第21話
ミレーヌ・フォスターは、その日も鏡の前で入念に涙の稽古をしていた。
目を潤ませ、唇を微かに震わせ、それでも健気に微笑んでみせる。この顔ひとつで、彼女は今日まで生きてきた。父の男爵家は貧しく、頼れる縁もない。ならば、頼らせてくれる誰かを探すしかない。そのための武器が、この儚さだった。
誤算は、レーヴェルト侯爵家が思ったより早く、思ったより深く沈んだことだ。
廃嫡の噂まで流れる家の嫡男に、もう投資する価値はない。彼女の算盤は、とうにその答えを弾き出していた。だから彼女は、次の庇護者を探しはじめた。あの夜会以来、体調不良を理由にクロードとの面会を減らしながら、裕福な商家の次男、妻を亡くした子爵、係累の少ない老伯爵――目星をつけた相手の集まりに、細心の装いで顔を出した。
結果は、全滅だった。
「フォスター男爵令嬢? ……ああ、あの」
どこへ行っても、名乗った瞬間に相手の顔つきが変わる。あの大夜会での第二王子の断罪は、尾ひれどころか背びれまでつけて、社交界の隅々に行き渡っていた。十四度の仮病。四十件を超える金銭。泣けば済むと思っている顔。彼女が十年かけて磨いた「儚くて健気な令嬢」の絵姿は、もはや誰の目にも「男を破滅させる女」の似顔絵にしか見えなかった。
老伯爵の夜会では、退出の間際、面と向かって言われた。
「お嬢さん、儂は年寄りだが、耄碌はしとらんよ」
焦りは、日ごとに募った。頼みの綱の父からは、逆に泣きつかれる始末だった。侯爵家からの「援助」が断たれた男爵家には、彼女の装いを支える余力など、最初からなかったのだ。衣装箱の宝飾を一つ、また一つと手放しながら、彼女は爪を噛んだ。こんなはずではなかった。あとほんの少しで、侯爵夫人の座に手が届くはずだったのに。
残った持ち札は、一枚だけだった。
「……結婚してくれるって、言ったじゃない」
レーヴェルト邸の庭園で、ミレーヌはクロードに詰め寄った。稽古した涙ではなく、焦りの滲んだ本物の涙だった。
「昔、約束したでしょう。ミレーヌは僕が守るって。大人になったら結婚しようって。だから私、今日までずっと信じて」
「ミレーヌ、待ってくれ。すまないが、今それどころじゃないんだ。家のことも、廃嫡の話も」
「それどころじゃない?」
彼女の声が、一段低くなった。
「私を今まで散々そばに置いておいて、家が傾いたら『それどころじゃない』? ふざけないで。責任を取ってよ」
「せ、責任って……そもそも、こうなったのは」
クロードは言い淀んだ。その先を言う資格が自分にないことくらいは、さすがに分かっていた。けれど言葉の矛先は、聡い彼女に正確に伝わった。瞬間、ミレーヌの顔から、十年分の「儚さ」が剥がれ落ちた。
「――何よ、その顔。まさか、私のせいだって言うの?」
初めて聞く、氷のような声だった。
「あなたが婚約者を放っておくから悪いんでしょう? 私は『困った』って言っただけ。『助けて』って頼んだだけよ。断ることだって、婚約者を優先することだって、いくらでもできたのに、しなかったのはあなた。全部あなたが選んだのよ。それを今さら、私のせいにするの?」
クロードは、雷に打たれたように立ち尽くした。
目の前にいるのは、彼が十年間守り続けた、か弱い幼馴染ではなかった。いや――最初から、そんな娘は、どこにもいなかったのだ。守るべき儚さも、報われるべき献身も、すべては彼が見たいように見ていた、都合のいい絵空事だった。




