第4話 ラベルを縫った手
レナは、ミアと一緒に帰らなかった。
いつもなら、昇降口でなんとなく待つ。特に約束していなくても、靴を履き替えるタイミングが合えば一緒に帰るし、合わなければ端末に「先行く」とだけ送る。そのくらいの軽さで、二人の放課後はできていた。
でも、その日は何も送れなかった。
ミアも何も送ってこなかった。
それが答えのように思えて、レナは端末を鞄の奥にしまった。しまったあとで、通知が来ていないか気になって、また取り出した。画面は黒いままだった。
黒い画面には、自分の顔が薄く映っている。
何かを言い損ねた顔。
レナはそれを見たくなくて、また端末をしまった。
学校から駅までの道は、夕方の生徒で混んでいた。制服の背中、部活バッグ、笑い声、コンビニの前で立ち止まる人、ARレンズ越しの経路案内。いつもと同じものが、いつもより少しだけ離れて見える。
前を歩く女子二人が、LUMIAの話をしていた。
「ミアちゃん見た?」
「見た。めっちゃ変わってた」
「でも可愛かったよね」
「うん、なんかちゃんと見える顔になった」
ちゃんと見える顔。
その言葉が、レナの耳の奥に引っかかった。
ちゃんと見えていなかったのは誰なのか。ミアなのか、周りなのか、それとも自分なのか。考えようとして、うまく考えられなかった。
端末が震えた。
レナは反射的に取り出した。
ミアではなかった。
美術部のグループ通知だった。文化祭ポスターのデータ確認。誰かがラフ案を上げて、誰かが「いい感じ」と返している。普段なら、レナも何か言ったと思う。配色が少し軽いとか、タイトルの位置が上すぎるとか、そういう面倒なことを。
でも、今は文字が目の上を滑っていくだけだった。
画面を閉じようとして、レナは指を止めた。
検索欄に、LUMIA CLINICの名前を入れる。
入れなくても、候補はすぐに出てきた。朝から何度も開かれているのだろう。学校の中でも、駅前でも、誰かがその名前を見ていた。
公式アカウントを開く。
白い背景。
金色のロゴ。
整いすぎた笑顔。
そして、ミアの写真。
New Sculpted Muse : MIA(新たな彫刻的ミューズ:MIA)
Softness Removed. Identity Revealed.(柔らかさを取り除き、真の輪郭を解放)
反応の数は、放課後に見たときより増えていた。
コメントも増えている。
「輪郭きれい」
「一気に大人っぽくなった」
「これは成功」
「前も可愛いけど、今の方が映える」
「LUMIA行きたい」
「柔らかさ消すだけでこんな変わるんだ」
「本来の美人感が出た」
本来の。
レナはその言葉を見て、画面を閉じた。
胸の奥が冷える。
でも、それはコメントが気持ち悪かったからだけではなかった。
写真の中のミアは、綺麗だった。
それを否定できないことが、一番嫌だった。
頬の丸みが減って、顔の線が強くなっている。目元は前より少し大人びていて、広告の白い背景からちゃんと浮いて見える。見られるために置かれた顔。選ばれるために調整された顔。
そして、実際に選ばれている。
レナは歩道の端で立ち止まった。
夕方の風が、スカートの裾を少し揺らす。駅前のスクリーンには、また別の広告が流れていた。人の顔。商品の顔。都市の顔。どれも少し光りすぎていて、どれも見てほしそうだった。
レナは端末を鞄にしまった。
しまうとき、指が少しだけ震えた。
家に帰ると、玄関に祖母の靴があった。
黒い、柔らかそうな靴だった。祖母はもう遠くへ出かけることは少ないけれど、近所の商店街や病院へ行くときだけ、その靴を履く。レナが小さいころは、祖母の靴音で機嫌が分かった。急いでいる日、疲れている日、誰かに腹を立てている日。
今日は、たぶん普通の日だった。
「ただいま」
レナが言うと、台所から「おかえり」と返ってきた。
出汁の匂いがした。
味噌汁だ、と思った。たぶん豆腐とわかめ。祖母の味噌汁は、いつも少しだけ薄い。母は「健康にはいい」と言うけれど、レナはたまにこっそり七味を足す。
靴を脱いでいると、祖母が台所から顔を出した。
「遅かったわね」
「普通」
「普通の顔じゃないけど」
レナは鞄を持ち直した。
「顔の話、今あんまりしたくない」
祖母は少しだけ眉を上げた。
「それはまた、ずいぶん限定的な嫌がり方ね」
「別に」
「ごはん、食べる?」
「いらない」
祖母は、ふっと笑った。
「それ、いちばん信用できない返事」
「何が」
「いらないって言う子ほど、あとで台所に来るのよ」
「来ないし」
「じゃあ、味噌汁だけ置いておくわ」
祖母はそう言って、台所へ戻った。
レナは少しだけ困った。
こういう言い方をされると、怒る場所がなくなる。心配しているようで、心配を押しつけない。聞いているようで、まだ聞かない。祖母はそういう距離の取り方がうまい。
うまいから、時々ずるい。
レナは自分の部屋へ行き、鞄を床に置いた。
制服のままベッドに座る。
端末を取り出す。
ミアとのチャット画面を開いた。
最後のやり取りは、土曜日のままだった。
終わった。
おつかれ。
それだけ。
その下に、何か打とうとした。
今日、ごめん。
違う気がして消した。
さっきの言い方、悪かった。
それも違う気がした。
ミア。
名前だけ打って、しばらく見ていた。
送れなかった。
名前だけ送られても、ミアは困る。たぶん、「何」と返してくる。そうしたら、レナは何を言えばいいのか分からない。
端末を伏せる。
黒い画面に、部屋の天井が薄く映った。
そのとき、ドアの外から祖母の声がした。
「レナ、カーディガンの袖、ほつれているでしょう」
レナは自分の袖を見た。
本当だった。
グレーのカーディガンの袖口から、糸が少しだけ出ている。いつからだっただろう。たぶん美術室で机に引っかけたのだと思う。
「後でやる」
「後でやる人は、だいたい広げるわよ」
「おばあちゃん、今日そういうの多くない?」
「年を取ると、同じことを言うのが仕事になるの」
レナは少しだけ笑ってしまった。
笑ったら、負けた気がした。
カーディガンを脱いで廊下へ出ると、祖母は居間の隅に裁縫箱を出していた。古い木の箱で、ふたの角が少し丸くなっている。レナが小さいころから同じ場所にあった箱だ。
祖母は針に糸を通していた。
手元だけを見ると、年齢が分かる。指の節は少し太く、爪は短い。けれど、糸を持つ動きは驚くほど迷いがなかった。細い白い糸が、針穴にすっと入る。
「貸して」
祖母が手を出した。
レナはカーディガンを渡した。
祖母は袖口を広げ、ほつれた糸を指先で軽く撫でる。そこだけを見る目が、少しだけ鋭くなる。普段の祖母の目ではない。何かの線を見ている人の目だった。
「これ、まだ大丈夫。切らずに戻せる」
「切った方が早くない?」
「早いけど、跡が残るわ」
祖母はそう言って、針を動かし始めた。
小さな縫い目が、袖口の裏側に入っていく。
レナはその手元を見ていた。
昔から、祖母はこういうことをする人だった。制服のボタンが取れたとき、スカートの裾が少しほつれたとき、レナが雑に扱って折れたバッグの飾り紐を直すとき。祖母は怒らず、ただ「貸して」と言って直した。
直せるものは直す。
直せないものは、別の形にする。
そういう人だと思っていた。
「友達とけんかした?」
祖母が言った。
レナは少し肩を動かした。
「してない」
「してない顔じゃないわね」
「みんな顔を見るのやめてくれないかな」
「それは無理ね。人は顔を見るものだから」
祖母は針を止めずに言った。
「だから困るんだけど」
「そうね」
軽く返されたので、レナは少し腹が立った。
「そうね、って」
「困るでしょうね」
「他人事みたい」
「他人事ではあるもの」
祖母は糸を引いた。
袖口の布が、少しだけ元の形へ戻る。
「でも、他人事だから見えることもあるわ」
レナは黙った。
言いたくない、と思っていた。けれど、言いたくないと思うほど、言葉は喉の近くまで来てしまう。
祖母は急かさなかった。
その沈黙が少しずるかった。
「友達が」
レナはようやく言った。
「顔を変えた」
祖母の手は止まらなかった。
「そう」
「美容医療。LUMIA」
「駅前の白いところ?」
「知ってるの?」
「広告は見るわ。見たくなくても、あれは大きいもの」
祖母は針を布の裏側へ通した。
「その子は、自分で決めたの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「親の同意もあったし、クリニックの説明もあったし、本人も納得してるみたいだった。でも」
レナは言葉を探した。
でも、何なのか。
ミアは無理やり連れて行かれたわけではない。ミアは自分で予約して、自分で質問して、自分で選んだ。痛いか、費用はいくらか、学校にいつ戻れるか。レナよりずっと現実的に聞いていた。
それなのに、レナはまだ納得できない。
「前の顔の方が、ミアだった」
言ってから、胸の奥が嫌な音を立てた。
祖母の手が、そこで止まった。
「ミアちゃん、というのね」
「うん」
「前の顔の方が、その子だった」
祖母は、レナの言葉をゆっくり繰り返した。
繰り返されると、少し違って聞こえる。
自分が言ったときより、ずっと勝手な言葉に聞こえた。
「……そういう意味じゃない」
「どういう意味?」
「そのままの方がよかったっていうか、柔らかくて、よく笑って、ちょっと野暮ったくて、でもそれがミアらしくて」
「らしくて」
祖母は短く言った。
責める声ではなかった。
だから、余計に刺さった。
レナは唇を噛んだ。
「LUMIAは、それを重いとか、幼いとか、未完成とか言ったんだよ」
「ひどい言葉ね」
「そうでしょ」
「ええ」
祖母は頷いた。
その頷き方は、レナが期待していたほど強くはなかった。
「何」
「何が?」
「なんか、ちゃんと怒ってない」
「怒るには、少し遠いから」
「遠い?」
「私は、その子の顔を知らないもの」
レナは言葉に詰まった。
祖母はまた針を動かし始めた。
部屋には、糸が布を通る小さな音だけが残った。窓の外では、近所の子どもが誰かを呼んでいる。台所の鍋が、弱い火で小さく鳴っている。家の中は、いつも通りだった。
いつも通りなのに、レナだけが少しずつ置き場所を失っていく。
「私、間違ってる?」
レナは聞いた。
祖母はすぐには答えなかった。
糸を引き、縫い目を整え、布を裏返して確認する。それから、ようやく言った。
「その聞き方をする時点で、少し危ないわね」
「何それ」
「正しいって言ってほしいときの顔をしている」
レナはむっとした。
「また顔」
「そう。顔」
祖母は淡々と言った。
「あなた、今、世界が間違っていて、自分だけが気づいている顔をしている」
レナは何も言えなかった。
その言葉は嫌だった。
嫌だったが、どこかで聞いたことがある気もした。ミアが言った言葉と、少し似ている。
自分だけが本物を見えてるみたいな顔。
その二つが、胸の奥で重なった。
「じゃあ、ミアは悪くないの?」
レナは少し強い声で言った。
「私はそんなこと言っていないわ」
「でも、そう聞こえる」
「あなたがそう聞きたいんじゃない?」
「違う」
「違うなら、少し落ち着きなさい」
祖母の声は大きくなかった。
でも、低かった。
レナは黙った。
祖母はカーディガンの袖口を膝の上で整えた。ほつれた糸はもう目立たない。けれど、祖母はまだ裏側の縫い目を確認している。
「昔ね」
祖母が言った。
「私は、舞台衣装を作っていたの」
「知ってる」
「知っているのと、聞くのは違うでしょう」
レナは黙った。
祖母は続けた。
「若い女優さんや、ダンサーさんや、歌い手さんの衣装を作った。腰が細く見える線、首が長く見える襟、脚がまっすぐ見える切り替え、顔が小さく見える肩の位置。そういうものを毎日考えていたの」
祖母の声は、懐かしそうでもあり、少し苦そうでもあった。
「綺麗だった?」
レナが聞くと、祖母は頷いた。
「綺麗だったわ。とても。舞台の光が当たると、布はただの布ではなくなるの。ほんの少しの影で腰の位置が変わって見えたり、襟の角度で顔の印象が変わったりする。人間の身体って、こんなに線で変わるのかと思った」
祖母の指が、カーディガンの袖口を撫でた。
「私は、それが好きだった。美しい線を作るのが好きだったの」
レナは、祖母の横顔を見た。
祖母の顔には、ARタグは出ていない。家の中では、レナは公共タグレイヤーを切っている。見えないだけで、もしオンにすれば何か出るのかもしれない。Age Grace(年齢の品位)とか、Low Market Appeal(市場訴求力低下)とか、そんな失礼な言葉が。
考えただけで嫌だった。
祖母は、少しだけ笑った。
「でもね、美しい線を作るというのは、その人の身体に、他人の目を縫いつけることでもあったの」
レナは息を止めた。
「他人の目を」
「そう。もっと細く見えるように。もっと若く見えるように。もっと清楚に見えるように。もっと強く、もっと儚く、もっと選ばれやすく。私は布を縫っているつもりだったけれど、縫っていたのは、そういう視線だったのかもしれない」
祖母は針を持ち上げた。
細い針先が、部屋の光を少しだけ拾った。
「ある女優さんがいたわ。まだ二十歳くらいで、とてもよく笑う子だった。頬がふっくらしていて、笑うと目が細くなって、舞台裏ではお菓子をよく食べていた」
レナは何も言わなかった。
ミアに似ている、と思った。
そう思うことさえ、少し怖かった。
「でも、役が変わった。大人の女の役だった。私は、彼女の身体が大人っぽく見えるように衣装を作った。胸元の影、腰の位置、顔の横に落ちる布の線。とても評判がよかった。演出家も、写真家も、観客も、彼女を急に大人になったと言った」
祖母はそこで、少し長く黙った。
「彼女は喜んでいたの?」
レナが聞いた。
「最初はね」
祖母は答えた。
「でも、そのあと彼女は、舞台の外でもその線に合わせようとした。食事を減らして、笑い方を変えて、頬を隠すようになった。私が作った衣装の中では美しく見えた線を、自分の身体そのものにしようとした」
レナの手が、膝の上で少し強く握られた。
「おばあちゃんのせいじゃないでしょ」
言ってから、レナは自分の声が少し必死になっていることに気づいた。
祖母は、レナを見た。
「そう言ってもらえると、楽ね」
「実際、そうじゃん。衣装を作っただけで」
「そう。私は衣装を作っただけ」
祖母は静かに言った。
「LUMIAも、たぶんそう言うでしょうね。私たちは選択肢を提示しただけです、と」
レナは黙った。
「同じじゃない」
「同じではないわ」
祖母はすぐに言った。
その返しの早さに、レナは少しだけ救われた。
「顔を削ることと、布を縫うことは違う。今の技術と昔の舞台衣装も違う。あなたのお友達が受けたものと、私がしていた仕事を同じだと言うつもりはないの」
祖母はカーディガンをたたみ直した。
「でも、人を見る目に、形を与えるという意味では、近いところがある」
レナは祖母の手元を見た。
その手は、今レナのほつれた袖を直した手だった。
同じ手が、昔、誰かの身体に他人の目を縫いつけていた。
「私は、美を作っているつもりだった」
祖母は言った。
「でも、今になって思うの。私は、美を作っているつもりで、ラベルを縫っていたのかもしれない」
部屋の中が、少しだけ静かになった。
ラベルを縫う。
画面の中に浮かぶものではなく、布の中に、線の中に、誰かの身体の上に。
レナは、自分の胸のあたりがゆっくり冷えていくのを感じた。
でも、それでも。
「でも、やっぱり違うよ」
レナは言った。
祖母はレナを見た。
「違う?」
「おばあちゃんの話は分かる。たぶん、分かる。でも、LUMIAはもっと直接じゃん。数字を出して、タグを貼って、ミアに足りないって言って、削らせた。市場で読まれやすい顔とか、認識効率とか、そんな言い方して」
言葉が少しずつ早くなる。
「ミアは傷ついたんだよ。あのタグを見て、ご飯を残すようになって、頬が重いって言って、それで本当に顔を変えたんだよ。私は、それを見てた。見てたのに止められなかった」
祖母は黙って聞いていた。
「それを、私もラベルを貼ってるとか、昔の衣装と近いとか、そういうふうに同じ箱に入れられたくない」
「同じ箱には入れていないわ」
「でも、近いって言った」
「近いところがあると言っただけ」
「その近いが嫌なの」
レナは、自分でも子どもみたいな言い方だと思った。
でも、止まらなかった。
「私が怒ってるのは、たぶん間違ってない」
祖母は少しだけ目を細めた。
「そうかもしれない」
「かもしれない?」
「怒りは間違っていないこともあるわ。でも、怒っている人がいつも正しいとは限らない」
レナは黙った。
その言葉は分かる。
分かるが、今は受け取りたくなかった。
祖母は直したカーディガンをレナの膝に戻した。袖口はきれいに直っている。表から見れば、どこがほつれていたのかほとんど分からない。
「直ってる」
レナが言うと、祖母は少し笑った。
「完全には戻っていないわよ」
「分からないけど」
「分からないようにしただけ」
祖母はそう言った。
その言葉が、妙に重かった。
分からないようにすることと、なかったことにすることは違う。
傷も、縫い目も、見えなくなれば消えるわけではない。
レナは袖口を指でなぞった。
「ミアに、何て言えばいいと思う?」
気づくと、そう聞いていた。
祖母は、少し考えた。
「分からないわ」
「おばあちゃんでも?」
「おばあちゃんでも」
「役に立たない」
「そうね」
祖母はあっさり認めた。
「私は答えを持っている人間じゃないもの。失敗したことを、少し覚えているだけ」
レナはカーディガンを握った。
「じゃあ、私はどうすればいいの」
「それを私に聞いている間は、たぶんまだ言わない方がいい」
「何で」
「私の言葉で謝っても、その子には届かないでしょう」
謝る。
その言葉に、レナは少しだけむっとした。
自分は今、謝る話をしていたのだろうか。
謝った方がいいのは分かっている。失敗したのも分かっている。けれど、ミアが傷ついたのはレナのせいだけではない。LUMIAのタグがあって、READFACEがあって、教室の視線があって、広告の数字があって、それら全部がミアを押した。
その大きなものを前にして、自分だけが「ごめん」と言って終わるのは、何か違う気がした。
違う。
たぶん違う。
「ごはん、温め直す?」
祖母が言った。
「今その話?」
「その話。お腹が空いたまま考えると、だいたい悪い方へ行くから」
レナは少しだけ息を吐いた。
「味噌汁だけ」
「ほらね」
「言わないで」
祖母は笑って、台所へ向かった。
レナは居間に残った。
直されたカーディガンを膝の上に置いたまま、しばらく袖口を見ていた。表からは分からない。けれど、裏を返せば縫い目がある。祖母の手が通った跡がある。
それは直した跡だった。
でも、同時に、変えた跡でもあった。
レナは端末を手に取った。
ミアとのチャット画面を開く。
まだ、最後のやり取りは土曜日のままだった。
終わった。
おつかれ。
その下に、ゆっくり文字を打つ。
今日、言い方が悪かった。ごめん。
少し考えて、消した。
ミアの顔を、本物とか偽物みたいに言ってごめん。
それも、少し違う気がした。
消す。
ミア。
名前だけ残った。
レナはしばらく、その二文字を見ていた。
送信ボタンは、すぐ右にある。ほんの少し指を動かせば届く。届いたら、ミアは読む。読んで、何かを思う。怒るかもしれない。無視するかもしれない。いつものように「何」と返してくるかもしれない。
どれも怖かった。
レナは結局、送らなかった。
端末を伏せる。
台所から、味噌汁の温まる音が聞こえた。祖母が茶碗を出している。湯気の匂いが、少しずつ居間まで届く。
レナはカーディガンの袖口を、指でそっとなぞった。
祖母の言葉は、胸の奥に残っていた。
私は、美を作っているつもりで、ラベルを縫っていた。
たぶん、忘れられない言葉になる。
でも、それでもレナには思えた。
LUMIAがしていることと、祖母がしていたことは違う。
ミアが傷つけられたことまで、昔の衣装や美しい線の話と同じ箱に入れられてたまるかと思った。
その怒りは、まだ熱かった。
熱いものは、暗い場所でよく光る。
レナはその光を、自分の中で正しさと呼びたくなった。
それがもう、次のラベルになり始めていることには、まだ気づかなかった。




