第6話 読まれる顔
ミアは、朝の鏡が少し苦手になった。
洗面所の白い照明は、顔に対して遠慮がない。寝起きのむくみも、頬の影も、まだ少し硬い口元も、全部同じ明るさで映す。ARレンズの補正を通した顔より、鏡に映る顔の方が古いものに近いはずなのに、今のミアには、鏡の方が知らないものを映すように感じられた。
頬に触れる。
前より、指が沈まない。
そのことを、まだ毎朝確かめてしまう。
痛みはほとんど消えた。腫れも、言われなければ分からないくらいには引いている。けれど、指の方はまだ前の顔を覚えていた。笑うと柔らかく動いた場所。泣きそうになると、唇より先に震えた場所。LUMIAの診断で、何度も線を引かれた場所。
今は、そこに別の影がある。
ミアはARレンズのセルフチェックを入れた。
鏡の中の自分の横に、薄い文字が浮かぶ。
Refined Contour(洗練された輪郭)
Mature Impression(成熟した印象)
Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)
悪くない。
もう、悪くない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
それから、すぐに重くなる。
ミアは、そこに出ていない言葉を覚えていた。
Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)
Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)
Low Memorability(記憶されにくい顔)
消えている。
本当に、消えている。
そのことに安心してしまう自分がいた。
ミアは水を出し、もう一度顔を洗った。冷たい水が頬の線に沿って落ちていく。前と違う落ち方をしている気がする。そんなことまで変わったように感じるのは、たぶん気にしすぎだ。
でも、顔を変えてから、気にしすぎる場所が増えた。
朝食のテーブルには、トーストとヨーグルトと、小さなサラダが置かれていた。
母は最近、皿の上の量を少しだけ考えている。多すぎないように。少なすぎにも見えないように。気にしていないふりをしながら、気にしている人の置き方だった。
ミアはそれに気づいていた。
気づいていることを、気づかれないようにしていた。
「腫れ、だいぶ引いたね」
母が言った。
「うん」
「学校、無理しないでね」
「してないよ」
ミアはトーストをちぎった。
母はそれ以上、顔のことを言わなかった。言わないようにしてくれているのが分かった。ありがたかった。けれど、顔のことを言わないために、会話の端を避けて歩いているみたいで、少しだけ息が詰まった。
「今日、小テストだっけ」
母が聞いた。
「たぶん」
言ってから、ミアは少し笑った。
レナみたいな返事だと思った。
母は「たぶんって何」と言って、味噌汁ではなくスープを温め直した。ミアはそれにも少し笑った。笑うと、頬の動きがまだ少し遅れる。
その遅れを、ミアは自分だけで見つけてしまう。
学校へ向かう道で、何度か視線を感じた。
気のせいかもしれない。
けれど、以前より少しだけ長い。駅の階段を上がるとき、向かいから来た女子大生らしい人が一瞬だけミアの顔を見た。コンビニの前で立っていた男子高校生が、端末から目を上げて、すぐに逸らした。
ほんの少し。
それだけのことだった。
でも、以前なら、その少しすらなかった。
ミアは駅の柱に映った自分の横顔を見た。見たつもりはなかった。ただ、通り過ぎるときに映っただけだ。けれど足が少し遅くなった。
顎の線。
頬の影。
前より少し硬い口元。
ちゃんと見える。
そう思った。
見えるようになってしまった、とも思った。
その二つは、同じ形をしているのに、胸に落ちる場所が違った。
教室に入ると、レナは窓際の席にいた。
スケッチブックを開いて、まだ何も描いていないページの端を指で押さえている。レナは考えごとをしているとき、風もないのに紙の端を押さえる。動かないものが動き出すのを、先に止めているみたいに。
ミアはその癖が少し好きだった。
「おはよ」
ミアが言うと、レナが顔を上げた。
「おはよう」
レナの声は普通だった。
普通にしようとしている声だった。
その顔の横に、タグが浮いている。
Natural Symmetry(自然な左右対称性)
Quiet Authenticity(静かな真正感)
High Memorability(高記憶性)
Unforced Elegance(無理のない上品さ)
ミアはそれを見た。
見慣れていた。
見慣れているのに、時々新しく傷つく。
レナ本人は、自分の横に何が浮いているのかを、たぶんあまり知らない。見ていないのか、見ないようにしているのか、見ても気にしないのか。ミアには分からない。
ただ、レナは、その表示を嫌える顔をしていた。
顔の横に浮かぶ言葉を気持ち悪いと言っても、それが僻みに見えにくい顔をしていた。黙っていても、考えているように見える顔。面倒なことを言っても、感性があるように見える顔。タグを嫌っても、自分を持っているように見える顔。
ずるい。
そう思った。
思ったあとで、ミアは自分が嫌になった。
レナは悪くない。
レナはずっと、ミアを見てくれていた。駅前でミアが診断をした日も、LUMIAへ相談に行った日も、学校に戻ってきた日も、レナはたぶん本気で心配していた。
それは分かる。
分かるのに、High Memorability(高記憶性)という言葉を見ると、喉の奥が少し硬くなる。
レナは覚えられる顔をしている。
ミアは、覚えられにくい顔だった。
友達であることは、その差を消してくれなかった。
「昨日のフォーム、出した?」
レナが聞いた。
「まだ」
「そう」
「レナは?」
「まだ」
ミアは少し笑った。
「だと思った」
「何それ」
「レナ、ああいうのすぐ出さなそう」
「すぐ出す方が変じゃない?」
「そういうところ」
「どこ」
「めんどくさいところ」
レナは少しだけ眉を寄せた。
「朝からそれ言う?」
「朝だから言ってる」
いつものやり取りに近かった。
近かったけれど、同じではなかった。
ミアは、レナが少し安心したのを見た。たぶん、自分たちがまだこういう会話をできることに安心したのだと思う。小テストとか、天気とか、制服のリボンとか、そういうどうでもいい話をしていれば、何かが完全には壊れていない気がする。
ミアも、そう思いたかった。
でも、どうでもいい話の横にも、タグは出る。
Quiet Authenticity(静かな真正感)。
Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)。
同じ教室にいても、二人は別々の言葉を貼られていた。
昨日のホームルームの説明は、まだ教室の中に残っていた。
進路相談。
推薦資料。
面接練習。
非言語印象補助分析。
任意利用。
ただし、使わなければ空欄。
細かい説明は、もう思い出したくなかった。
ただ、教師が「人格や価値を決めるものではありません」と何度も言っていたことと、そのあと教室の空気が変わったことだけは、ミアの中に残っていた。
空欄。
その言葉は、何もないようでいて、何かがありすぎた。
ミアには、もうLUMIAのデータがある。学校連携もできる。保護者同意も、クリニック側の認証も済んでいる。進路資料に反映しようと思えば、すぐにできる。
空欄ではない。
そのことに、ミアは少し安心していた。
安心している自分を、レナには見せたくなかった。
二時間目のあと、ミアは女子トイレでリップを直した。
鏡の前は少し混んでいた。手を洗う子、髪を直す子、ARレンズのメイク補正を切り替える子。女子トイレの鏡の前には、いつも少しだけ本音に近い空気がある。教室では言えないことも、鏡を見ているふりをしながらなら言えてしまう。
「ミア、ほんと雰囲気変わったよね」
隣に立った同じクラスの子が言った。
悪意はなかった。
むしろ、少し羨ましそうだった。
「そうかな」
ミアは薄く笑った。
「横顔きれいになった。いいなあ。私も頬どうにかしたい」
その子は、自分の頬を両手で挟んで、少しだけ押し上げた。
ミアのARレンズに、その子のタグが浮いている。
Warm Softness(温かな柔らかさ)
Friendly Roundness(親しみやすい丸み)
Youthful Warmth(若々しい温かさ)
ミアは、一瞬だけ息を止めた。
柔らかさ。
同じ柔らかさなのに。
その子の顔には、温かいと出る。親しみやすいと出る。若々しいと出る。
ミアの頬には、Warning と出ていた。
注意。
警告。
直した方がいい場所。
何が違ったのだろう。
頬の厚み。顎とのつながり。目元との距離。年齢印象。笑い方。髪型。全体の比率。たぶん、いろいろあるのだと思う。READFACEなら説明できるのかもしれない。
でも、ミアには分からなかった。
分からないものに、ずっと傷つけられてきた。
「でも、痛そうだよね」
その子は言った。
「少しだけ」
ミアは答えた。
「やっぱり痛いんだ」
「うん。でも、思ったよりは平気」
これは、LUMIAで聞いた説明に似ていた。
痛みは管理できます。
腫れも数日で落ち着く方が多いです。
学校生活への復帰も早い。
ミアは、自分の口からその言葉の形が出てくるのを感じた。
自分が説明する側になっている。
そのことが、少し怖かった。
「私も行こうかな」
その子は、鏡の中の自分を見ながら言った。
ミアはすぐに「行かない方がいい」とは言えなかった。
言いたかったのかも分からない。
自分は行った。
行って、変わった。
変わって、少し救われた。
それなのに、他人には行かない方がいいと言うのは、何かを隠している気がした。
「無理しない方がいいよ」
やっと出た言葉は、それだった。
その子は笑った。
「ミアが言うと説得力ある」
説得力。
ミアはリップのキャップを閉めた。
その音が、思ったより大きく聞こえた。
昼休み、廊下で下級生に声をかけられた。
「あの、ミア先輩ですか」
先輩。
そう呼ばれるほど先輩らしいことをした覚えはない。
「うん」
「LUMIAの写真、見ました。すごく綺麗でした」
その子は、少し緊張しているようだった。
ミアは笑った。
「ありがとう」
「文化祭ポスターも、候補なんですよね」
「まだ分からないよ」
「出たら絶対見ます」
見ます。
その言葉は、まっすぐだった。
ミアは少しだけ怖くなった。
見られたいと思っていた。
それなのに、本当に見ますと言われると、どこを見られるのか分からなくなった。
顔。
写真。
LUMIAの結果。
施術の成功例。
前より良くなった人。
読まれるようになった人。
そのどれが自分なのか、すぐには分からない。
放課後、文化祭ポスター用の候補写真を撮られた。
第5校舎の中庭だった。夕方の光が斜めに入って、白い壁に柔らかく反射している。実行委員の子と、美術部の先輩が二人。撮影用の端末と、小さな反射板。思ったよりちゃんとしていて、ミアは少し緊張した。
「横顔、少しこっち向きで」
「顎、もう少しだけ上げられる?」
「目線は遠くで」
言われた通りにする。
顎を上げる。
肩を少し下げる。
目線を遠くへ置く。
LUMIAで撮られたときと似ていた。
違うのは、ここが学校で、周りに制服のままの生徒がいて、遠くから運動部の声が聞こえることだった。日常の中に、撮影の姿勢だけが少し浮いている。
「いいね」
実行委員の子が言った。
「横顔、線がきれい」
線。
ミアはその言葉を聞いて、レナを思い出した。
レナは、きっとこの言葉にも少し嫌な顔をする。線がきれい。輪郭が整った。認識される顔。そういう言葉が、人の顔を図面にしてしまうことを、レナは嫌がる。
でも、ミアはその「線がきれい」が嬉しかった。
嬉しいと思った。
ちゃんと。
そのことを、レナに知られたくなかった。
撮影が終わると、実行委員の子が端末で写真を見せてくれた。
白い壁を背景に、ミアの横顔が映っている。頬の影がきれいに入っていて、顎の線が細く見える。少しだけ、LUMIAの公式写真に似ている。
でも、制服のリボンが少し曲がっていた。
ミアはそこに気づいて、なぜか少し安心した。
「リボン、曲がってる」
自分で言うと、実行委員の子が笑った。
「そこが自然でいいかも」
自然。
前なら、その言葉は嬉しかったかもしれない。
今は少しだけ複雑だった。
自然に見えるように、どれだけのものが調整されているのだろう。
駅前で知らない女性に声をかけられたのは、その帰りだった。
ミアは一人だった。
中庭での撮影が思ったより長引いて、いつもより遅い時間になっていた。駅前のスクリーンには、LUMIAの広告が流れている。今日はミアではない。別のモデルが、白い背景の中で笑っていた。
その横を通り過ぎようとしたとき、声がした。
「あの、もしかして」
ミアは振り向いた。
二十代後半くらいの女性だった。きちんとしたコートを着て、髪を低い位置で結んでいる。少し疲れた顔をしていたけれど、笑うと丁寧な印象になる人だった。
女性の顔の横にも、タグが浮いていた。
Clean Professional(清潔な職業的印象)
Smile Control : High(笑顔制御:高)
Age Anxiety Detected(年齢不安を検出)
最後のタグを見てしまって、ミアは少し気まずくなった。
自分も今、誰かを読んでいる。
読みたくなくても、読めてしまう。
読めてしまうと、見方が少し変わってしまう。
女性は、ミアの顔を見て表情を明るくした。
「LUMIAの広告の子ですよね?」
ミアの喉が少し固まった。
広告の子。
その言葉は、思ったより重かった。
「……たぶん」
変な返事になった。
女性は気にしなかった。
「やっぱり。写真、すごく綺麗でした。実物も綺麗」
実物。
ミアはどう笑えばいいのか一瞬分からなくなった。
それでも笑った。
「ありがとうございます」
声が少し硬かった。
女性は端末を持ち直した。
「私も来月、カウンセリング行くんです。ずっと頬と口元が気になってて。あの写真見て、やっぱり行こうと思って」
ミアは、すぐに返事ができなかった。
あの写真。
自分の写真。
自分の顔が、誰かの予約ボタンを押した。
その事実が、急に目の前に立った。
怖かった。
でも、誇らしくないわけではなかった。
誰かが自分を見て、動いた。
自分の顔が、ただ通り過ぎられるものではなくなった。
誰かの決心の理由になった。
それは、浅い喜びではなかった。
ずっと欲しかったものに近かった。
近すぎて、怖かった。
「無理しないでくださいね」
ミアは、やっとそう言った。
女性は少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
女性が去ったあと、ミアはしばらく駅前に立っていた。
スクリーンの白い光が、歩道に薄く落ちている。人々はその光の中を通り過ぎていく。誰かの顔の横にタグが浮き、消え、また浮く。
ミアのARレンズには、自分の現在タグがまだ表示されていた。
Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)
上がっている。
ちゃんと、上がっている。
それなのに、どうして少し怖いのだろう。
家に帰ってから、ミアは自分の部屋で端末を開いた。
LUMIAの公式投稿には、また反応が増えていた。
New Sculpted Muse : MIA(新たな彫刻的ミューズ:MIA)
Softness Removed. Identity Revealed.(柔らかさを取り除き、真の輪郭を解放)
コメントは相変わらず流れている。
「横顔が綺麗」
「成功例」
「この輪郭になりたい」
「自然でいい」
「前の写真も見たい」
「LUMIA予約した」
ミアは最後のコメントで指を止めた。
予約した。
また一人。
自分の顔が、誰かの予定に入っていく。
端末を伏せようとして、やめた。
レナとのチャット画面を開く。
最後のやり取りは、短いものばかりだった。小テストのこと。購買のパンのこと。明日の天気のこと。核心に触れないための、細い橋みたいな会話。
ミアは文字を打った。
レナはいいよね。
打った瞬間、胸の奥が冷えた。
嫌な言葉だった。
送ったら、レナは傷つく。たぶん怒る前に傷つく。それが分かるくらいには、ミアはレナのことを知っている。
ミアは文字を消した。
画面からは消えた。
でも、思ったことまでは消えなかった。
送らなかった。
だから、レナは知らない。
でも、レナが知らないことと、ミアが思わなかったことは違う。
ミアはもう一度、文字を打った。
前の私の方が好き?
それも消した。
私の顔、そんなに変?
消した。
どれも送れなかった。
送れない言葉ばかりが、自分の中に残っていく。
ミアは端末を持ったまま、しばらく天井を見た。部屋の照明が少しまぶしい。ARレンズを切ると、世界が少し静かになる。でも、切ったところで、自分の顔が変わるわけではない。
もう一度、チャット欄に文字を打つ。
明日、小テストだっけ?
送信。
すぐに既読がついた。
返事は少し遅れて来た。
たぶん。
ミアは声を出さずに笑った。
レナらしい。
たぶん。
何でもない返事。頼りない返事。少し困る返事。でも、その曖昧さに、今日は少しだけ助けられた。
ミアは端末を胸の上に置いた。
鏡の方は見なかった。
ARレンズの表示も切った。
それでも、顔の横に浮かぶ言葉は、まぶたの裏に残っていた。
Refined Contour(洗練された輪郭)
Mature Impression(成熟した印象)
Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)
読まれる顔。
欲しかったもの。
欲しかったはずのもの。
ミアは目を閉じた。
レナはいいよね。
画面には、もう残っていない。
でも、一度思ってしまったことは、送らなくても、自分には届いてしまう。




