第19話
クロード・レーヴェルトの日常は、あの大夜会を境に、静かに、しかし確実に崩壊していた。
最初に気づいたのは、季節の変わり目のことだった。衣装部屋に、新しい季節の衣服が用意されていない。執事に問えば、怪訝な顔で返された。
「お召し物のお仕立ては、毎季、ヴィオレッタ様が坊ちゃまのお好みと社交のご予定に合わせてお手配くださっておりました」
次に、社交だった。数少なくなった招待状の返礼、席次への配慮、贈答の品選び。どれも「いつの間にか調っている」ものだったそれらは、婚約者という名の采配役を失った途端、机の上に未処理のまま積み上がった。
極めつけは、領地の帳簿だった。侯爵から謹慎代わりに命じられた葡萄酒事業の整理は、三日で行き詰まった。分厚い台帳の欄外には、几帳面な注記がびっしりと並んでいた。この取引先は支払いが遅れがちである。この農園は当主の代替わりに注意。この数字は例年、天候により上下する――見覚えのある、美しい筆跡で。
問い合わせた老家令は、当然のことのように言った。この十年、領地経営の実務の照合は、すべてヴィオレッタ様が季節ごとになさっておいででした、と。
「……これを、全部」
婚約者の務め。彼がその言葉で思い浮かべていたのは、夜会で隣に立つ姿くらいのものだった。違ったのだ。彼の暮らしの背骨そのものが、十年間、あの人の手で支えられていた。失って初めて、彼はそれを知った。世の多くの愚か者と、同じ順序で。
一方、足繁く邸へ通ってくるミレーヌは、当然のようにその穴を埋めなかった。
「私が家政を? ふふ、やってみたけれど、向いていなかったみたい。ああいうのは、得意な人がやればいいのよ。ヴィオレッタ様は、そういうことがお得意だったのでしょうね」
悪気のない声で、彼女はさらりとその名を口にした。
彼女が三日で投げ出した帳簿は、応接間の隅で埃をかぶっていた。その一方で、彼女のねだりごとだけは、以前と変わらず続いた。新しい耳飾りが欲しい。観劇に連れて行って。あの店の菓子が食べたい。傾きかけた家の嫡男に、彼女は以前と同じ調子で強請り、クロードは以前と同じように、断れなかった。
断る、ということを、この男は彼女に対して一度もしたことがなかったのだ。
その夜、クロードは久しぶりに小さな夜会へ出た。数少ない、まだ彼を招いてくれる家の集まりだった。
会場の遠く、人垣の向こうに、その姿はあった。
夜明け色のドレスを纏ったヴィオレッタが、第二王子の隣に立っていた。王子が何かを短く言い、彼女が扇も忘れて、声を立てて笑う。頬を染め、目を細めて、心の底から。
クロードは、立ち尽くした。手にした杯のことも、周囲の目のことも、忘れて。
知らない顔だった。十年間、隣にいたはずの女の、見たこともない顔。彼の前でのヴィオレッタは、いつも完璧に、静かに微笑んでいた。あれが作られた微笑だったのだと、そして人はああやって笑うものなのだと、彼はこの距離から、初めて知った。
「あんな顔、俺には一度も……」
呟きかけて、彼は口を噤んだ。杯の中の酒が、小さく波を立てていた。
一度も、の続きを言葉にしてしまえば、認めることになる。あの顔を引き出す機会は十年分あって、その十年を、自分がどこで誰のために使ってきたのかを。
遠くで、また彼女が声を立てて笑った。
その笑顔が眩しいほど、彼の立つ場所は暗かった。そしてその暗さを作ったのが誰なのか、彼はまだ、直視できずにいた。




