第1話
王宮の大広間へ続く回廊は、磨き上げられた大理石に無数の燭台の光を映していた。今夜は建国祭を締めくくる夜会。婚約者であるクロード・レーヴェルト侯爵子息のエスコートで会場入りする――はずだった。この夜のために誂えた青いドレスは、彼の瞳の色に合わせて選んだものだった。
「すまない、ヴィオレッタ。ミレーヌが体調を崩したらしい。付き添いの者がいないというから、少し様子を見てくる」
馬車を降りた直後、駆け寄ってきた従者の耳打ちを受けるなり、クロード様はそう言った。あまりに自然な口ぶりに、一瞬、聞き間違いかと思ったほどだ。
「お待ちください。今夜は殿下方もご臨席の夜会です。婚約者を置いて中座なさるおつもりですか」
「大袈裟だな。君なら一人でも立派に振る舞えるだろう。ミレーヌは君と違って弱いんだ。……頼むよ」
返事を待たず、彼は夜の闇へと踵を返した。差し出されるはずだった腕の行方を、私はしばらくの間、ただ見つめていた。
会場に一人で足を踏み入れた瞬間、ざわめきがかすかに揺れたのが分かった。
「まあ……アルディエール公爵令嬢、今夜もお一人ですの?」
「レーヴェルト様は、また例の男爵令嬢のところですって」
扇の陰で交わされる囁きは、聞こえないふりをするには少し大きく、聞き咎めるには少し小さい。計算された音量だった。私は背筋を伸ばし、完璧な角度で微笑んでみせる。公爵家の娘が、婚約者に袖にされたくらいで崩れるわけにはいかないのだ。
殿下方へのご挨拶も、各家の夫人方との歓談も、そつなくこなした。誰かが「さすがですわ」と褒めるたびに、胸の奥が少しずつ冷えていく。さすが、と言われるたびに思うのだ。私は一体、何のためにここまで完璧であろうとしているのだろう。隣に立つべき人は、今夜もここにいないというのに。
帰り際、年配のグロスター伯爵夫人がそっと私の手を取り、「おひとりで、ご立派ですこと」といたわるように囁いた。同情というものは、時に悪意よりもずっと深く刺さるのだと、この夜、私は初めて知った。
深夜、屋敷に戻った私のマントを受け取りながら、専属侍女のエルネスタが静かに口を開いた。
「……お嬢様。今夜も、でございましたか」
「ええ。ミレーヌ様のお加減が優れなかったそうよ」
「先週の観劇も、その前の園遊会も、確かフォスター男爵令嬢のご体調が――」
「エルネスタ」
窘める声が、自分でも驚くほど平坦に響いた。彼女は一礼して口を噤んだけれど、鏡越しに見えた眉は、はっきりと憂いの形をしていた。この娘は幼い頃から私に仕えてくれている。私が呑み込んできたものを、誰よりも近くで見てきた娘だ。
髪を解かれながら、私はぼんやりと数えはじめる。婚約者に置き去りにされた夜会が三度、約束を反故にされた観劇が二度、誕生日の祝いの席に彼が遅れてきたことが――指を折る手が、ふと止まった。
「お嬢様? どうかなさいましたか」
「……いいえ。何でもないわ」
両手の指では、とうに足りなくなっていた。
寝台に入り、天蓋の紗を見上げる。悔しいとか、悲しいとか、そういう鮮やかな感情はもう湧いてこなかった。ただ、静かな諦めに似た何かが、胸の底に澱のように沈んでいくだけ。
幼い頃は、いつか彼が振り向いてくれると信じていた。完璧な婚約者になれば、いつかきっと。そう信じて刺繍を学び、侯爵領の帳簿の読み方を覚え、彼の好きな茶葉を諳んじられるようになった。十年間、ずっと。
彼の一番になりたいなどと、贅沢を言うつもりはなかった。ただ、約束した日くらいは隣にいてほしかった。望んだのは、本当にそれだけだったのに。
けれど今夜、私はようやく気づいてしまった。
私はあの夜会の数を、数えるのをやめたのではない。
もう、数えきれなくなっていたのだ。




