第15話
執務室に呼び出されてから三日、クロードは答えを出せずにいた。
「少し、考えさせてください」
あの日、彼が絞り出したのはその一言だけだった。誓約書にも、廃嫡の書類にも、指一本触れられなかった。
考える、と言いながら、彼のしていることは考えることではなかった。ただ、決断の刻限が向こうから遠ざかってくれるのを、じっと待っているだけだ。ミレーヌを切れば、自分は「か弱い幼馴染を見捨てた薄情者」になる。家を出れば、生まれてこのかた享受してきた何もかもを失う。どちらの痛みも引き受けたくない男は、どちらも選ばないという最悪の選択を、選んでいる自覚もなく続けていた。
「ミレーヌは家族同然なんです。切るなんて、できるわけがない」
三日目の夜、彼はまた同じ言葉を口にした。侯爵は何も言わず、ただ深い溜息をつき、退室を促した。刻限だけが、確実に近づいていた。
その頃、当のミレーヌは男爵家の自室で、社交界名鑑を繰っていた。頁の端々に、小さな印がつけられていく。傾いた侯爵家の、廃嫡されるかもしれない嫡男。その値打ちを、彼女はすでに算盤にかけ終えていた。
同じ頃、アルディエール公爵邸には、一通の書状が届いていた。
王家の紋章の封蝋。差出人は、ジークハルト・ヴァイスラント第二王子殿下。エルネスタから銀盆ごと受け取って、私は少しだけ緊張しながら封を切った。婚約解消の裁定について、何か手続きの続きでもあるのだろうか。
便箋には、飾り気のない、けれど端正な文字が並んでいた。
『先日の夜会での君の口上は見事だった。あれは十年の鍛錬なくして出るものではない。
ときに、一つ願いがある。王宮の温室に、東国渡りの茶が届いた。淹れ方が難しく、私では味にならぬ。……という口実を用意したが、率直に言おう。
公爵令嬢としてでも、裁定の当事者としてでもなく、君自身に会いたい。温室で茶を一杯、付き合ってはくれないか。断ってくれても構わない。その場合、私は不味い茶を一人で飲む』
読み終えて、私はしばらく便箋を見つめていた。
最後の一文に、思わず小さく吹き出す。不味い茶を一人で飲む、ですって。冷徹の代名詞のように言われる御方の筆から、こんな言葉が出てくるなんて、社交界の誰が信じるだろう。
義務ではない。家のためでもない。「君自身に会いたい」――十八年間、誰からも向けられたことのない種類の言葉が、そこにあった。
「お嬢様、お返事はいかがなさいますか」
「……お受けする、わ。裁定でお世話にもなったことだし、お茶を一杯だけですもの」
平静を装って答えたつもりだったのに、エルネスタはなぜか、実ににんまりと笑った。
「では明後日に向けて、さっそくドレスの選定と、髪型の検討をいたしませんと」
「大袈裟よ。ただのお茶なのだから、いつも通りで」
そう言いながら、その夜、私は鏡台の前に座り込んでいた。
いつも通り、と言ったって、いつも通りとは何だろう。婚約者のために結っていた、あの堅苦しい髪型のことだろうか。あれはもう「いつも」ではない。だったら、どんな髪型が「私らしい」のだろう。編み下ろし? 横に流す? それとも――
「……何をしているの、私ったら」
鏡の中の自分は、髪をあれこれ持ち上げては、真剣に悩んでいた。たかがお茶一杯のために。
その表情が、あまりに年相応の娘のそれだったので、私は思わず吹き出してしまった。十年間、鏡の前で完璧な微笑の練習ばかりしてきた私が、初めて、鏡の前で心から笑っていた。




