表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/13

第3話 正しいつもりの人


 ミアは、白い封筒を持ち歩くようになった。


 LUMIA CLINICでもらった資料の封筒だった。


 放課後に受け取ったそれを、ミアは翌朝も、その次の日も、バッグの中に入れていた。しまっているつもりなのだろうけれど、教科書を出すときや端末を取り出すとき、白い角だけが少し見えた。


BECOME READABLE.(読まれる顔へ)


 金色の文字は、朝の教室の中でも目立った。


 レナは見ないようにした。


 でも、見ないようにしているものほど、視界の端に残る。


「そんなに気になる?」


 ミアが言った。


 一時間目の前だった。ミアは机の横にバッグを置き、そこから数学のノートを出そうとしていた。白い封筒の角が、また少しだけのぞいている。


「何が」


「封筒」


「別に」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「レナ、嘘つくとき目が忙しい」


「何それ」


「右上見て、左下見て、最後に机を見る」


 ミアはそう言って、少し得意そうにした。


 レナは反射的に机を見そうになって、途中でやめた。

 ミアが笑う。


 その笑い方は、いつものミアだった。


 少しだけ安心した。


 安心したあとで、その安心が何に対するものなのか分からなくなった。ミアがまだ変わっていないことに安心したのか。白い封筒がただの封筒で終わるかもしれないことに安心したのか。あるいは、自分がまだ何も失っていないと思いたかっただけなのか。


 どれも少しずつ違って、どれも少しずつ当たっている気がした。


「まだ考えてるだけだよ」


 ミアはノートを机に置きながら言った。


「何も言ってない」


「言ってる顔してた」


「顔ばっかり見ないでよ」


「この話でそれ言う?」


 ミアはそこで少し笑った。


 レナも、少しだけ笑った。


 笑ったら、いつもの朝みたいになりかけた。

 けれど、ミアがバッグのファスナーを閉めるとき、白い封筒の角を内側へ押し込んだので、それはすぐに終わった。


 封筒が消えただけで、何かが隠されたように見えた。


 一時間目は数学だった。


 黒板に書かれた式を、先生がいつもの早さで説明していく。レナはノートを取っていたが、途中で何度かミアの横顔を見てしまった。ミアは真面目に授業を聞いている。シャープペンの芯が折れると、少しだけ眉を寄せて、筆箱の中を探した。


 その仕草はいつも通りだった。


 でも、レナには少し違って見えた。


 ミアが変わったわけではない。

 見る側のレナが、勝手に先を見てしまっている。


 まだ削られていない頬。

 まだ細くなっていない顎。

 まだ、前のままの横顔。


 そう思った瞬間、レナは自分が嫌になった。


 前のまま。


 その言い方は、もうミアを過去のものとして扱っている。


「レナ」


 ミアが小声で言った。


「何」


「そこ、答え違う」


 ミアはレナのノートを指差した。


 本当だった。


 レナは分数の符号を間違えていた。


「めずらし」


 ミアが言った。


「うるさい」


「私の方が今賢い」


「今だけね」


「ひど」


 小さなやり取りだった。


 それでも、少し息がしやすくなった。


 昼休みになると、ミアの封筒はまた少しだけ姿を見せた。


 ミアが購買で買ったサンドイッチをバッグから出すとき、白い角が一緒に引っかかって出てきたのだ。


「あ、それ」


 隣の席の女子が気づいた。


 声が少し高かった。


「LUMIA?」


 ミアの手が止まる。


 ほんの一瞬だった。


 それから、いつもの笑い方を作った。


「相談行っただけ」


「え、いいな。どうだった?」


「綺麗だった。病院っていうより、ホテルみたい」


「やっぱ高い?」


「プランによるっぽい」


「学生割あるってほんと?」


「たぶん。学校提携のやつ」


 言葉があっという間に集まってくる。


LUMIA。

学生割。

カウンセリング。

自然に馴染む。

腫れにくい。

アンバサダー候補。


 ひとつひとつの言葉は軽かった。


 軽いから、机の上にいくつも置けた。


 レナは弁当の卵焼きを箸でつまんだまま、その会話を聞いていた。卵焼きは少し甘い。母が作る卵焼きはいつも少し甘くて、レナはそれが嫌いではない。けれどその日は、味が遠かった。


「怖くないの」


 気づいたときには、言っていた。


 声は大きくなかった。

 でも、会話はそこで止まった。


 ミアではなく、隣の女子がレナを見た。


「何が?」


「顔を変えること」


「え、でも整えるだけでしょ」


 その言い方には、悪意がなかった。


 悪意がない言葉は、時々いちばん遠くまで行く。


「歯列矯正とか、メイクとか、姿勢改善と同じじゃない?」


「同じかな」


 レナが言うと、その子は少しだけ困った顔をした。困らせたのはレナの方だった。


 その横に、ARタグが浮いている。


Open Expression(開かれた表情)

Social Smoothness(対人印象のなめらかさ)


 なめらかに生きる顔。


 そんな言葉が、レナの頭の中に勝手に浮かんだ。


「レナはさ」


 ミアが静かに言った。


「怖いと思うなら、しなければいいんじゃない」


 教室の空気が、少しだけ固くなった。


 ミアは責めるようには言わなかった。

 ただ、線を引いた。


 私の顔と、あなたの顔。


 レナはその線を越えられなかった。


「……そうだね」


 それしか言えなかった。


 ミアはサンドイッチを持ち直した。


 そして、端のパンを少しだけ残した。


 午後の授業は、現代社会だった。


 第5世代AGIの社会参加についての小テストが返ってきた。レナは八十二点だった。ミアは九十一点だった。


「いいじゃん」


 レナが言うと、ミアは少しだけ笑った。


「こういうのは得意」


「こういうのって」


「正解があるやつ」


 レナは返事に詰まった。


 授業では、AGIの法的地位がまだ完全には定まっていないこと、労働権や責任能力について議論があること、第4世代AGIの生体部品問題が第5世代で大きく改善されたことが説明されていた。


 でも、教室の生徒たちにとって、その話は少し遠かった。


 駅員AGIがいる。

 受付AGIがいる。

 家庭教師AGIがいる。

 コンビニで袋を渡してくれるAGIがいる。


 それだけで、日常はだいたい足りてしまう。


 遠い問題は、テストになると答えられる。

 近い問題は、目の前にあっても分からない。


 レナは、ミアの横顔を見た。


 ミアは答案用紙を丁寧に折って、バッグにしまった。

 そのバッグの中には、白い封筒がある。


 三日目の朝、ミアのARタグが増えた。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)

Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)

LUMIA Candidate : Pending(LUMIA候補:保留中)


 Pending。


 保留中。


 ミアがまだ決めていないことまで、街はタグにしていた。


 レナはそれを見て、見なかったことにしようとした。


 できなかった。


 ミアも、自分の横に何が出ているか知っているはずだった。けれど、その日は一度もその話をしなかった。


 放課後、二人は美術室に残った。


 他の部員は、文化祭のポスターの相談で少し騒がしかった。誰をメインに載せるか、どの構図が映えるか、READFACEのタグ表示を切るか残すか。そんな話が、絵の具のにおいと一緒に部屋の中に漂っている。


 ミアは窓際の椅子に座って、端末を見ていた。


 レナはスケッチブックを開いていたが、何も描けていなかった。


「予約した」


 ミアが言った。


 レナは、すぐには意味が分からなかった。


 分からなかったふりをしただけかもしれない。


「何を」


「LUMIA」


 窓の外では、夕方の光がビルの間に沈んでいた。美術室の白い壁が、少しだけオレンジ色に見える。


「カウンセリングの続き?」


「施術」


 レナは黙った。


 ミアは早口になった。


「大きいやつじゃないよ。頬と顎のラインだけ。切るっていうか、調整。腫れも少ないって。週末にやれば、月曜にはたぶん平気だし」


「月曜に平気なら、いいの?」


 レナの声は、自分でも嫌になるくらい冷たかった。


 ミアは目を伏せた。


「そういう言い方しないで」


「ごめん」


 すぐに謝った。


 謝ったが、言葉は戻らなかった。


 ミアは白い封筒を膝の上に置いた。封筒の端を、親指でなぞっている。まっすぐな紙の端を、何度も何度も。緊張しているとき、ミアはいつも何かの端を触る。


 ノートの端。

 学生証ケースの角。

 紙コップの飲み口。

 それから今は、白い封筒。


「私、誰かの目に止まりたいだけなんだと思う」


 その声は、小さかった。


 美術室の奥では、誰かが笑っている。廊下からは運動部の掛け声が聞こえる。校内案内AGIが、落とし物の案内をやわらかく読み上げている。


 その中で、ミアの声だけが少し沈んでいた。


「背景みたいなの、嫌なんだよ」


 レナはミアの顔を見た。


 ミアの横には、Low Memorability(記憶されにくい顔)が浮いている。


 礼儀正しく。

 静かに。

 本人の価値を否定するものではありません、という顔で。


 レナはそれを消したかった。


 ARレンズを切れば、自分の視界からは消える。


 でも、ミアの世界からは消えない。


「私は、ミアの顔、ちゃんと覚えてるよ」


 やっと言えた言葉が、それだった。


 ミアは少し笑った。


「レナ一人に覚えられてても、世界には残らないよ」


 レナは何も言えなかった。


 それは正しいのかもしれない。


 正しくないのかもしれない。


 どちらにしても、ミアがそれを言うまでの時間を、レナは止められなかった。


 施術の日は、土曜日だった。


 レナは付き添わなかった。


 ミアに頼まれなかったからだ。


 頼まれなかったことに、少し傷ついた。傷ついたことに、さらに腹が立った。自分は何を期待していたのだろう。止める役。理解者。最後まで見届ける友達。あるいは、失われる前のミアの顔を覚えている証人。


 どれも、少しずつ気持ち悪かった。


 昼過ぎ、ミアから短いメッセージが来た。


終わった。


 それだけだった。


 レナは端末を見つめた。


 痛い?

 大丈夫?

 後悔してない?

 写真送って。


 いくつも言葉が浮かんだ。


 どれも違う気がした。


 結局、こう返した。


おつかれ。


 既読はすぐについた。


 返事はなかった。


 月曜日、ミアは学校に来なかった。


 火曜日も来なかった。


 水曜日の朝、ミアは教室に入ってきた。


 最初に気づいたのは、レナではなかった。


「ミア?」


 誰かが言った。


 教室の空気が、一瞬だけ止まる。


 それから、音が戻った。


「え、すごい」

「めっちゃ大人っぽい」

「顔ちっさ」

「雰囲気変わった」

「かわいいっていうか、綺麗」

「どこでやったの?」


 ミアは笑った。


 その笑顔は、前より細かった。


 頬の丸みが減っていた。顎の線がすっきりしていた。目元の印象も、メイクのせいか少し強く見えた。腫れは、たぶん残っている。でも、メイクとAR補正がそれを綺麗に隠していた。


 ミアの横に浮かぶタグも、変わっていた。


Refined Contour(洗練された輪郭)

Mature Impression(成熟した印象)

Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)


 Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)は消えていた。


 レナは、その消えた場所を見てしまった。


 タグが消えたのに、そこに前のタグの跡が残っているように見えた。


 ミアはレナの席まで来た。


「おはよ」


「おはよう」


 声は普通だった。


 でも、二人とも普通の顔を作っているだけだった。


「変?」


 ミアが聞いた。


 レナはすぐに答えられなかった。


 変。

 綺麗。

 怖い。

 痛そう。

 前の方が好き。

 ミアじゃないみたい。

 でも、ミアだ。


 言葉が多すぎて、一つも出てこない。


「まだ腫れてる?」


 レナは、いちばん安全そうな言葉を選んだ。


 選んだ瞬間、失敗したと思った。


 ミアの目が少しだけ冷えた。


「うん。まだ途中」


 途中。


 その言葉に、レナは小さく息をのんだ。


 顔に途中がある。


 完成がある。


 その考え方が嫌だった。


 でも、ミアはもうその中にいる。


 午前の授業中、レナは何度もミアの横顔を見た。


 ノートを取る手。

 少し細くなった顎。

 前より影の深い頬。

 笑う前に一度、口元を確認する癖。


 ミアは変わっていた。


 けれど、全部が変わったわけではなかった。


 シャープペンの芯が折れると、ミアは一瞬だけ子どもみたいな顔をした。消しゴムを落として、拾おうとするときに机へ額をぶつけそうになった。先生に当てられて、答えが分からないとき、耳が赤くなった。


 残っている。


 そう思った。


 けれど、何が残っているのかを名前にしようとした瞬間、それもまたラベルになる気がした。


 昼休み、ミアの席の周りには人が集まった。


「痛かった?」

「親、反対しなかった?」

「LUMIAって未成年でもいけるの?」

「私も頬気になるんだよね」

「先生にバレる?」

「てか、前もかわいかったけど、今の方が垢抜けた」


 ミアは一つひとつに答えていた。


 痛みは思ったより平気。親は最初だけ心配した。未成年は同意がいる。学校提携だと説明が早い。腫れはメイクで隠せる。


 説明するたびに、ミアの声は少しずつなめらかになった。


 なめらかになるほど、レナは遠く感じた。


 ミアは、自分の変化を語る言葉を覚え始めている。


 頬を削ったこと。

 顎を整えたこと。

 腫れが引けば自然になること。

 まだ完成ではないこと。


 完成ではない。


 その言葉がまた出てきた。


 レナは弁当箱を開けた。


 ミアは、今日はちゃんと食べていた。


 小さく切ったサンドイッチを、ゆっくり口へ運んでいる。


 食べている。


 それなのに、なぜか前より安心できなかった。


 放課後、ミアはレナに端末を見せた。


「これ、見て」


 画面には、LUMIA CLINICの公式アカウントが開かれていた。


 白い背景。

 ミアの横顔。

 整った頬の影。

 薄く笑う口元。


 写真の中のミアは、学校にいるミアよりも、さらに完成して見えた。


New Sculpted Muse : MIA(新たな彫刻的ミューズ:MIA)

Softness Removed. Identity Revealed.(柔らかさを取り除き、真の輪郭を解放)


 投稿には、すでに何万もの反応がついていた。


「ねえ、すごくない?」


 ミアの声は震えていた。


 嬉しさなのか、不安なのか、レナには分からなかった。

 たぶん、本人にも分からなかった。


「これ、いつ撮ったの」


「施術前と後。カウンセリングのときに、アンバサダー候補の説明があって」


「載せるの、決めてたの?」


「うん。割引になるし、もし反応よかったら次の案件もあるって」


 案件。


 その言葉は、ミアの口から出るには少し早い気がした。


 でも、もう出てしまった。


 レナは画面を見る。


 写真のミアは美しかった。


 そう認めるのが嫌だった。


 嫌なのに、目が離れない。


 頬の丸みが消えたことで、顔全体の線が強くなっている。目元の印象も深くなっている。前より、確かに見られやすい。


 それは、ただの失敗ではなかった。


 だから、レナは苦しかった。


「Identity Revealedって、どういう意味?」


 レナは聞いた。


 ミアは少しだけ明るい顔をした。


「本当の私が出たってことじゃない?」


 その言葉を聞いた瞬間、レナの中で何かが冷えた。


 本当の私。


 出た。


 削ったあとに。


「本当のミアは、削らないと出てこなかったの?」


 言ってから、失敗したと思った。


 でも、遅かった。


 ミアの顔から笑みが消えた。


 教室の端で、まだ数人が話している。窓の外では、部活へ向かう生徒の足音が続いている。校内案内AGIが、明日の健康診断について淡々と放送している。


 その全部が遠くなった。


「レナってさ」


 ミアは静かに言った。


 少し間が空いた。


「たまに、自分だけが本物を見えてるみたいな顔するよね」


 レナは言い返せなかった。


 その言葉は刺さった。


 なぜなら、少しだけ本当だったからだ。


 ミアは端末を伏せた。


 画面が黒くなる。


 黒い画面の中に、二人の顔が薄く映った。


 ミアの新しい顔。

 レナの、何かを言い損ねた顔。


 ARレンズは、そこに何もタグを出さない。


 ただ、レナには見えていた。


 自分の顔の横に、まだ名前のついていないラベルが浮かんでいる。


正しいつもりの人。


 そう読めた。


 ミアは席を立った。


「ごめん。今の、忘れて」


 忘れられるわけがなかった。


 レナは、伏せられた端末の黒い画面を見つめていた。


 そこにはもう、LUMIAの投稿も、Beauty Index(美的印象指数)も、タグも映っていない。


 ただ、自分が言った言葉の形だけが、いつまでも残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ