第12話
「レーヴェルト卿。今、何と言った」
殿下の声は決して大きくなかった。けれど広間の隅々まで、氷の刃のように通った。第二王子ジークハルト――剣においても政務においても並ぶ者なしと謳われ、そして一度口を開けば、王宮の重臣たちですら襟を正すという御方。その御方がいま、明確な怒りを湛えて一人の貴族の前に立っている。
「で、殿下……これは我が家と公爵家の、内々の話でございます。どうかお構いなく」
「内々の話を、千の客の前で怒鳴ったのは卿だろう。ならば続きも、皆の前でするがいい」
殿下は懐から折りたたんだ紙を取り出し、ゆっくりと開いた。
「アルディエール公爵より、王家に正式な申し立てが出ている。私は裁定者の一人として、事実確認をすでに済ませた。……フォスター男爵令嬢」
名を呼ばれたミレーヌ様が、はっと顔を上げる。
「そなたの『体調不良』の記録を、ここ三年分照合した。実に興味深い。倒れるのは決まって、レーヴェルト卿が婚約者と公式の場に出る予定の前日か当日だ。十四度のうち十四度。医師の診察の記録は、一度もない。……これほど都合よく巡る病を、私は寡聞にして知らぬ」
広間が、ざわ、と揺れた。
「そ、そんな……偶然です、わたくし、本当に体が弱くて」
「では次だ。そなたの今宵のドレス。三日前、王都のロズリーヌ商会で仕立てられたものだな。代金の出所は、レーヴェルト侯爵家の金庫。ここ三年、同様の支払いが、宝飾、衣装、観劇と、四十件を超えて男爵家側へ流れている。侯爵家の正式な承認記録は、一件もない」
「なっ……」
声を上げたのは、クロード様ではなかった。客の中にいたレーヴェルト侯爵ご本人が、真っ青な顔で息子を見ていた。
「父上、これは、その……ミレーヌが困っていたから、俺の裁量で」
「嫡男の裁量で四十件か。侯爵、ご存じなかったようだな」
殿下の静かな一言が、とどめだった。侯爵は絞り出すような声で息子の名を呼び、深々と、床につくほど頭を下げた。公爵家に、王家に、そして満座の貴族たちに。
その時、ミレーヌ様が、その場に泣き崩れた。
「ごめんなさい……わたくしのせいなのです、わたくしが弱いばかりに、クロード様のお優しさに甘えて……どうか、どうかクロード様を責めないで……!」
細い肩を震わせ、涙に濡れた顔で見上げるその姿は、庇護欲を誘う完璧な絵だった。三月前の私なら、あるいは場の誰かが動いたかもしれない。
けれど殿下は、眉ひとつ動かさなかった。
「――泣けば済むと思っている顔だ」
殿下の声は、どこまでも平坦だった。
ぴたり、と嗚咽が止まった。
「涙は反論ではない。事実への答えになっていない。……下がれ。この場は、そなたの舞台ではない」
侯爵夫妻が息子の腕を掴み、引きずるように広間を出て行く。ミレーヌ様も、付き従っていた男爵に促され、よろめきながら後を追った。
その去り際だった。すれ違う一瞬、私は彼女にだけ届く声で、静かに囁いた。
「お幸せに。……彼のすべては、今日からあなたのものよ」
ミレーヌ様が弾かれたように振り返る。その顔に浮かんでいたのは、勝利の色ではなかった。傾いた家と、価値を失った男が丸ごと手に入る――その意味を、聡い彼女は正しく理解したのだ。
扉が閉まり、広間にゆっくりと楽の音が戻ってくる。客たちは何事もなかったかのように歓談を再開したけれど、その声の端々に、今宵の出来事が早くも語り草になりはじめているのが聞き取れた。
十年の枷が落ちた音を、私は確かに聞いた。




