表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/13

第5話 空欄


 翌朝、レナはいつもより少し早く目が覚めた。


 目覚ましが鳴る前だった。部屋のカーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。まだ明るいというほどではなく、部屋の輪郭だけが少し戻ってくるくらいの時間だった。


 レナはしばらく天井を見ていた。


 昨日の夜、祖母が言った言葉が残っている。


 世界が間違っていて、自分だけが気づいている顔。


 美を作っているつもりで、ラベルを縫っていた。


 その二つは、寝ている間もどこかでほどけずに残っていたらしい。朝になっても、胸の奥に小さな糸玉のように引っかかっていた。


 レナは布団の中で横を向いた。


 机の椅子には、祖母に直してもらったカーディガンがかかっている。袖口のほつれは、表から見るとほとんど分からない。けれど、裏を返せば縫い目がある。見えないところに、祖母の手が通った跡がある。


 完全には戻っていないわよ。


 分からないようにしただけ。


 レナはその言葉も思い出した。


 分からないようにすることと、なかったことにすることは違う。たぶん、それは分かる。分かるけれど、分かったからといって、何かが急に変わるわけではなかった。


 ミアに送れなかったメッセージは、まだ端末の下書きにも残っていない。


 何度か打って、全部消したからだ。


 ミア。


 名前だけ打って、送れなかった。


 レナは枕元の端末を取った。画面をつける。通知は、学校の連絡アプリと、美術部のグループだけだった。


 ミアからは来ていない。


 来ていないことに少しほっとして、ほっとした自分が嫌になった。


 朝食の席で、祖母は何も聞かなかった。


 テーブルには、薄い味噌汁と卵焼きと、昨日の残りのきんぴらが並んでいた。祖母の卵焼きは母のものより少し固い。甘さも控えめで、レナは昔から、祖母の卵焼きを食べると「朝ごはん」というより「ちゃんとしたもの」を食べている気分になる。


「カーディガン、着ていくの?」


 祖母が聞いた。


「うん」


「袖、引っかけないようにね」


「分かってる」


「分かってる子ほど、また引っかけるのよ」


「おばあちゃん、それ昨日からずっと同じこと言ってない?」


「年を取ると、言葉も再利用するの」


 レナは少しだけ笑った。


 笑ったあとで、祖母の顔を見た。


 何か言われるかと思った。昨日の続き。ミアのこと。LUMIAのこと。自分が正しいと思いたがる顔のこと。


 でも祖母は、きんぴらを小皿へ移しているだけだった。


 それが少しありがたくて、少しだけ物足りなかった。


 学校へ向かう道で、レナはARレンズの表示を一度切ろうとした。


 指先で操作しかけて、やめる。


 切れば、顔の横のタグは見えなくなる。けれど、見えないことと、ないことは違う。昨日からずっと、そんなことばかり考えている気がした。


 駅前のスクリーンには、LUMIA CLINICの広告が流れていた。


 今日はミアではなかった。別の女優が、白い背景の中で笑っている。頬は深く沈み、目元は完璧で、唇は動いているのに声までは届かない。


Beauty Index 99.1(美的印象指数:99.1)

Verified Beauty(認証された美)

Global Recognition : S+(国際認識度:S+)


 周りの人たちは、ちらりと見上げて、すぐに歩き出す。


 日常だった。


 こんなものが日常になっている。


 そう思うと、レナの胸の奥にまた熱いものが戻ってきた。


 昨日、祖母に言われたことは分かる。自分もミアに言葉をつけていたのかもしれない。それでも、やっぱりおかしいものはおかしい。ミアはあんなふうに傷つく必要はなかった。頬が重いなんて、あんな言葉を自分の顔に貼りつける必要はなかった。


 レナは改札を抜けた。


 熱いものがあると、少し歩きやすかった。


 学校に着くと、教室の前の掲示板に新しい紙が貼られていた。


 進路支援プログラム更新のお知らせ。


 その下に、小さくREADFACEのロゴが入っている。


 レナは足を止めた。


 何人かの生徒が、同じ紙を見ていた。


「何これ」


「進路関係じゃない?」


「READFACEって書いてある」


「また?」


 誰かがそう言って笑った。軽い笑いだった。面倒な課題が増えたときの笑いに似ていた。


 レナは紙を読んだ。


 進路相談、推薦資料作成、面接練習、芸術系活動実績、配信・広報活動を対象とした非言語印象補助分析の試験導入について。


 言葉が長い。


 長い言葉は、だいたい何かを柔らかく包むために使われる。


 教室に入ると、ミアはもう席にいた。


 髪を結び直しているところだった。施術後のミアは、前より少しだけ髪型に気を遣うようになった。もともと可愛く整えてはいたけれど、今は鏡を見る時間が少し長い。小さなヘアクリップも、前の淡い色のものではなく、黒と金の細いものに変わっている。


 似合っていた。


 似合っている、と思ってしまうことが、まだ少し嫌だった。


「おはよ」


 ミアが言った。


「おはよう」


 声は普通に出た。


 普通に出たことに、レナは少し安心した。


 ミアも普通に笑った。笑ったけれど、その笑い方はまだ少し細い。頬が前より動かないせいなのか、意識しているせいなのか、レナには分からない。


「掲示板、見た?」


 ミアが聞いた。


「見た」


「READFACEのやつ?」


「うん」


 ミアは端末を机に置いたまま、画面を指で軽く叩いた。開くわけでもなく、ただ角を触っている。緊張しているのかもしれないし、退屈しているだけかもしれない。


「進路で使うんだって」


「らしいね」


「うち、そういうの早いよね」


「早いっていうか、軽い」


「軽い?」


「入れ方が」


 ミアは少しだけ笑った。


「レナ、朝からめんどくさい」


 その言い方は、前とあまり変わらなかった。


 レナはほっとしかけた。


 ほっとしかけて、ミアの横に浮かぶタグを見てしまう。


Refined Contour(洗練された輪郭)

Mature Impression(成熟した印象)

Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)


 Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)は、もうない。


 消えた場所だけが、レナにはまだ見えていた。


 一時間目の前のホームルームで、進路指導の教師が教室に入ってきた。


 いつもの担任ではなかった。学年全体の進路を担当している、声の柔らかい男性教師だった。授業で会うことは少ないけれど、面接練習や説明会のときによく前に立つ人だ。


 彼は教卓に端末を置き、前方スクリーンに資料を映した。


READFACE Educational Support Program

非言語印象補助分析 試験導入について


 白地に青い線の、きちんとした資料だった。


 LUMIAの白とは違う。もっと学校らしい、もっと安全そうな白だ。


 教師は、いつもより少しゆっくり話し始めた。


「来月から、進路相談と推薦資料作成の一部で、READFACEの非言語印象補助分析を試験的に導入します」


 教室が少しざわついた。


 教師はすぐに手を上げる。


「まず最初に確認します。これは、皆さんの人格や価値を評価するものではありません」


 その言葉に、レナは少しだけ息を止めた。


 聞いたことがある。


 何度も。


「美醜を判定するものでもありません。あくまで、面接や発表、ポートフォリオ写真、配信活動、広報資料などにおいて、第一印象がどのように伝わりやすいかを確認する補助資料です」


 スクリーンに項目が並ぶ。


Expression Clarity(表情の明瞭度)

Memory Retention(記憶保持率)

Trust Formation Speed(信頼形成の速さ)

First Impression Stability(第一印象の安定性)

Camera Adaptability(撮影環境への適応度)

Interview Presence(面接時の存在感)


 どれも、それだけ見れば悪い言葉ではなかった。


 むしろ、ずいぶん気を遣って選ばれている。


 顔が良い。顔が悪い。美しい。醜い。そんな直接的な言葉はどこにもない。


 だからこそ、逃げ道がない。


 教師は続けた。


「近年、面接やオンライン発表では、内容だけでなく非言語印象も重要になっています。もちろん、本来は内容や能力が評価の中心です。ただ、第一印象によって伝わり方が左右されることも事実です」


 ただ。


 レナはその言葉が嫌いになり始めていた。


 ただ、補助するだけ。

 ただ、参考にするだけ。

 ただ、知っておくだけ。


 ただ、という言葉は、危ないものを少し小さく見せる。


「先生」


 前の席の男子が手を上げた。


「それって、全員やるんですか?」


 教師は頷いた。


「希望者のみです。任意利用です」


 教室の空気が、少しだけ緩んだ。


 任意。


 その言葉には、人を安心させる力がある。


 レナも、一瞬だけ肩の力を抜きかけた。


 教師は続けた。


「ただし、利用しない場合は、面接練習シートや推薦資料の印象分析欄が空欄になります」


 その瞬間、教室の空気が変わった。


 ほんの少しだった。


 けれど、確かに変わった。


 空欄。


 それは、ただ何も書かれていない場所のはずだった。


 でも教室の中では、すでに別の意味を持ち始めていた。


 使わなかった人。

 準備しなかった人。

 自分の見られ方を把握していない人。

 社会に出る前の確認を避けた人。


 誰もそんなことは言っていない。


 教師も言っていない。


 でも、空欄はそう読まれる。


「空欄って、逆に目立ちませんか?」


 誰かが聞いた。


 教師は少し困ったように笑った。


「もちろん、それだけで不利になることはありません。評価項目ではなく、あくまで補助情報です」


 また、あくまで。


「ただ、面接練習などで自分の印象傾向を知っておくことは、今後の社会参加に役立つと考えています」


 今後の社会参加。


 言葉がまた一つ大きくなった。


 レナは膝の上で手を握った。


 隣を見ると、ミアはスクリーンを見ていた。顔は静かだった。静かすぎて、何を考えているのか分からない。


 ミアは、もうLUMIAの診断を受けている。自分の顔がどう読まれるか、レナよりずっと具体的に知っている。


 そして今のミアのタグは、以前よりずっと良い。


 レナはそれを思い出して、また胸の奥がざらついた。


 教師の説明が終わると、各自の端末に同意フォームが配信された。


 保護者確認欄。

 任意利用。

 第三者提供なし。

 教育目的での限定参照。

 分析結果の本人開示。

 学校内推薦資料への限定反映。


 きちんとしている。


 きちんとしているものほど、かえって怖いことがある。


 レナはフォームを閉じた。


 すぐには押したくなかった。


 周りでは、もう何人かが端末を操作していた。


「え、これ今やっていいの?」


「親の確認いるっぽい」


「でも仮スキャンはできる」


「やば、Smile Stability低いんだけど」


「何それ、笑顔が不安定ってこと?」


「そんなこと言われても困る」


「Trust Formation高い。私、信用される顔らしい」


「いいじゃん」


「でもCamera Adaptability低い。写真写り悪いってこと?」


「それは知ってた」


 笑い声が起きる。


 軽かった。


 小テストの点数を見せ合うときに似ていた。

 占いの結果を読み合うときにも似ていた。


 でも、画面に出ているのは顔だった。


 その人たちが、明日も明後日も持って歩く顔だった。


「レナはやらないの?」


 隣の席の子が聞いた。


 レナは少し遅れて顔を上げた。


「まだ」


「こういうの嫌いそうだもんね」


 その子は悪気なく笑った。


「嫌いそう?」


「うん。なんか、レナってREADFACE切ってそう」


「切ってないけど」


「意外。切ってる人ってさ、逆にめっちゃ見られ方意識してる感じしない?」


 別の子が会話に入ってきた。


「分かる。自然体です、みたいな」


「タグ見てませんっていうタグがついてる感じ」


 何人かが笑った。


 レナは何も言えなかった。


 言い返したかった。


 でも、言い返した瞬間、自分にまた別のタグが貼られる気がした。


 意識しすぎている人。

 見られ方を気にしていないふりをして、誰よりも気にしている人。

 正しそうなことを言って、場を面倒にする人。


 そのラベルは、レナにも貼れた。


 たぶん、とても簡単に。


「レナは美術系行くなら、こういうの見た方がいいんじゃない?」


 その子は続けた。


「ポートフォリオ写真とか、面接とかあるし」


「そうかもね」


 レナは答えた。


 そうかもね。


 自分の声が、薄く聞こえた。


 休み時間、教室のあちこちで仮スキャンが始まった。


 端末を顔の前に掲げる生徒。友達同士で画面をのぞきこむ生徒。ARレンズの表示を共有して笑う生徒。すぐにメイク補正アプリを開く生徒。


 顔の話が、急に教室の中を走り回り始める。


「私、記憶保持率低いって」


「大丈夫、髪型変えたら上がるかも」


「前髪重いのかな」


「目元出した方がよくない?」


「男子もやった方がいいんじゃない?」


「いや、俺はいい」


「空欄で出すの?」


「それはそれで怖い」


 みんな笑っていた。


 でも、誰も完全には冗談にしていなかった。


 ミアはその中で、端末を開いていなかった。


 ただ、机の上に置いた学生証ケースの端を親指でなぞっていた。角をこすって、離して、またこする。


 レナはそれを見た。


「ミアは」


 声をかけてから、少し迷った。


「やらないの?」


 ミアは小さく首を振った。


「私は、もうデータあるから」


「そうなんだ」


「LUMIAのやつ、学校連携できるって」


 レナは何も言えなかった。


 学校連携。


 その言葉が、ミアの口から普通に出たことが嫌だった。


 ミアはレナを見た。


「そんな顔しないでよ」


「してない」


「してる」


「どんな顔」


 ミアは少し考えた。


「私だけ悪いことしてるみたいな顔」


 レナは黙った。


「そんな顔してない」


「うん。してないことにしとく」


 ミアはそう言って、端末を伏せた。


 その言い方は柔らかかった。


 柔らかかったのに、距離があった。


 二時間目は国語だった。


 先生が教科書を読ませて、何人かに意見を聞いた。レナは当てられなかった。ミアも当てられなかった。


 けれど、ミアが一度だけノートを落としたとき、先生はすぐに気づいて、「大丈夫?」と声をかけた。


 前なら、たぶん気づかなかった。


 少なくとも、レナはそう思った。


 昼休み前、文化祭実行委員が教室に来た。


 告知ポスターのモデル候補を探しているらしい。各クラスから何人か、写真素材を出すことになったという。


「できれば、第一印象が明るくて、記憶に残りやすい人がいいそうです」


 実行委員の女子は、少し照れたように言った。


 その言葉に、教室の何人かがミアを見た。


 ミアは一瞬だけ固まった。


「ミアちゃん、いいんじゃない?」


 誰かが言った。


「LUMIAの写真、すごかったし」


「横顔きれいだった」


「文化祭っぽくない? 大人っぽいし」


 ミアは困ったように笑った。


「え、私?」


「絶対いいよ」


「先生にも聞いてみれば?」


 実行委員の女子は、端末にメモを取った。


「じゃあ候補に入れていい?」


 ミアは少しだけレナを見た。


 その視線は、助けを求めているようにも、見ないでほしいと言っているようにも見えた。


 レナには分からなかった。


 だから何も言えなかった。


「うん。候補なら」


 ミアは答えた。


 その声は小さかった。


 でも、嫌そうではなかった。


 嫌そうではないことに、レナは傷ついた。


 そして、傷ついたことが嫌だった。


 昼休み、ミアの席の周りにはまた人が集まった。


「すごいじゃん、文化祭ポスター」


「まだ候補だよ」


「でも選ばれそう」


「READFACEのタグもいい感じだし」


「ミア、発表とかも前より落ち着いて見えるよね」


「分かる。なんか雰囲気変わった」


 ミアは一つずつ曖昧に笑っていた。


 その笑顔は、前より上手くなった気がした。頬があまり動かないぶん、目元と口元で整えるような笑い方。広告の中の笑顔ほど硬くはない。けれど、前のように顔全体が崩れる笑い方でもない。


 レナは自分の弁当を開いた。


 卵焼きが入っている。


 今日は母のものだった。少し甘い。レナはその甘さが好きだったはずなのに、噛んでも味が少し遠かった。


「レナ」


 ミアが声をかけてきた。


 人の輪が少し離れたあとだった。


「何」


「今日、小テスト返ってくるっけ」


 その話題を出されて、レナは一瞬だけ普通に戻りそうになった。


「たぶん」


「またたぶん」


「返ってこないでほしい願望が入ってる」


「それは分かる」


 ミアは少し笑った。


 その笑い方は、ほんの少しだけ昔に近かった。


 レナはその瞬間を見て、胸が苦しくなった。


 残っている。


 そう思った。


 それなのに、何が残っているのかを言葉にしようとすると、またミアをどこかへ閉じ込める気がした。


「ミア」


「ん?」


「ポスター、嫌なら断っていいと思う」


 ミアは箸を止めた。


「嫌ってほどじゃない」


「でも、困ってた」


「困ってはいたけど、嫌ではない」


 レナは黙った。


 その違いを、すぐに飲み込めなかった。


 ミアは少しだけ視線を下げた。


「見られるのは怖いよ」


 レナはミアを見た。


「でも、見られないのも、怖かったんだよ」


 その声は、とても小さかった。


 周りの声に紛れそうなくらい。


 レナは何か言おうとした。


 けれど、言葉が出る前に、昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。教室のあちこちで椅子が動き、端末がしまわれ、弁当箱のふたが閉じられる。


 ミアも弁当箱を閉じた。


 今日は、少し残していた。


 レナはそれに気づいた。


 気づいたが、何も言えなかった。


 午後の進路資料確認の時間に、仮スキャン結果の見方が配信された。


 教師は、希望者だけ画面を開いてよいと言った。


 希望者だけ。


 そう言われると、開かない人の方が目立つ。


 レナは開かなかった。


 隣の子が画面をのぞいてきた。


「レナ、ほんとにやらないの?」


「まだ」


「空欄で出すつもり?」


「分かんない」


「美術系って、そういうとこ自由でいいよね」


 その子は笑って言った。


 自由でいい。


 レナはその言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。


 自由というより、ただ面倒なだけかもしれない。怖いだけかもしれない。自分の顔に出るタグを見るのが嫌なだけかもしれない。


 いや、違う。


 嫌なのは、自分の顔に何が出るかではない。


 それを見たあとで、自分がどう振る舞うかだ。


 もし良いタグが出たら。

 もし悪いタグが出たら。

 もし、自分が嫌っているはずの仕組みから、都合よく認められたら。


 そう考えた瞬間、レナは端末を伏せた。


 見ないことは、時々とても卑怯だ。


 放課後、美術室では文化祭ポスターの話が続いていた。


 実行委員から候補写真の依頼が来ているらしく、美術部でも背景やレイアウトを考えることになった。机の上にはラフ案が何枚も広げられている。


 中央に人物を置く案。

 校舎を大きく入れる案。

 ARタグをデザインとして残す案。

 逆にタグを全部消す案。


「タグ消すと、逆に古くない?」


 部員の一人が言った。


「でも、文化祭っぽさならタグなしの方が温かいかも」


「温かいっていうか、地味」


「ミアちゃん使うなら、横顔強く見せたいよね」


「分かる。今のミア、線がきれい」


 今のミア。


 レナはラフ案を見つめた。


 紙の上に描かれた簡単な横顔。その横には、仮の文字で「Readable Festival」と書かれている。誰かがふざけて入れた英語だろう。けれど、その言葉が妙に馴染んでしまっていた。


 読まれる文化祭。


 そんなもの、嫌だと思った。


 でも、誰も嫌がっていない。


 むしろ、みんな少し楽しそうだった。


「レナはどう思う?」


 部長に聞かれた。


 レナは顔を上げた。


「タグ、いらないと思う」


「理由は?」


「文化祭のポスターにまで、顔の評価を持ち込まなくていい」


 自分の声が、少し硬くなったのが分かった。


 部室の空気が、ほんの少し静かになる。


 部長は困ったように笑った。


「評価っていうか、デザイン要素としてね」


「でも、見る人は評価として読む」


 言ってから、少し強かったと思った。


 しかし、引っ込めなかった。


 部員の一人が小さく言った。


「レナ、そういうとこあるよね」


 そういうとこ。


 それだけで済まされる感じが、レナは嫌だった。


「私は普通に嫌だよ」


 レナは言った。


「顔の横に何か出てるのも、それを綺麗にデザインっぽく扱うのも」


 誰もすぐには返さなかった。


 その沈黙に、レナは少しだけ息をしやすくなった。


 言えた。


 そう思った。


 美術室の窓の外には、夕方の光が差していた。机の上のラフ案が少しオレンジ色に染まっている。紙の中の仮の横顔が、ミアに似ているようにも、似ていないようにも見える。


「でも」


 別の部員が、少し遠慮がちに言った。


「ミアちゃん本人が嫌じゃないなら、いいんじゃない?」


 レナは答えられなかった。


 その通りだった。


 少なくとも、表面上は。


 ミア本人が嫌ではないなら、周りがどうこう言うことではない。レナだって、そう言われたら弱い。


 でも、ミアが本当に嫌ではないのか。

 嫌ではないと言えるようになってしまっただけなのか。

 嬉しい気持ちと怖い気持ちが混ざっているとき、それは同意と呼べるのか。


 言葉が、頭の中で渋滞した。


 部長が空気を変えるように手を叩いた。


「じゃあ、タグありとタグなし、両方案出そう。決めるのは実行委員と本人に確認してからで」


 それで話は流れた。


 流れたのに、レナの中では流れなかった。


 美術室を出るころ、ミアは廊下にいた。


 文化祭実行委員の子と話している。端末の画面を一緒に見て、候補写真の確認をしているようだった。


 ミアは困ったように笑っていた。


 でも、その笑顔の端には、ほんの少しだけ誇らしさがあった。


 レナはそれを見逃せなかった。


 見逃せなかったこと自体が、あまり好きではなかった。


 ミアはレナに気づくと、軽く手を振った。


「先帰る?」


「うん。今日は」


「そっか」


 それだけだった。


 前なら、もう少し何かあった。

 小テストの悪口とか、購買の新作パンとか、部活の人間関係とか、どうでもいい話が挟まった。


 でも今日は、それだけだった。


 レナは靴を履き替えて、昇降口を出た。


 夕方の空は、薄く曇っていた。ARレンズには雨雲の接近通知が出ている。明日の朝は小雨。通学時間帯に遅延の可能性あり。


 駅へ向かう途中、レナは端末を取り出した。


 学校の同意フォームをもう一度開く。


READFACE Educational Support Program

非言語印象補助分析 試験導入


利用する。

利用しない。


 その下に、小さな説明がある。


利用しない場合、一部資料の印象分析欄は空欄として表示されます。


 レナは、その文をしばらく見ていた。


 空欄。


 何も書かれていないはずの場所に、こんなにも意味が詰まっている。


 レナは端末を閉じた。


 鞄からスケッチブックを取り出し、最後のページを開く。美術室で使いかけた鉛筆が、ポケットに入っていた。


 歩道の端に立ったまま、ページの隅に小さく書いた。


空欄。


 その下に、もう一行書こうとして、手が止まる。


 タグなしで見る。


 そう書きかけて、やめた。


 まだ早い気がした。

 でも、遠くない気もした。


 駅前のスクリーンでは、LUMIAの広告が切り替わっていた。


 白い背景。

 見知らぬモデルの顔。

 金色の数字。


 街の人たちは見上げ、少しだけ足を止め、また歩き出す。


 レナはスケッチブックを閉じた。


 胸の奥で、怒りがまだ光っていた。


 祖母の言葉は、消えていない。


 でも今は、その言葉よりも、教室のスクリーンに映った「空欄」の方が強かった。


 空欄であることさえ、もう自由ではない。


 そう思った瞬間、レナの怒りは少しだけ形を持った。


 その形が、誰かを守るものなのか。


 それとも、また誰かを閉じ込めるものなのか。


 レナには、まだ分からなかった。

お読みいただきありがとうございます。

6話以降は毎日19時に投稿する予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ