第13話
翌朝、私はいつもの時刻より二刻も遅く目を覚ました。
こんなに深く眠ったのは、いつ以来だろう。寝台の上で身を起こし、習慣のまま枕元の手帳へ手を伸ばす。侯爵家の慈善市の打ち合わせ、夫人会の茶会、クロード様の遠縁への挨拶回り――婚約者としての務めで埋まっているはずの頁を開いて、私は動きを止めた。
白かった。
今日も、明日も、その先も。義務の予定がひとつ残らず消えた手帳は、降ったばかりの雪原のように、どこまでも白かった。
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
悲しいのではなかった。むしろ逆だ。十年間、この白さを知らずに生きてきたのだと分かった瞬間、体の奥から何かが溢れて、止まらなくなったのだった。
「お嬢様、お目覚めです……まあ」
朝の支度に入ってきたエルネスタが、涙を見て駆け寄ってくる。私は首を振って笑った。
「違うの。……ねえ、エルネスタ。今日の私、何の予定もないのですって」
「……はい」
「何をしてもいいのよ。信じられる?」
エルネスタは一瞬きょとんとして、それから、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「でしたらお嬢様、本日は侍女の私めに、一日ご予定をお預けくださいませ」
エルネスタが連れ出してくれたのは、王都の下町だった。
お忍び用の簡素なドレスに、つばの広い帽子。公爵令嬢ではなく、ただの「ヴィオラさん」として歩く石畳の街は、馬車の窓から眺めるのとはまるで別の場所だった。
焼きたてのパンの匂い。呼び込みの声。露店に並ぶ色とりどりの果物と、季節の花。エルネスタの案内で入った小さなカフェで、私は生まれて初めて、誰の好みでもなく自分の飲みたい茶を注文した。運ばれてきたのは、蜂蜜と林檎の香りのする、少し甘いお茶だった。
「……おいしい」
「お嬢様は昔から、本当は甘いものがお好きでしたのに。渋い茶ばかり淹れる練習をなさって」
「あの方の好みだったから。……ふふ、もういいのよね、覚えていなくて」
「はい。これからは、お嬢様の好きなものだけ覚えてまいりましょう」
帰り道には本屋に寄った。ずっと読みたかったのに「侯爵夫人になる者が読む本ではない」と諦めていた恋物語を三冊。店主のおかみさんが「お目が高いよ、それは泣けるからね」と笑いながら包んでくれた。爵位も家名も知らない人と交わす何気ない言葉が、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
それから仕立て屋で、淡い若草色の布を選んだ。彼の瞳の色でも、家の色でもない。鏡の前に当ててみて、一番心が浮き立った色。
夕暮れの街を、私たちは荷物を抱えて笑いながら歩いた。十八年生きてきて、こんなに軽い一日は初めてだった。
カフェを出る間際のことだ。
窓の外、通りの反対側に、見覚えのある影がちらりと見えた気がした。地味な外套を纏ってはいたが、あの立ち姿と夜色の髪は、見間違えようがない。傍らには護衛らしき男が二人、所在なさげに控えていた。
「エルネスタ。今の……」
「はて。何も見ておりませんが」
澄まし顔の侍女の口元が、僅かに緩んでいる。
冷徹と噂の第二王子殿下が、お忍びで下町までいらっしゃる用事とは、一体何だろう。まさか、昨夜の今日で私を案じて――いいえ、まさか。
打ち消したはずの「まさか」が、帰りの馬車の中でも、妙に胸のあたりで温かかった。
膝の上に抱えた本の包みと、若草色の布と、甘いお茶の余韻。今日一日で手に入れたささやかなものたちは、十年間の婚約が私にくれたどんな宝飾よりも、ずっと重みがあった。




