第9話 そんなに違う?
朝、No Tag Roomの通知は、昨日よりも増えていた。
レナは起きてすぐ端末を開き、しばらく画面を見つめた。まだ布団の中に半分だけ身体が残っていて、カーテンの向こうから入る光も弱い。部屋の空気は少し冷えていた。指先だけが、画面の明るさに先に起こされている。
「失われた完成って言葉、ずっと残る」
「修正前じゃないって、ほんとそう」
「READFACEに消される前の顔ってあるよね」
「本物って、こういうところに残るんだと思う」
「もっと読ませてほしい」
本物。
その言葉が、何度も出てくるようになっていた。
昨日までは、それを少しだけ嬉しいと思えた。自分の言葉が誰かに届いていること。誰かが、自分と同じように顔の横に浮かぶ言葉を気持ち悪いと思っていること。そういうものが、画面の中で小さく形になっていくこと。
けれど、今朝は少し違った。
嬉しさの輪郭が、夜のうちに少し硬くなっていた。手で触るとまだ温かいのに、端の方だけ冷えているような感じがした。
レナは端末を伏せた。
布団から出ると、床が冷たかった。
洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。ARレンズのタグ表示は切ってある。朝の顔は少しむくんでいて、髪の内側のメッシュも寝癖で変な方向にはねていた。
この顔の横にも、誰かには何かが見えているのだろう。
Natural Symmetry。
Quiet Authenticity。
High Memorability。
ミアが見ていたかもしれない言葉を、レナはふと思い出した。
思い出したというより、想像した。
自分では見えない自分のタグ。
それを気持ち悪いと思うのは簡単だった。けれど、もしそれが良い言葉ばかりだったなら、自分は本当にそれを嫌えるのだろうか。
洗面台の水が、指の間を流れていく。
レナは顔を拭いた。
タオルに残った水の冷たさが、少しだけ気持ちよかった。
朝食の席に座ると、祖母がカーディガンの袖口を見た。
「今日は大丈夫そうね」
「何が」
「袖」
レナは自分の袖口に目を落とした。
直してもらった縫い目は、表からはほとんど分からない。けれど、指でなぞれば少しだけ硬い。糸が重なっている場所は、布とは違う感触をしている。
「まだ心配してるの」
「直したものは、気になるのよ」
祖母はそう言って、味噌汁の椀を置いた。
今日の味噌汁も薄かった。
薄いのに、朝にはちょうどよかった。
学校に着くと、教室はもうほとんど埋まっていた。
READFACEの話は、以前よりも声が小さくなっていた。話題が消えたのではない。むしろ、声を張らなくても通じるくらい日常に入ってしまったのだと思った。
「フォーム出した?」
「出した」
「親、何か言ってた?」
「空欄よりはいいでしょって」
そんな会話が、ノートを出す音や椅子を引く音に混ざっている。
ミアは窓際にいた。
机の上に端末と教科書を並べて、文化祭ポスターの確認用らしい資料を見ている。制服のリボンは今日はまっすぐだった。髪もきれいに整っている。顔には、いつもより少し薄い笑みが乗っていた。
「おはよう」
レナが言うと、ミアは顔を上げた。
「おはよう」
声は普通だった。
普通に聞こえた。
けれど、笑ったあと、戻るまでが少し早い。
レナはそこに気づいた。
気づいたけれど、理由は分からなかった。
「今日、ポスターの確認?」
レナが聞くと、ミアは資料を少し持ち上げた。
「うん。放課後に実行委員の方で見るって」
「大変そう」
「大変っていうほどじゃないよ。写真選ぶだけだし」
ミアはそう言って、資料を机の端に寄せた。
レナはその横顔を見た。
白い壁の前で撮られた写真ほど強くはない。教室の光の中にいるミアは、少し疲れていて、少し眠そうで、ペンケースの端を指で触っている。そういうところは前とあまり変わらない。
変わらないところを見つけると、少し安心する。
その安心が、ミアにとって良いものなのかは分からない。
「小テストあるっけ」
ミアが聞いた。
「たぶんない」
「信用していい?」
「私のたぶんは当たらない」
「じゃあ、あるかも」
「それはそれで嫌」
ミアは少し笑った。
今度の笑いは、少しだけ前に近かった。
レナはそのことにも安心してしまった。
一時間目のあと、No Tag Roomの通知がまた鳴った。
レナは見ないつもりだった。
でも、見るつもりがないときほど、通知の小さな光は目に入る。机の端に伏せた端末の隙間から、画面の白さが少しだけ漏れている。
休み時間の終わりに、レナは結局開いた。
「整形前の顔って、本人が捨てたとしても、周りには残ってるよね」
その投稿を見た瞬間、指が止まった。
書いたのは、隣のクラスの子だった。No Tag Roomに入ったばかりの子で、READFACEの仮スキャンで Facial Harmony : Low(顔全体の調和:低)と出て落ち込んでいた、と菜月が言っていた。
悪意があるわけではない。
たぶん本当に、何かを守りたいと思って書いている。
でも、言葉は強かった。
本人が捨てたとしても。
捨てた。
その言い方が、レナの中で引っかかった。
ミアは、前の顔を捨てたのだろうか。
違う気がした。
でも、自分が「失われた」と書いたことと、それはどれくらい違うのだろう。
レナは返信欄に指を置いた。
何か書こうと思った。
けれど、うまく書けなかった。
「捨てたって言い方は違うと思う」
そう打ちかけて、消した。
では、何ならいいのか。
変えた。
選んだ。
削った。
奪われた。
手放した。
手に入れた。
どれも少しずつ違って、どれも少しずつ合っている。
レナが迷っている間に、別の誰かが返信した。
「分かる。昔の顔って、周りの記憶にもあるから、本人だけのものじゃない感じする」
また胸の奥が冷えた。
本人だけのものじゃない。
それは優しい言葉にも見える。
けれど、誰かの顔を、本人だけのものではないと言うことの怖さもあった。
レナは端末を閉じた。
閉じると、教室の音が戻ってきた。
椅子が床をこする音。誰かが笑う声。先生が廊下を歩く足音。ミアがページをめくる音。
ミアは何も知らない顔で、ペンケースの中から青いペンを探していた。
いや。
何も知らないのだろうか。
レナは、ふと分からなくなった。
昼休み、ミアはいつも通り弁当を食べた。
いつも通りと言っても、前とは違ういつも通りだった。少しずつ食べる。よく噛む。ときどき端末を見る。誰かに話しかけられると、箸を置いて笑う。
その笑顔はきちんとしている。
きちんとしすぎているようにも見える。
「ミア、放課後そのまま実行委員?」
菜月が聞いた。
「うん。たぶんすぐ終わるけど」
「ポスター、見せてもらったけど、横顔のやつ良かったよ」
「ほんと?」
「うん。リボン曲がってるのも逆にいい」
ミアは少しだけ眉を下げて笑った。
「そこは直してほしかった」
「自然でいいじゃん」
自然。
その言葉に、レナは少しだけ反応した。
ミアも、ほんの一瞬だけ箸を止めた気がした。
でも、誰も何も言わなかった。
菜月は悪くない。
自然と言っただけだ。
それだけの言葉が、もういくつも小さな棘を持つようになっている。
午後の授業は長かった。
窓の外は晴れているのに、教室の中だけ少し眠かった。先生の声は黒板に当たって戻ってくるように単調で、隣の席の子は何度もシャープペンの芯を折っていた。
レナはノートの端に、いつの間にか線を引いていた。
細い線。
何度も重ねられた線。
消しゴムで消しても、うっすら残る線。
その横に、書きかけてやめた言葉がある。
本物。
レナはその二文字を見つめて、すぐに塗りつぶした。
放課後、美術室にはまだ人がいた。
文化祭の準備が近いせいで、最近は誰かしらが残っている。段ボール、ポスター用の紙、絵の具、乾きかけの筆。机の上には、いつもより物が多い。
レナは窓際の席に座った。
No Tag Roomの通知は鳴り続けている。
見たくない。
でも、見なければ止められない気もする。
そのくせ、見ても何も書けない。
レナは端末を伏せたまま、スケッチブックを開いた。裏表紙に挟んだ小さな紙が、少しだけはみ出している。
True Eye(本物を見る目)
Anti-Label(反ラベル)
Real Sense(本物の感覚)
Unmarketed Beauty(市場化されない美)
昨日は少し嬉しかった。
今日は、まだ嬉しいのかどうか分からない。
手を伸ばしかけたとき、美術室の扉が開いた。
ミアだった。
レナは顔を上げた。
「実行委員は?」
「あとで行く」
ミアはそう言って、中に入ってきた。
放課後の光が背中側から入っているせいで、顔の表情が少し見えにくかった。けれど、声は落ち着いていた。怒っているようには聞こえない。
ミアはレナの机の前で止まった。
「見たよ」
短い言葉だった。
レナは、何を、と聞きかけた。
でも、その前に喉が硬くなった。
分かった。
分かってしまった。
「……何を」
それでも聞いた。
ミアは少しだけ目を伏せた。
「ノート」
レナの指先が、スケッチブックの端を押さえた。
「No Tag Roomのやつ」
美術室の奥で、誰かが筆を洗っている音がした。
水道の水が細く流れる音。筆先がガラス瓶に当たる音。廊下からは、実行委員らしい生徒の声が遠く聞こえる。
レナは言葉を探した。
最初に出てきたのは、いちばん言ってはいけない言葉だった。
「名前は、書いてない」
言った瞬間に、自分でも分かった。
違う。
これは違う。
ミアはゆっくり顔を上げた。
「名前を書かなければ、傷つけてないと思ってるの?」
声は大きくなかった。
だから、余計に逃げられなかった。
レナは口を開いた。
何も出なかった。
「頬が柔らかかった。笑うと目が細くなった。あれは、修正前じゃなかった」
ミアは、ひとつずつ言った。
暗記していたみたいに。
でも、暗記ではないのだと思った。
刺さった言葉は、覚えようとしなくても残る。
「失われた完成」
その言葉だけ、少し間が空いた。
ミアは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、まっすぐレナを見ていた。
「私の前の顔、完成だったんだ」
レナは息を吸った。
「そういう意味じゃ」
「じゃあ、どういう意味?」
ミアはすぐに聞いた。
レナは答えられなかった。
どういう意味だったのだろう。
あのときは、本当にそう思った。
前のミアの顔は、修正前ではなかった。足りないものではなかった。LUMIAに削られるための素材ではなかった。あの柔らかい頬も、細くなる目も、曲がったリボンも、全部そのままで大切なものだった。
それを言いたかった。
でも、それを「失われた完成」と呼んだ瞬間、今のミアはどこへ置かれるのだろう。
「私は、ミアの前の顔を、間違いみたいに扱われるのが嫌で」
「うん」
ミアは頷いた。
「それは分かる」
分かる、と言われて、レナは少しだけ息をした。
でも、ミアの声はそこで終わらなかった。
「でも、前の顔だけを完成って呼ばれたら、今の私は何?」
レナは視線を落とした。
スケッチブックの紙が白い。
白すぎた。
「変わった私は、完成じゃないの?」
「そうじゃない」
「じゃあ何?」
ミアの声が、少しだけ揺れた。
「途中? 失敗? 広告? LUMIAっぽい顔?」
「違う」
「違うって言ってくれるのは嬉しいよ」
ミアは小さく息を吐いた。
「でも、あの場所で、みんなが何を言ってたか知ってる?」
レナは顔を上げた。
ミアは端末を持っていなかった。
画面を見せるつもりはないのだろう。
見せられなくても、レナにはだいたい分かった。
「本物っぽいとか。整いすぎた顔は怖いとか。昔の顔は本人だけのものじゃないとか」
ミアは言った。
そのたびに、レナの中で何かが小さく縮んだ。
「名前は出てない。私の名前はどこにもない。でも、みんな分かってる」
ミアは少し笑った。
その笑い方は、広告には使えない笑い方だった。
「分かってて、分からないふりをしてる」
レナは何も言えなかった。
ミアは机の端に目を落とした。
そこには、レナのスケッチブックがある。はみ出した小さな紙も、まだ見えている。
ミアの視線がそこに止まった。
レナは反射的に裏表紙を押さえた。
でも、少し遅かった。
「それ、何?」
「何でもない」
「見せたくないならいい」
ミアはそう言った。
優しい言い方だった。
でも、その優しさが痛かった。
レナは、ゆっくり指をどけた。
はみ出した紙が見える。
True Eye。
Anti-Label。
Real Sense。
Unmarketed Beauty。
ミアはそれを読んだ。
表情はほとんど変わらなかった。
「いいタグだね」
レナの喉が詰まった。
「これは、ふざけて」
「うん」
ミアは頷いた。
「ふざけてるんだと思う」
その声は、本当にそう思っている声だった。
責めるというより、確認しているみたいだった。
「でも、嬉しかったでしょ」
レナは答えられなかった。
ミアは少しだけ目を細めた。
「私も嬉しかったよ」
その言葉に、レナは顔を上げた。
「LUMIAの写真に、綺麗ってコメントがついたとき。横顔がいいって言われたとき。知らない人に、あの写真を見てカウンセリングに行こうと思ったって言われたとき」
ミアはゆっくり言った。
「怖かった。でも、嬉しかった」
美術室の中の音が遠くなる。
「見られたかったから」
ミアの指が、スカートの横で少しだけ握られた。
「背景みたいなのが嫌だった。誰かの記憶に残らない顔が嫌だった。READFACEの言葉に傷ついたけど、同じくらい、READFACEに認識されたいとも思ってた」
レナは初めて、ミアの言葉の奥にあるものを聞いた気がした。
美しくなりたい。
それだけではなかった。
読まれたい。
残りたい。
誰かの視線に引っかかりたい。
ずっと聞いていたはずなのに、今やっと少しだけ聞こえた。
「私は、自分の顔を使って、価値があるって証明したかった」
ミアは言った。
その声は、少しだけ苦かった。
「綺麗な被害者じゃないよ、私」
レナは息を止めた。
「自分で行った。怖かったけど、嬉しいこともあった。前の顔が嫌だった日もある。消えてほっとしたタグもある。だから、全部LUMIAに傷つけられただけみたいにされるのも、違う」
ミアはそこで一度、言葉を切った。
目が少し赤くなっていた。
でも、涙は落ちなかった。
「でも」
ミアは続けた。
「レナは、私の前の顔を見て、世界が間違ってるって証明したかったんじゃないの」
レナは反射的に首を振った。
「違う」
「違うって言ってほしいけど」
ミアの声は静かだった。
「でも、そう見えた」
その言葉は、怒鳴られるよりも痛かった。
「私は、ミアを」
「救いたかった?」
ミアが聞いた。
レナは止まった。
その言葉を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
ミアは少しだけ笑った。
「レナは私を救いたかったんじゃない。私を見て、世界の間違いを証明したかったんだよね」
「そんなつもりじゃ」
「つもりの話、してない」
ミアの声が、初めて少し強くなった。
レナは何も言えなくなった。
つもり。
その言葉に逃げようとしていた。
自分は傷つけるつもりではなかった。守りたかった。忘れたくなかった。LUMIAに奪われたものを、なかったことにしたくなかった。
でも、ミアが受け取ったものは、そこには収まらない。
「私は自分の顔を使って、価値があるって証明したかった」
ミアはもう一度言った。
「レナは私の顔を使って、自分の感覚が正しいって証明したかった」
美術室の夕方の光が、机の端を薄く照らしていた。
ミアの影が、床に少しだけ伸びている。
「ねえ」
ミアは言った。
「私たち、そんなに違う?」
レナは、答えられなかった。
違う、と言いたかった。
自分はLUMIAとは違う。READFACEとは違う。ミアを数字にしたわけではない。広告にしたわけではない。顔を売ったわけではない。
けれど、ミアの顔を使った。
ミアの昔の顔を、自分の言葉の中心に置いた。
誰かに読ませた。
分かる、と言われて救われた。
そのことが、急に形を持って目の前に立った。
「……ごめん」
ようやく出た声は、小さかった。
ミアは首を横に振らなかった。
頷きもしなかった。
「謝ってほしいのか、分からない」
そう言った。
その言葉が、いちばんミアらしい気がした。
正しい答えを用意していない。自分が何を求めているのかも、まだ決めきれていない。それでも、傷ついたことだけはなかったことにできない。
「ただ」
ミアはスケッチブックから目を離した。
「前の私を、今の私より本物にしないで」
レナは唇を噛んだ。
「私、戻りたいわけじゃない」
ミアは言った。
「戻りたい日が、ないわけじゃないけど。でも、戻ったら、今の私は何だったのってなる。怖かったことも、嬉しかったことも、痛かったことも、全部なかったことになる」
レナは、ミアの手元を見た。
ミアは学生証ケースの端を指でなぞっていた。昔から、緊張するとそうする。端を探す。角を触る。自分の形を確かめるみたいに。
「文化祭の確認、行かなきゃ」
ミアは言った。
日常に戻るための言葉だった。
でも、その言葉があるおかげで、二人はその場で壊れずに済んだのかもしれない。
「ミア」
レナは呼んだ。
ミアは振り返らなかった。
「明日、話せる?」
言ってから、レナは自分で少し驚いた。
謝るでもなく、説明するでもなく、ただ話せるかと聞いた。
ミアは少しだけ止まった。
「分からない」
それだけ言って、美術室を出ていった。
扉が閉まる音は、思ったより普通だった。
レナはしばらく動けなかった。
端末が鳴った。
No Tag Roomの通知だった。
画面には、誰かの新しい投稿が出ている。
「これ、もっと広げてもいいと思う」
「READFACE苦手な人、他にもいるはず」
「レナの言葉、ちゃんと届いた方がいい」
レナは画面を見た。
届いた方がいい。
どこへ。
誰に。
誰の顔を通って。
レナは端末を伏せた。
スケッチブックの裏表紙から、さっきの小さな紙がまだ少しはみ出している。
True Eye。
Anti-Label。
Real Sense。
Unmarketed Beauty。
本物を見る目。
レナはその紙を抜き取ろうとした。
けれど、指先が止まった。
破ることも、捨てることも、できなかった。
嬉しかったことまで、なかったことにはできない。
レナは紙をそのまま裏表紙へ押し込んだ。
見えないところへ入れただけだった。
カーディガンの袖口を握る。
直された縫い目は、表からはほとんど見えない。
でも、指先には分かった。
隠した線は、なくなったわけではない。
美術室の窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなっていく。
レナはスケッチブックを閉じた。
何も答えは出なかった。
ただ、何かが終わったことだけは分かった。




