第22話
その日の午後の茶会は、王宮の薔薇の庭園で開かれるはずだった。
空模様が怪しくなったのは、席に着いてすぐのことだ。遠くで雷鳴が転がり、みるみる黒くなった雲から、大粒の雨が落ちてきた。夏の終わりの、気まぐれな驟雨だった。給仕たちが慌てて茶器を下げる中、殿下は私の手を取る代わりに、ご自分の上着を私の頭上に掲げて、回廊まで走ってくださった。
「……濡れたな。すまない、天候の読みを誤った。上着は好きに使ってくれ」
「殿下が謝られることでは。それに」
回廊の柱の陰から、私は雨に烟る庭園を眺めた。
「雨の庭も、美しゅうございます」
叩きつける雨が薔薇の葉を鳴らし、石畳に小さな川をつくる。雨宿りの回廊には、私たち二人のほかに誰もいなかった。護衛たちは少し離れた柱の陰で、心得たように背を向けている。雨音だけが満ちる、不思議に静かな時間だった。
ふと、殿下が口を開いた。
「……昔の話をしてもいいか」
「はい」
「三年前の建国祭の夜会を、覚えているか。君が熱を出す少し前の」
私は記憶を辿った。三年前――そういえばあの建国祭の直後、私は初めて高熱を出して寝込んだのだった。あの頃の夜会は、どれも同じ色をしている。一人で会場に立ち、完璧に微笑み、帰りの馬車でひっそりと灯りを消す。ただ、その繰り返しの日々。
「あの夜、私は君を見ていた。婚約者に置き去りにされて、それでも姿勢ひとつ崩さず、老夫人の長話に丁寧に相槌を打つ君を。……見事だと思った。同時に、腹が立った」
「私に、でございますか」
「違う。君の隣を空けたまま平気でいる男と――それを遠くから眺めているだけの、自分自身にだ」
雨音の向こうで、殿下の声は静かに続いた。
「声をかける口実なら、いくらでも作れた。王子という立場は、そういうことには便利だ。だが、しなかった。婚約者のある令嬢に近づけば、要らぬ噂で君を傷つける。……そう、もっともらしい理屈を並べて、本当はただ、怖かっただけだ。あの完璧な微笑の内側に踏み込む勇気が、私にはなかった」
「殿下……」
「君は、一人で立っていたのではない。周りの誰もが――私が、君の隣に立つ勇気を持たなかった。それだけのことだ。だから、君が自分を責める理由は、最初からどこにもない」
その言葉が、胸の一番深いところにある古い傷に、まっすぐ触れた。
十年間、私はどこかでずっと思っていたのだ。選ばれなかったのは、私に何かが足りなかったからだと。もっと美しければ。もっと愛らしければ。もっと、もっと、もっと――積み上げても届かなかった「もっと」の砂山が、あの静かな声で、音もなく崩れていった。足りなかったのは私ではなかった。ただ、見る目のない人の前に、立っていただけだった。
気がつけば、涙が溢れていた。
大夜会でも流さなかった涙が、後から後から、堰を切ったように。殿下は慌てず、騒がず、ただ黙って、ご自分の手巾を差し出してくださった。泣きやむまで、急かす言葉はひとつもなかった。雨音が、私の嗚咽を優しく隠してくれた。
どれほど泣いただろう。ようやく顔を上げた私は、濡れた声のまま、尋ねていた。この問いを口にするのに、半年かかった。いいえ――本当は、十年と半年。
「……もう、信じてもよろしいのでしょうか。私は、誰かの一番に、なれるのだと」
殿下は瞬きもせず、真っ直ぐに答えた。
「ああ。――一生かけて、証明する」
一言の飾りもない、剣の誓いのような返事だった。
雨は、いつの間にか上がりかけていた。雲の切れ間から差した光が、濡れた庭園を金色に縁取っていた。




