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第7話 ラベルなしで見たもの


 レナは、ミアからのメッセージを朝になってもう一度見た。


明日、小テストだっけ?


 その下に、自分の返事がある。


たぶん。


 短い。


 あまりにも短い。


 けれど、その短さに少し救われるところもあった。重いことを言わなくても、まだ小テストの話はできる。購買のパンの話も、天気の話も、先生の言い間違いの話も、たぶんまだできる。


 そう思うと、ほんの少しだけ息がしやすかった。


 ミアがその前に何を打って、何を消したのか、レナは知らない。


 知らないまま、細い橋がまだ残っていると思っていた。


 朝の食卓で、祖母はカーディガンの袖口をちらりと見た。


「今日は引っかけてないわね」


「まだ朝だけど」


「朝に引っかける子もいるのよ」


「どういう子」


「急いでいる子」


「今、急いでない」


「なら大丈夫ね」


 祖母は味噌汁の鍋を火にかけ直した。台所の窓から入る光が、鍋の縁を少しだけ白く光らせている。いつもの朝だった。少し薄い味噌汁。小さな皿のきんぴら。母が置いていった卵焼き。祖母が、卵焼きの端をひとつだけ先につまんで「味見」と言い張るところまで、いつも通りだった。


「それ、味見じゃなくて食べてるよね」


 レナが言うと、祖母は真顔で答えた。


「味を見るには、食べる必要があるでしょう」


「量の問題」


「細かい子ね」


 そう言われて、レナは少しだけ笑った。


 笑ったあとで、昨日の言葉を思い出す。


 世界が間違っていて、自分だけが気づいている顔。


 美を作っているつもりで、ラベルを縫っていた。


 その二つは、まだ消えていない。


 けれど、朝の味噌汁の湯気や、卵焼きの甘い匂いや、祖母のくだらない言い訳の中にいると、少しだけ遠くなる。遠くなっただけで、なくなったわけではない。袖口の縫い目と同じだ。表からは見えにくいだけで、裏を返せば残っている。


 レナはカーディガンの袖口を指で軽く押さえた。


「また触ってる」


 祖母が言った。


「触ってない」


「触ってた」


「見すぎ」


「年を取ると、見えるところが増えるの」


「それ便利そうで嫌だね」


 祖母は笑った。


「便利なものは、だいたい少し嫌なところがあるわ」


 その言い方が、少しREADFACEみたいだと思った。


 思ったけれど、口には出さなかった。


 学校へ向かう道は、小雨のあとで少し湿っていた。


 雨はもう上がっている。けれど、歩道の端には細い水たまりが残っていて、ローファーの裏がときどき小さく鳴った。駅前のスクリーンは、雨上がりでも関係なく白く光っている。LUMIAの広告ではなかったが、別の美容系サービスの広告が流れていた。


 顔ではなく、肌の広告だった。


Clear Texture(透明感のある肌質)

Pore Refinement(毛穴の精密補正)

Natural Glow Index 91.4(自然光沢指数:91.4)


 顔の次は肌。

 肌の次は髪。

 髪の次は姿勢。

 姿勢の次は声。


 そうやって、読む場所はいくらでも増えていくのかもしれない。


 レナはスクリーンから目を外した。


 目を外しただけで、見なかったことにはならない。


 教室に入ると、いつもより鏡を見ている生徒が多かった。


 正確には、鏡ではなく、端末の黒い画面やARレンズのセルフチェックを見ている。前髪を少しだけ横に流す子。笑顔を作って、すぐにやめる子。友達に「これ、どう見える?」と聞く子。


 READFACEの進路利用は、まだ正式に始まっていない。


 けれど、もう始まっていた。


 制度というものは、紙に書かれる前から人の手を動かすらしい。


「レナ、おはよ」


 ミアが言った。


 今日はミアの方が先に教室にいた。


「おはよう」


「小テスト、たぶんあるって」


「最悪」


「レナがたぶんって言ったのに」


「たぶんは希望も含むから」


「じゃあ外れたね」


 ミアは少し笑った。


 その笑い方は、前より細い。けれど、今日は少しだけ力が抜けているように見えた。昨日より自然、と言いかけて、レナは心の中で言葉を止めた。


 自然。


 その言葉も、もう簡単には使えない。


 ミアの横には、今日もタグが浮いている。


Refined Contour(洗練された輪郭)

Mature Impression(成熟した印象)

Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)


 レナはそれを読んでしまった。


 読んでから、ミアの顔を見る。


 順番が逆だ。


 何度思っても、身体が先に覚えてしまっている。


「何?」


 ミアが聞いた。


「何でもない」


「その何でもない、信用ならない」


「小テストのこと考えてた」


「それは顔が暗くなるやつ」


「じゃあ合ってる」


 ミアは「たしかに」と言って、ノートを開いた。


 その何でもなさに、レナは少しだけ助けられた。


 ただ、それだけでは足りなかった。


 一時間目が終わると、教室のあちこちでREADFACEの仮スキャン結果の話が始まった。


「昨日、親の確認通った」


「早」


「うちも。面接シートに空欄あるの嫌だって」


「うちのお母さん、こういうの好きだからすぐ押した」


「私、Smile Stability上げたいんだけど、どうすればいいの」


「口角トレーニングじゃない?」


「それ、もう顔筋じゃん」


 笑い声が起きる。


 明るい。


 軽い。


 けれど、会話の中身は少しずつ顔に近づいていく。


 レナは机の上で鉛筆を転がした。


 芯の先が丸くなっている。昨日から削っていない。こういう小さなことに気づくと、なぜか少し安心する。顔ではないもの。評価されないもの。誰にもタグを貼られていないもの。


 鉛筆にだって、もしREADFACEみたいなものがあれば何か出るのだろうか。


Graphite Wear : Uneven(黒鉛摩耗:不均一)

Grip Pressure : High(筆圧傾向:高)

Student Use Pattern : Frequent(学生使用頻度:高)


 そんなことを考えて、少しだけ馬鹿らしくなった。


 でも、馬鹿らしいと思えるものの方が、まだましだった。


 休み時間、美術部の友人である菜月がレナの席まで来た。


 菜月はいつも少し眠そうな目をしている。髪は肩のあたりで切りそろえていて、制服のリボンはきちんと結ぶのに、靴下だけ左右で少し高さが違う。本人は気づいていないのか、気にしていないのか分からない。


「レナ、昨日のポスター案、どうする?」


「タグなし案、残したい」


「だと思った」


 菜月は笑った。


「でも、実行委員はタグあり推しっぽいよ。今っぽいから」


「今っぽいって、便利な言葉だよね」


「便利だね。使うとだいたい勝てる」


「最悪」


「でも、分かる」


 菜月はそう言って、少し声を落とした。


「私も、顔の横に文字出るポスター、ちょっと嫌」


 レナは顔を上げた。


「ほんと?」


「うん。なんか、文化祭なのに就活みたい」


 その言い方に、レナは少し笑った。


 就活みたいな文化祭。


 嫌な言葉なのに、妙に合っている。


「でも、そう言うとさ」


 菜月は続けた。


「空気読めないみたいになるじゃん。みんな別に悪気ないし、ミアちゃんも嫌って言ってないし」


 ミアちゃん。


 その名前が出た瞬間、レナの中で何かが少し硬くなる。


 菜月はそれに気づかないまま、机の上の鉛筆を指で転がした。


「嫌って言ってないなら、いいのかなって。でも、嫌って言ってないことと、嫌じゃないことって、同じなのかな」


 レナはすぐに答えられなかった。


 自分も、昨日似たようなことを考えていた。


 ミアは嫌ではないと言った。


 困ってはいたけど、嫌ではない。


 それをどう受け取ればいいのか、まだ分からない。


「同じじゃないと思う」


 レナが言うと、菜月は少し安心したように頷いた。


「だよね」


 その「だよね」が、胸の奥を少し温めた。


 自分だけではない。


 この気持ち悪さを、分かる人がいる。


 それだけで、思ったより息がしやすくなる。


 小テストは、本当にあった。


 ミアは「レナのたぶん、信用できない」と小さく言った。レナは「私も信用してない」と返した。菜月が後ろの席で「じゃあ誰を信じればいいの」と言って、三人で少し笑った。


 小テストは五分で終わる簡単なものだった。


 けれど、問題用紙の端に印刷された学校ロゴの下に、READFACE連携準備中の小さな文字が入っているのを見つけて、レナは鉛筆を止めた。


 こんなところにもある。


 テスト用紙の端。

 進路アプリの通知。

 掲示板の紙。

 文化祭ポスターのラフ案。

 友達の会話。


 顔の横に浮かぶ言葉は、もう顔の横だけにない。


 それが一番嫌だった。


 昼休み、美術室に行く前に、レナは購買へ寄った。


 雨上がりの日は、なぜかパンの売れ方が遅い。湿気のせいなのか、みんな弁当を持ってくるのか、理由は知らない。棚にはまだ、クリームパンと焼きそばパンが残っていた。


 レナはクリームパンをひとつ取った。


 ミアは前に、このパンの端だけを先にちぎって食べて、「中身にたどり着くまでの道が長い」と言ったことがある。レナが「パンってそういうものでは」と返すと、ミアは「でもこれは特に遠い」と言い張った。


 そんなことを思い出して、レナは袋を持つ手を少し止めた。


 昔というほど昔ではない。


 ほんの少し前のことだ。


 それなのに、遠い。


 美術室には、昼休みでも何人かいた。


 文化祭の準備が近いので、最近は人の出入りが増えている。絵の具の匂い、紙の匂い、湿った制服の匂い。窓が少し開いていて、雨上がりの風がカーテンをゆっくり揺らしていた。


 レナは窓際の席に座った。


 スケッチブックを開く。


 第5話の帰り道で書いた「空欄」という文字が、ページの隅に残っている。


 空欄。


 その下に、まだ何も書いていない。


 レナは鉛筆を持った。


 何かを描こうと思った。


 けれど、最初に浮かんだのは顔ではなかった。


 祖母が直したカーディガンの袖口。

 雨に濡れたベンチの端。

 購買のクリームパンの袋のしわ。

 菜月の左右で少し高さの違う靴下。

 小テストの紙の端にあったREADFACEの小さなロゴ。

 ミアがリボンを直すときに、右と左を何度も間違える手。


 そういうものが、ばらばらに浮かんだ。


 どれもBeauty Indexとは関係がない。

 どれも、顔の横に出るタグでは拾えない。

 どれも、たぶん進路資料には入らない。


 でも、そこに人がいた。


 レナはページの中央に、小さくタイトルを書いた。


ラベルなしで見たもの


 思ったより、字がきれいに収まった。


 ただそれだけで、少し息がしやすくなった。


 レナはまず、祖母のカーディガンの袖口を描いた。


 正確には、袖口そのものではない。裏側に残った縫い目の記憶だ。表からは分からない。分からないようにされた場所。でも、なかったことにはなっていない場所。


 鉛筆で短い線をいくつも置く。


 細い線。

 戻された線。

 隠された線。


 その横に、短く書いた。


見えないところにある縫い目。

直ったように見えるものの裏側。


 書いてから、少し照れた。


 詩みたいで、少し大げさだと思った。


 でも消さなかった。


 次に、雨に濡れたベンチを描いた。


 駅裏にある古いベンチではなく、学校の中庭にある小さなベンチだ。座る人は少ない。雨が降ると、木の板の端に水が溜まって、昼過ぎになっても乾かない。誰かがそこに座ると、スカートが少し濡れる。だからみんな避ける。


 でも、レナはそのベンチが嫌いではなかった。


 水滴が残る場所は、誰にも急かされていない感じがする。


 そう書きかけて、少し考えた。


 急かされていない場所。


 それは、顔のことにも似ている気がした。


 でも、そこで一度鉛筆を止めた。


 何でも顔につなげるのは、少し嫌だった。


 クリームパンを半分食べて、袋を机の端に置く。


 美術室のドアが開いて、菜月が入ってきた。


「ここにいた」


「いた」


「クリームパン、まだあった?」


「ひとつだけ」


「負けた」


 菜月は大げさに肩を落とした。


 レナは袋の中を見た。まだ半分残っている。


「いる?」


「いいの?」


「中身までの道、長いけど」


「何それ」


「ミアが前に言ってた」


 言った瞬間、少しだけ空気が止まった。


 菜月はすぐに笑った。


「分かる。クリームパンって、最初ちょっと焦らすよね」


「パンに焦らされる人生」


「嫌すぎる」


 二人で笑った。


 笑いながら、レナは少し救われた。


 ミアの名前を出しても、笑える会話がまだある。ミアがいない場所でも、ミアが言った変な言葉を誰かと共有できる。


 それは、たぶん優しいことだった。


 たぶん。


 菜月はレナのスケッチブックをのぞいた。


「何それ」


「まだ見せるほどじゃない」


「タイトルついてるじゃん」


「タイトルは先につけた」


「作家っぽい」


「やめて」


 菜月は椅子を引いて、向かい側に座った。


「ラベルなしで見たもの」


 声に出して読まれると、少し恥ずかしかった。


「いいじゃん」


「そう?」


「うん。なんか、レナっぽい」


 レナっぽい。


 その言葉は、思ったより嬉しかった。


 嬉しいと思ったことを、レナは自分の中で少しだけ隠した。隠したくなるくらいには、嬉しかった。


「これ、さっきのベンチ?」


 菜月がページを指差す。


「うん」


「誰も座らないやつ」


「そう」


「好きなの?」


「たぶん」


「レナ、たぶん多いね」


「うつった」


「誰から?」


 レナは答えなかった。


 菜月はそれ以上聞かなかった。


 その距離感がありがたかった。


 放課後になるまで、レナは少しずつページを増やした。


 授業中に眠気をこらえている男子の、机の下でぎゅっと握った手。

 廊下で靴紐を結び直す下級生の背中。

 黒板を消したあとの、チョークの白い粉が残った先生の指。

 昼休みの終わりに、誰かが急いで閉じた弁当箱の音。

 菜月の少しずれた靴下。


 どれも小さかった。


 小さすぎて、タグにならないものばかりだった。


 レナはそれを拾っている気がした。


 誰も見ないものを見ている気がした。


 そう思うと、また少し息がしやすくなった。


 その気持ちよさには、まだ名前をつけなかった。


 放課後、美術室にミアは来なかった。


 文化祭ポスターの候補写真の確認があるとかで、実行委員の方に呼ばれているらしい。廊下で誰かが「ミアちゃん、また撮影だって」と言っているのが聞こえた。


 また撮影。


 その言い方が、少しだけ芸能人みたいだった。


 レナはスケッチブックを閉じかけて、もう一度開いた。


 端末の写真フォルダを開く。


 昔の写真。


 といっても、数か月前のものだ。春の遠足の日、購買前で撮った写真。レナが撮ったわけではなく、クラスの共有フォルダに残っていたものだった。何人かでふざけていて、ミアがクリームパンを片手に持っている。


 リボンが曲がっている。


 頬が柔らかい。


 笑うと目が細くなっている。


 レナは写真をしばらく見た。


 この写真のミアは、今のミアではない。


 でも、ミアではある。


 その当たり前のことが、なぜか胸に刺さった。


 レナはスケッチブックに、文字を書いた。


今日、昔の写真を見た。

頬が柔らかかった。

笑うと目が細くなった。

あれは、修正前ではなかった。

あれは、失われた完成だった。


 書き終えた瞬間、息が止まった。


 失われた完成。


 その言葉は、ページの上で妙にきれいに見えた。


 きれいすぎるくらいだった。


 レナは鉛筆を置いた。


 少し手が震えていた。


 自分が何を書いたのか、分かっているようで、まだ分かっていなかった。ただ、ずっと胸の中にあったものが、やっと形を持った気がした。


 ミアの名前は書いていない。


 書いていないのに、誰のことかは分かった。


 そのことに、レナは気づいていた。


 気づいていたけれど、名前を書いていないという事実に、少しだけ守られた気もした。


 美術室の外から、運動部の掛け声が聞こえる。


 窓の近くでは、誰かが洗い忘れた筆が水入れの中で倒れている。水は少し濁っていて、筆の毛先が曲がっていた。


 レナはスケッチブックを閉じようとした。


 そのとき、菜月が戻ってきた。


「ごめん、筆箱忘れた」


「そこ」


 レナが机の端を指差すと、菜月は「あった」と言って筆箱を取った。


 そのまま帰るかと思ったが、菜月はレナの手元を見て立ち止まった。


「続き、書いた?」


「少し」


「見てもいい?」


 レナは一瞬迷った。


 見せるつもりで書いたわけではない。


 でも、誰かに読んでほしい気持ちがまったくなかったかと言われると、それは嘘だった。


「少しだけなら」


 レナはスケッチブックを開いた。


 菜月はページをのぞきこむ。


 最初は、縫い目のページ。次に、雨のベンチ。次に、靴紐。チョークの粉。クリームパンの袋。そして、最後のページ。


 今日、昔の写真を見た。


 菜月の目が、そこで少し止まった。


 レナは息を詰めた。


 菜月は最後まで読んだ。


 頬が柔らかかった。

 笑うと目が細くなった。

 あれは、修正前ではなかった。

 あれは、失われた完成だった。


 美術室の中が、少し静かになった気がした。


 実際には、遠くで誰かが笑っていたし、廊下では足音もしていた。でも、レナの周りだけ、少し音が薄くなった。


 菜月はゆっくり顔を上げた。


「これ、いい」


 レナは何も言えなかった。


「すごく、いい」


 菜月の声は小さかった。


「分かる。なんか、分かるよ」


 分かる。


 その言葉が、レナの胸に落ちた。


 思ったより深いところまで落ちた。


 誰かが分かると言ってくれた。自分が気持ち悪いと思っていたもの、自分が守りたいと思っていたもの、自分でもまだうまく名前をつけられないものを、分かると言ってくれた。


 レナは少しだけ、救われた。


 救われてしまった。


「大げさじゃない?」


 レナは言った。


 声が少し掠れた。


「大げさだけど、そこがいいんじゃない?」


 菜月は笑った。


「こういうの、今の学校に必要だと思う」


 必要。


 その言葉は、少し強すぎた。


 でも、強い言葉は、弱っているところに入ると温かい。


「写真撮っていい?」


 菜月が言った。


 レナは顔を上げた。


「何の?」


「このページ。美術部の限定グループに流したい。名前とかは出さないし」


 名前は出さない。


 レナの中で、何かが一瞬止まった。


「名前、出てないしね」


 菜月は続けた。


「誰のことかは、まあ、分かる人には分かるかもしれないけど。でも、これって特定の誰かの話だけじゃないと思うし」


 特定の誰かの話だけじゃない。


 その言葉は便利だった。


 レナはページを見た。


 今日、昔の写真を見た。


 ミアの名前はない。


 ないのに、いる。


「嫌ならやめる」


 菜月が言った。


 その言い方は優しかった。


 優しかったから、レナは逃げ道をもらってしまった。


 嫌ならやめる。


 嫌と言えば、止められる。


 でも、嫌だとは言えなかった。


 自分の書いたものが、誰かに届くかもしれない。

 分かる、と言ってくれる人が、ほかにもいるかもしれない。

 この気持ち悪さを、ひとりで持たなくていいかもしれない。


 そう思ってしまった。


「限定なら」


 レナは言った。


「うん。限定」


「名前は出さないで」


「もちろん」


 菜月は端末を構えた。


 シャッター音はしなかった。


 ただ、画面の中にレナのページが収まった。


 今日、昔の写真を見た。


 その文字が、端末の中へ入っていく。


 レナはそれを見ていた。


 止めなかった。


 数分後、美術部の限定グループに菜月の投稿が流れた。


ラベルなしで見たもの。

レナのこれ、すごく好き。


 画像が一枚。


 すぐに既読が増えた。


 誰かが反応する。


「分かる」

「これ、刺さる」

「最近のREADFACEの流れ、ほんと嫌だった」

「言葉にしてくれて助かる」

「もっと読みたい」


 レナは画面を見つめた。


 胸の奥が温かくなる。


 それは、クリームパンの甘さや、味噌汁の湯気や、祖母の直した袖口とは違う温かさだった。もっとまっすぐで、もっと危ない場所まで届く温かさ。


 自分が正しい場所に立てた気がした。


 そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。


 けれど、その怖さはすぐに、嬉しさの中へ溶けた。


 レナは端末を伏せた。


 スケッチブックのページには、まだ鉛筆の跡が残っている。


 ミアの名前は、どこにも書いていない。


 だから大丈夫だと、そのときのレナは思った。

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