴族のもとへ届けられた。
そのうちの一通は、当然のように、レーヴェルト侯爵邸の門もくぐった。折しも廃嫡の期限を目前に控えた屋敷の主人は、その報せを手に長いこと動かず、やがて力なく呟いたという。
「……我が家は、なんというものを手放したのだ」
手放したのではない。手の中にある間、一度も見ようとしなかったのだ。けれどその言葉を口にできる者は、もうあの屋敷にはいなかった。




