第2話
私とクロード・レーヴェルト様の婚約が調ったのは、私が八歳になった春のことだった。
アルディエール公爵家とレーヴェルト侯爵家。家格と領地の利害が釣り合った、絵に描いたような政略婚約。けれど幼い私は、初めて顔を合わせた日の彼の、少し照れたような笑顔が嫌いではなかった。政略で結ばれるのなら、せめて心は自分で育てよう。あの日、確かにそう決めたのだ。
次期侯爵夫人にふさわしくあるために、私は努力を惜しまなかった。
礼儀作法と語学は言うに及ばず、侯爵領の主産業である葡萄酒の醸造を学び、帳簿を読めるようになり、社交界の複雑な力関係を頭に叩き込んだ。彼の好物が仔羊の香草焼きであること、渋めに淹れた紅茶を好むこと、雨の日は決まって古い剣の手入れをして過ごすこと。十年をかけて、私は彼のすべてを覚えた。
家庭教師たちは口を揃えて言った。これほど婚家に尽くす令嬢は見たことがない、と。侯爵夫妻も、私を実の娘のように可愛がってくださった。足りないものは、ただ一つ。当の本人の心だけだった。
彼が私について覚えてくれたことは、おそらく何ひとつない。
思えば異変の芽は、婚約の当初からあったのだ。
「ミレーヌは家族同然なんだ。妹みたいなものだから、気にしないでやってくれ」
フォスター男爵令嬢ミレーヌ。侯爵家の別邸の近くで育ったという、彼の幼馴染。初めて紹介された日、彼女は花のように微笑んで言った。
「クロード様が、いつもお世話になっております」
まるで自分のほうが身内であるかのような挨拶に、幼心に妙な引っかかりを覚えたことを、今でもはっきりと思い出せる。
妹のようなもの。その言葉を、私は十年間、信じようと努めてきた。
けれど「妹」は、私たち婚約者の時間に、当然の顔をして割り込み続けた。二人で出かける約束の日に限って熱を出し、観劇の席にはいつの間にか三人目の椅子が用意され、彼への急ぎの相談事は、なぜか必ず夜会の直前に舞い込んだ。
そして彼は、ただの一度も、私を選ばなかった。
「君は強いから大丈夫だろう」
「ミレーヌには俺しかいないんだ」
「婚約者なんだから、これくらい分かってくれ」
優しい声で紡がれる、身勝手な言葉たち。抗議をすれば「心が狭い」と眉を顰められ、黙っていれば「理解のある婚約者」として都合よく扱われる。いつしか私は、期待をする前に諦める術ばかり、上手になっていた。
エルネスタは何度も言った。お嬢様は我慢がすぎます、と。そのたびに私は笑って答えたのだ。婚約とはそういうものよ、と。あれは一体、誰に向けた言い訳だったのだろう。
そして今日は、婚約十周年の記念日だった。
半年前、彼は珍しく自分から言ったのだ。十年の節目だ、二人で湖畔の離宮へ行こう、と。私はこの日のために新しいドレスを仕立て、彼の好む渋めの茶葉を取り寄せ、料理長と献立を練った。期待するまい、と自分に言い聞かせながら、それでも心のどこかに小さな灯りがともるのを、どうしても消すことができなかった。
約束の刻限、屋敷の門をくぐったのは、彼の馬車ではなく一人の使者だった。
差し出された銀盆の上には、一枚のカードだけが載っていた。見慣れた筆跡が、簡潔にこう告げている。
『ミレーヌが熱を出した。見舞いに行ってくる。埋め合わせは必ずする』
埋め合わせ。この十年、ただの一度も果たされたことのない言葉。
私は誰にも気取られぬよう、ゆっくりと息を吐いた。カードを銀盆に伏せ、いつも通りの声で「分かりました」とだけ答える。使者が去った玄関広間は、しんと静かだった。
窓の外では、この日のために庭師が丹精込めた薔薇の庭が、主役を失ったまま、行き場もなく咲き誇っていた。




