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第8話 No Tag Room


 朝、レナの端末には通知がいくつも残っていた。


 美術部の限定グループだった。


 いつもなら、文化祭のラフ案や、絵の具を誰が買うかや、先生が鍵を閉め忘れたとか、そういう連絡ばかりが流れる場所だ。既読はつくけれど、返信は少ない。必要なときだけ動いて、普段は少し眠っているようなグループ。


 そのグループが、昨日の夜は少しだけ起きていた。


「昨日のノート、まだ読んでる」

「ラベルなしで見たものってタイトルいい」

「これ、他のページも見たい」

「READFACEの空欄の感じ、ほんと嫌だった」

「うまく言えないけど、分かる」

「刺さった」


 刺さった。


 レナはその言葉を見て、少しだけ画面から目を離した。


 朝の部屋はまだ静かだった。カーテンの隙間から入る光は白く、机の上の鉛筆や消しゴムや、昨日のまま置いたスケッチブックの角を薄く照らしている。


 自分が書いたものが、誰かに刺さる。


 そう言われることが、こんなに身体の内側を温めるものだとは思わなかった。


 レナは端末を伏せた。


 伏せたのに、すぐまた開いた。


 新しい返信はなかった。


 それが少しだけ残念だった。


 そう思ってしまった自分を、レナはあまり見ないようにした。


 朝食の席で、祖母は新聞ではなく端末のニュースを読んでいた。紙の新聞はもうほとんど取っていないのに、祖母はニュースを読むときだけ、いまだに少し眉間にしわを寄せる。画面相手でも、紙相手でも、気に入らない記事には同じ顔をするらしい。


「何かいいことあった?」


 祖母が言った。


 レナは味噌汁を飲みかけて、少しむせそうになった。


「何で」


「顔」


「また顔」


「今日は少し、褒められた顔をしている」


 レナは箸を置いた。


「そんな顔ある?」


「あるわよ」


「便利だね」


「便利なものは、だいたい少し嫌なところがあるって言ったでしょう」


 祖母はそう言って、卵焼きをひとつ取った。


 レナは何も答えなかった。


 褒められた顔。


 そうなのかもしれない。


 昨日、菜月に「分かる」と言われた。グループでも、何人かが同じように言った。自分が見ているものを、誰かも見てくれた。自分だけが気持ち悪いと思っていたわけではない。


 それは、嬉しかった。


 嬉しいと言ってしまうと、何かが少し安っぽくなる気がした。けれど、嬉しいものは嬉しい。


 レナは味噌汁をもう一口飲んだ。


 祖母の味噌汁は、相変わらず少し薄かった。


 学校に着くころには、端末の通知はさらにいくつか増えていた。


 階段を上りながら、レナは画面を開きそうになって、やめた。廊下には朝の匂いがあった。湿ったローファー、制汗剤、昨日の雨を吸った傘、まだ眠たそうな声。誰かが教室の入口で前髪を直していて、別の誰かが端末の黒い画面を鏡代わりにしていた。


 READFACEの進路利用は、まだ正式には始まっていない。


 それでも、もう始まっているようなものだった。


「親の確認、通った?」

「うち、まだ」

「早く出しなさいって言われた」

「空欄は避けたいよね」

「Smile Stability、昨日より上がった」

「笑顔練習したの?」

「した。めっちゃ虚無だった」


 明るい笑い声が、教室の端から端へ軽く飛んでいく。


 笑えるくらいには、もう生活の中へ入っている。


 それが嫌だった。


 けれど、今朝のレナは、その嫌さをひとりで持っていない。端末の中には、分かると言ってくれた人たちがいる。そのことが、胸の奥で小さな灯りのように残っていた。


 一時間目の前に、菜月がレナの席へ来た。


 いつものように少し眠そうな顔をして、片手に端末、もう片方の手に購買で買った小さな紙パック飲料を持っている。まだ朝なのに、なぜか少し疲れて見えた。


「昨日のやつさ」


「何」


「専用の場所、作らない?」


 レナは顔を上げた。


「専用?」


「美術部のグループだと、文化祭の連絡と混ざるじゃん。ラベルなしで見たもの用のフォルダとか、チャットとか。見たい人だけ見られるやつ」


 菜月は、大きなことを言っているつもりはなさそうだった。購買でパンを買うついでに飲み物も買う、くらいの軽さで言っている。


「そんな大げさなものじゃないよ」


 レナは言った。


 言いながら、少しだけ惜しい気もした。


 大げさなものじゃない。そう言いたかった。


 でも、大げさなものになってほしい気持ちが、ほんの少しだけあった。


「大げさじゃなくていいんじゃない? ただの置き場所。見たい人だけ見る場所」


 菜月は端末を机に置いて、指先で画面を軽く叩いた。


「昨日反応してた人とか、写真部の後輩とか。READFACEの仮スキャンで落ち込んでた子がいてさ。見せたら、ちょっと楽になるかもって」


「勝手に広げるのは」


「だから聞いてる」


 菜月は顔を上げた。


「嫌ならやめる」


 それは、逃げ道を用意してくれている言い方だった。


 けれど、その逃げ道を使うには、自分で「嫌だ」と言わなければならない。レナは端末の画面ではなく、菜月の指先を見た。紙パック飲料の角を、菜月は無意識に少しへこませている。


 本当に嫌なら、やめてくれるのだと思う。


 菜月はそういう子だ。


 でも、レナは嫌だとは言えなかった。


 自分の言葉が、もう少し遠くまで届くかもしれない。分かる、と言ってくれる人がほかにもいるかもしれない。この気持ち悪さを、ひとりで持たなくていいかもしれない。


 その可能性を、手放したくなかった。


「限定なら」


 レナは言った。


「うん。限定」


「知らない人は入れないで」


「分かった」


 菜月はうなずいて、画面に新しいスペースを作り始めた。


 名前を決める段になると、二人とも少し黙った。ラベルなしで見たもの、では長い。タグなし部屋、では急に生活感が出すぎる。菜月がいくつか候補を打っては消し、最後に「No Tag Room」と入力した。


 軽い名前だった。


 少し冗談みたいで、少し本気だった。


「軽くない?」


 レナが言うと、菜月は肩をすくめた。


「軽い方が入りやすくない?」


 それは、たぶん正しかった。


 正しいというより、今っぽかった。


 ラベルなしで見たもの。


 それが、No Tag Roomになる。


 ラベルを嫌っているものに、名前がつく。


 そのことに少し引っかかった。けれど、引っかかりは小さかった。それよりも、自分の書いたものが置かれる場所ができることの方が、今は大きかった。


「いいんじゃない」


 レナが言うと、菜月は小さく笑った。


 数分後、端末に招待通知が来た。


No Tag Room

参加メンバー:5人


 菜月。

 レナ。

 美術部の三年生。

 写真部の後輩。

 それから、同じクラスの、仮スキャン結果で昨日少し落ち込んでいた子。


 少ない。


 でも、少なくない。


 五人いれば、場所になる。


 昼休み、その場所はゆっくり動き始めた。


 最初に投稿したのは菜月だった。雨上がりの校庭の写真だった。端末の補正も、READFACEタグも切ってある。水たまりに空が映り、校庭の白線が少し歪んでいる。画面の端に、誰かのローファーのつま先が写りこんでいた。


 菜月が短く書く。


タグだと何にもならないけど、こういう歪み好き。


 写真部の後輩がすぐに反応した。


白線がまっすぐじゃないの、いいですね。


 次に、その後輩が写真を上げた。


 ピントの少しずれた集合写真だった。文化祭準備中に撮ったものらしい。笑いすぎて目を閉じている子、半分だけフレームから外れている子、端末を持ったまま変な顔をしている子。READFACEが読み込めば、たぶんいくつも低いタグが出る。


 でも、写真は楽しそうだった。


 三年生が、それをいい写真だと言った。顔がきれいに見えるかではなく、その日の空気が残っているから、というようなことを、少し照れた文で書いていた。


 レナはそれを読んで、胸の奥がまた温かくなった。


 自分が書いた言葉ではない。


 でも、自分の場所で生まれた言葉だった。


 それが嬉しかった。


 レナもスケッチブックを開いた。


 昨日のページの続きに、新しいメモを書く。


雨上がりの靴跡。

白線の歪み。

タグが拾わない笑い方。

顔が見えにくい写真に残る、その日の空気。


 書いてから、写真を撮って投稿した。


 すぐに反応がついた。


「これ好き」

「タグが拾わない笑い方、いい」

「レナの言葉、やっぱり落ち着く」

「もっと読みたい」


 もっと読みたい。


 その一文を見て、レナは少しだけ口元を押さえた。


 にやけていないか気になった。


 隣でミアが弁当を開いていた。


「何見てるの」


 ミアが聞いた。


 レナは少し慌てて端末を伏せた。


「美術部のやつ」


「文化祭?」


「うん。まあ」


 嘘ではない。


 でも、全部でもない。


 ミアは「そっか」と言って、卵焼きを箸で切った。今日はちゃんと食べている。少しずつ、ゆっくり。食べる量を誰かに見せるみたいでもあり、自分に確認しているみたいでもあった。


 レナはそれを見た。


 何か言いそうになって、やめた。


 言わない方がいいこともある。


 言わなかったことが、正しいとは限らない。


 最近、そういうことばかり増えている。


 放課後、No Tag Roomのメンバーは美術室の奥に集まった。


 集まった、といっても、大げさなものではない。いつもの机の周りに五人がばらばらに座っているだけだ。誰かは購買のパンを食べ、誰かは端末を見て、誰かは文化祭のラフに色をつけている。


 部屋というより、机の一角だった。


 それでも、名前がつくと少し違った。


 No Tag Room。


 そこにいる間だけ、READFACEの表示を切っている子もいた。切らなくてもいい。切ってもいい。そういうゆるい決まりにしたのは菜月だった。


「決まり作りすぎると、それはそれで面倒だし」


 菜月はそう言った。


 その言い方が少し菜月らしくて、レナは安心した。


 話題は、自然と進路フォームのことになった。


 空欄という言葉の嫌さ。何もしていないだけなのに、何か欠けているように見えること。使わない自由があると言われても、その自由の横に空欄という印がつくこと。


 同じクラスの子は、仮スキャンで Low Presence(存在感が低い)と出たらしい。


「別に存在してるのに」


 その子が言うと、みんなが笑った。


 本人も笑った。


 けれど、笑いの下には小さな痛みがあった。


「存在してるよ」


 三年生が言った。


「めちゃくちゃ存在してる。昨日、絵の具のふた開けっぱなしにして先生に怒られてたし」


「それは存在感としてどうなんですか」


「高い」


 また笑いが起きた。


 美術室の窓の外は、夕方の光で薄くオレンジ色になっていた。机の上には、食べかけのクリームパンの袋、消しゴムのカス、端末、スケッチブック、色鉛筆が散らばっている。


 温かい場所だった。


 少なくとも、そのときはそう思えた。


 レナは、ここが好きだと思った。


 READFACEの数字や、進路の空欄や、LUMIAの白い広告から少しだけ離れられる場所。誰かの顔の横に浮かぶ言葉ではなく、誰かがこぼした言葉や、残した線や、少しずれた靴下を見られる場所。


 それは必要な場所だと思った。


 必要だと思うことは、気持ちよかった。


 最初のうちは、そこに置かれる言葉は本当にやわらかかった。


 雨上がりの靴跡。

 笑いすぎて崩れた写真。

 チョークの粉がついた先生の指。

 使い古したローファー。

 弟が描いた、目の大きさが左右で違う似顔絵。


 READFACEが拾わないものを、みんなで拾っているようだった。


 そのうち、言葉は少しずつ形を変えた。


 タグが拾わないものが好き、という話は、タグのないものの方が安心する、になった。整いすぎていないものの方が人間っぽい、になった。READFACEで高評価の顔は、綺麗だけれど少し怖い、になった。


 そのくらいなら、レナにも分かった。


 分かる、と思った。


 でも、あるとき写真部の後輩が、LUMIAの広告みたいな顔は正直少し苦手だと書いた。


 美術室の空気が、ほんの少し止まった。


 誰もミアの名前は出していない。


 出していないけれど、全員の頭に同じ顔が浮かんだのが分かった。


 レナは何か言おうとした。


 でも、言葉がすぐに出なかった。


 ミアは違う。


 そう言いたかった。


 けれど、何が違うのかを説明しようとすると、うまく言葉にならない。LUMIAの広告のような顔が怖いという感覚は、レナにもある。白い背景に置かれた、計算されすぎた輪郭。深い頬の影。硬い唇。読まれるために整えられた顔。


 それは怖い。


 でも、ミアはそこにいる。


 怖いものの側に置きたくない。


 置きたくないのに、もう一部そこへ入ってしまっているようにも見える。


 その迷いの間に、菜月が少し明るい声を出した。


「広告はね。顔そのものっていうより、作り方が怖いんだと思う」


 三年生がすぐに頷いた。


「あの白さとタグの出し方ね」


 話題は少しだけずれた。


 レナはほっとした。


 ほっとしたのに、自分が何も言わなかったことは残った。


 白い診察室の椅子。

 LUMIAの封筒の角をなぞるミアの指。

 弁当箱の隅に残っていた卵焼き。

 言いかけて、飲み込んだ声。


 言えることは、いくつもあったはずだった。


 なのに、レナはそのたびに、言葉を選ぶふりをして黙った。傷つけないためだと思っていた。けれど今は、その沈黙が本当に誰かを守っていたのか、自分でもよく分からなかった。


 そして、今もまた黙った。


 ここは、自分を分かってくれる場所だった。

 その場所を、自分の言葉で壊すのが怖かった。


 その日の終わりに、写真部の後輩が一枚の絵を投稿した。


 レナの似顔絵だった。


 かなり簡略化されている。髪の内側の細いメッシュと、少し長いカーディガンと、スケッチブックだけでレナだと分かる。顔はやや眠そうで、実物より少し意地悪そうに描かれていた。


 その顔の横に、READFACE風のタグが浮いている。


True Eye(本物を見る目)

Anti-Label(反ラベル)

Real Sense(本物の感覚)

Unmarketed Beauty(市場化されない美)


 みんなが笑った。


 レナも笑った。


 でも、少しだけ胸の奥が跳ねた。


 True Eye。


 本物を見る目。


 そんなものが自分にあるのだろうか。


 ない、と思う。

 ないと思いたい。

 でも、そう見られることが嫌ではなかった。


 むしろ、少し嬉しかった。


 後輩が「嫌だったら消します」と書いたので、レナは「別にいい」と返した。なるべく軽い文にした。


 そのあと、こっそり画像を保存した。


 保存したことは、誰にも言わなかった。


 帰る前、レナはその画像を印刷して、小さく切った。


 美術室のプリンターは古く、紙の端が少しだけ曲がった。タグの文字も、画面で見るより少しぼやけている。


 True Eye。

 Anti-Label。

 Real Sense。

 Unmarketed Beauty。


 レナはそれを捨てなかった。


 スケッチブックの裏表紙に、そっと挟んだ。


 ラベルを嫌っているくせに、良いラベルは捨てられない。


 そう思いかけて、レナはすぐに別のことを考えた。


 帰りの支度。

 明日の小テスト。

 祖母の味噌汁。

 文化祭の背景案。


 考えるものは、いくらでもあった。


 数日後、No Tag Roomのメンバーは十二人になっていた。


 多くはない。


 でも、もう少なくもない。


 美術部、写真部、同じクラスの子、隣のクラスの子。READFACEの仮スキャン結果で落ち込んでいた子。進路フォームを空欄のまま出すか迷っている子。顔のタグは嫌いだけれど、タグを切る勇気もない子。


 それぞれが、少しずつ何かを持ち寄った。


 祖母の手の写真。

 弟が描いた雑な似顔絵。

 雨でにじんだプリント。

 猫が横切ってぶれた写真。

 メイクが崩れたけれど楽しそうな横顔。

 READFACEが Unstable Smile(笑顔の不安定性)と出した笑顔。


 投稿は、ゆっくり増えていった。


 タグだと低く出るけれど好き。

 こういう顔の方が安心する。

 整いすぎていると、どこを見ればいいか分からなくなる。

 本物っぽい。


 本物。


 その言葉が出てきたとき、レナは少しだけ指を止めた。


 本物。


 それは、気持ちのいい言葉だった。


 でも、少し怖い言葉でもあった。


 祖母の声が、どこかで小さく聞こえる。


 世界が間違っていて、自分だけが気づいている顔。


 レナは端末を見つめた。


 何か書こうとして、やめた。


 代わりに、別のページを投稿した。


割れたマグカップの金継ぎ。

壊れた線を隠さないまま、使い続けるための線。


 そう書いた。


 すぐに反応がつく。


「好き」

「こういうの、ほんと救われる」

「レナの言葉、安心する」


 安心する。


 その言葉に、レナはまた少し救われた。


 救われると、人は少し黙ってしまう。


 その夜、菜月が以前撮ったノートのページをNo Tag Roomに再投稿した。


今日、昔の写真を見た。

頬が柔らかかった。

笑うと目が細くなった。

あれは、修正前ではなかった。

あれは、失われた完成だった。


 画像の下に、菜月が短く書いている。


これ、やっぱり好き。


 すぐに反応がついた。


「何回読んでもいい」

「修正前じゃなかった、ってところ分かる」

「失われた完成、強い」

「今の空気への答えって感じ」

「名前出てないけど、誰のことか分かるよね」


 レナはその最後のコメントで、指を止めた。


 誰のことか分かるよね。


 胸の奥が少し冷える。


 やっぱり、分かる。


 分かるのだ。


 名前を書いていなくても。


 レナが何か打とうとしたとき、別のメンバーが先に返信した。


「特定の誰かっていうより、今の空気の話だと思う」


 すぐに菜月も返す。


「うん、そういうつもりで共有した」


 レナは画面を見つめた。


 そういうつもり。


 そういうつもりなら、大丈夫なのだろうか。


 特定の誰かの話だけではない。

 今の空気の話。

 社会の話。

 READFACEの話。

 LUMIAの話。

 失われていくものの話。


 そう考えれば、少し楽だった。


 ミアの名前は、どこにも書かれていない。


 その事実に、レナはまた守られようとした。


 しかし、守られきれなかった。


 レナは結局、何も書かなかった。


 既読だけが増えていく。


 翌日の放課後、美術室の前の廊下は少し騒がしかった。


 文化祭ポスターの候補写真が実行委員の端末にまとめられ、何人かがそれを見ていた。ミアの横顔の写真も、その中にあった。白い壁を背景に、少し顎を上げた横顔。制服のリボンが少しだけ曲がっている。


「これ、やっぱりミアちゃん強いね」


 誰かが言った。


「横顔が映える」


「LUMIAっぽい」


「それ褒め言葉?」


「褒めてるつもり」


 そのやり取りを聞きながら、レナは美術室の中でスケッチブックを閉じた。


 No Tag Roomの端末通知がまた鳴る。


 同時に、廊下の向こうからミアが歩いてくるのが見えた。


 ミアは、実行委員の子に呼ばれていたらしい。端末を片手に、少し疲れた顔をしている。けれど、呼ばれればちゃんと笑う。最近のミアは、笑うまでの速度が少し速くなった。誰かに見られる前に、先に形を作るみたいに。


 レナは立ち上がりかけた。


 声をかけようか迷った。


 そのとき、廊下にいた後輩の端末画面が、ミアの目に入った。


 ほんの一瞬だった。


 No Tag Roomの画面。


 菜月が再投稿した、あのページ。


今日、昔の写真を見た。

頬が柔らかかった。

笑うと目が細くなった。

あれは、修正前ではなかった。

あれは、失われた完成だった。


 ミアは立ち止まった。


 最初に、自分の名前を探した。


 どこにもなかった。


 だから、これは自分のことではない。


 そう思うこともできた。


 でも、頬が柔らかかった、と書いてあった。

 笑うと目が細くなった、と書いてあった。


 名前がなくても分かった。


 これは、自分の昔の顔のことだった。


 自分がもう持っていない顔のことだった。


 そして、誰かがそれを失われた完成と呼んだ。


 ミアは画面から目を離した。


 何も言わなかった。


「ミアちゃん?」


 実行委員の子が呼ぶ。


 ミアは少し遅れて笑った。


「ごめん。何でもない」


 その笑顔は、ちゃんと整っていた。


 広告には使えないほど弱くはなく、教室で浮くほど崩れてもいない。


 ただ、ミアの中で何かが静かに閉じた。


 レナは、それにまだ気づかなかった。

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