第17話
求婚するつもりで動いている――あの真っ直ぐな言葉は、それから何日も、私の胸の中に居座り続けた。
嬉しくないと言えば、嘘になる。あの温室の午後は、十八年の人生で一番あたたかい時間だった。けれど同じだけ、怖かったのだ。
次の茶会の誘いの書状に、私は「しばらくお時間をくださいませ」とだけ返事を書いた。失礼を承知の上だった。それでも、書かずにはいられなかった。臆病だと、自分でも思う。けれど一度深く裂けた場所は、喜びの形をしたものにこそ、身構えてしまうのだった。
十日後の午後、殿下は公爵邸を訪ねてこられた。咎めるためではないことは、応接間に入ってきた足取りの静かさで分かった。
「返事の催促に来たのではない。ただ、理由だけ聞かせてくれ。君が嫌なら、それも言わなくていい」
向かいの席で、殿下は急かすでもなく待っていた。私は膝の上で手を重ね、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……殿下のお心を、疑っているのではないのです。疑っているのは、私自身なのです」
「君自身?」
「私は十年間、誰かの一番になろうと努めて、なれませんでした。努力が足りなかったのならまだ良かった。私は、これ以上ないほど努めたのです。それでも、選ばれなかった」
声が、少しだけ震えた。
「頭では分かっております。あの方と殿下は違うと。けれど心のどこかが、まだ信じられないのです。私は、誰かの一番になれる人間なのだと。……いつかまた、隣の席が空く日が来るのではないかと、そう考えてしまう自分が、どうしても消えないのです」
みっともない告白だと思った。求婚の意を示してくださった御方に、あなたを信じられないと言っているに等しい。婚約破棄の傷を引きずる、面倒な女だと呆れられても仕方がない。
けれど殿下は、眉ひとつ動かさなかった。
「なるほど。よく分かった」
そして、こともなげに続けたのだ。
「なら、信じられるようになるまで、隣にいる」
「……え?」
「十年かけて刻まれた傷だ。十日で癒えるなら、そのほうがどうかしている。急かすつもりは毛頭ないし、期限を切るつもりもない。私はただ、君の隣で、君が確かめ終わるのを待つだけだ。――順番を待つのは得意でな。なにせ、第二王子だ」
最後の一言が、あまりに真顔だったものだから、私は泣きそうだったのに、少しだけ笑ってしまった。
「……お待たせして、後悔なさるかもしれませんよ」
「しない。私は費やす価値のあるものにしか、時間を使わん主義だ」
即答だった。世辞でも慰めでもない、ただの事実を述べる声だった。だからこそ、深く届いた。
殿下は長居をせず、茶を一杯だけ飲んで帰っていかれた。引き止める口実を、私がつい探しそうになったことには、気づかないままで。
三日後、公爵邸に小さな包みが届いた。差出人の名は記されていなかったけれど、封蝋の意匠を見れば、誰からのものかは一目で分かった。
開けてみると、一冊の古い本だった。あの温室の茶会で、私がほんの一言、「少女の頃に読み逃して、今は絶版になってしまった物語があるのです」と呟いた、まさにその本。
添えられた紙片には、一行だけ。
『王都中の古書店を回った成果だ。感想は、いつか気が向いたときに』
いつか。期限を切らない、その言葉の柔らかさに、目の奥が熱くなった。
あの方は、待つと言ったら、本当にただ待つのだ。扉の外で急かしもせず、けれど確かにそこにいてくれる。凍っていた何かが、また少し、音を立てて溶けた。




