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第2話 相談だけ


「相談だけだから」


 ミアは、次の日の朝にもそう言った。


 下駄箱の前でローファーを脱ぎながらだった。片足立ちになったミアが少しふらついて、靴箱の端に手をつく。バッグについた小さなチャームが、ころん、と軽い音を立てた。


 いつもなら、そこでレナは笑っていたと思う。


 危な、とか、朝から忙しいね、とか、そういうどうでもいいことを言って、ミアが「うるさい」と返して、それで終わる。二人の朝は、だいたいそういう小さなやり取りでできていた。


 でも、その日はうまく笑えなかった。


 昨日の放課後、美術室でLUMIA CLINICからの通知を見たあと、ミアはしばらく黙っていた。画面の下には小さく予約ボタンが出ていて、レナはそれを見なかったことにしようとしたけれど、ミアの指は、まだ画面の上に残っていた。


 それから、ミアは言った。


 相談だけなら、行ってみてもいいかな。


 その言葉は、夜になってもレナの中に残っていた。軽い言葉のはずなのに、寝る前に思い出すと、布団の中で少しだけ胸が重くなった。


「相談だけ」という言葉は、思ったより便利だった。口に出すと、まだ何も決めていないように聞こえるし、まだ引き返せる場所に立っているようにも聞こえる。ミアもたぶん、その軽さがほしくて何度も言っているのだと思う。


 ただ、レナにはそれが少し怖かった。


 相談だけで済む人は、たぶん最初からそこへ行かない。


「レナ、その顔やめて」


 ミアが靴箱の扉を閉めながら言った。


「どの顔」


「心配してるふりして、ちょっと怒ってる顔」


 当たっていた。


 当たっていたので、レナは言い返せなかった。


「怒ってはない」


「じゃあ、何?」


「分かんない」


 ミアは少し笑った。笑ったあとで、いつものように曲がったリボンを直そうとして、でも手が途中で止まる。たぶん、レナの顔を見たせいだ。


「レナって、分かんないって言うとき、だいたい何か分かってるよね」


「そういうミアは、分かってないふりするとき、だいたいもう決めてる」


 言ってから、少しきつかったと思った。


 ミアは黙った。


 廊下の向こうで、朝の予鈴が鳴った。校内案内AGIの声が、今日の予定をやわらかく読み上げている。聞き取りやすくて、邪魔にならなくて、誰の感情にも触らないような声だった。


 ミアは、その放送が終わるまで靴箱の扉を閉めなかった。


「ほんとに、相談だけだよ」


 やがて、ミアはそう言った。


 レナは頷いた。


「うん」


 信じたわけではなかった。


 ただ、その場では頷くしかなかった。


 午前中の授業は、いつもより長く感じた。


 数学の先生が黒板に式を書いている間も、レナは何度かミアの横顔を見てしまった。ミアはちゃんとノートを取っていて、シャープペンの芯が折れると、少しだけ眉を寄せて替え芯を探した。そういうところはいつも通りだった。


 いつも通りなのに、違って見える。


 それが嫌だった。


 ミアの横には、今日もARレンズのタグが浮いている。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)

Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)

Facial Maturity Gap : High(顔の成熟印象差:高)


 レナは授業中にAR表示を切ろうか迷って、結局やめた。切れば、自分の視界からは消える。でも、消したところでミアが昨日見た言葉まで消えるわけではない。


 昼休み、ミアは購買で買ったサンドイッチを開いた。


 袋を破る手つきはいつもと同じだった。小さな三角のサンドイッチを一つ取って、少しだけ眺めてから口に運ぶ。レナは自分の弁当を開けながら、見すぎないように見ていた。


「何」


 ミアが言った。


「何でもない」


「またその顔」


「顔のことばっかり言わないでよ」


 言ったあとで、レナは自分で少し嫌になった。今日これから行く場所のことを考えると、顔のことばかりになるのは当たり前だった。


 ミアは怒らなかった。


「じゃあ、何のこと言えばいい?」


「小テストとか」


「最悪の話題じゃん」


「じゃあ天気」


「おばあちゃんみたい」


「おばあちゃんに謝って」


 ミアは、そこでやっと少しだけ笑った。


 笑うと、頬がやわらかく動く。レナはそれを見て、すぐに視線を弁当へ戻した。好きだと思うことさえ、今は少し悪いことのように感じた。


 ミアはサンドイッチを半分食べたところで、袋の口を折った。


「もういいの?」


「朝、食べすぎた」


 昨日も、似たようなことを言っていた。


 レナは箸を止めた。


「朝、何食べたの」


「ヨーグルト」


「それだけ?」


「あと、なんか、グラノーラちょっと」


「ちょっとって」


「ちょっとはちょっと」


 ミアは明るく言って、サンドイッチをバッグにしまった。明るく言うときほど、その言葉には触ってほしくないのだとレナは知っている。


 だから、何も言えなかった。


 放課後になるまで、ミアは何度も「相談だけ」と言った。


 教室を出るときに一度。昇降口で靴を履き替えるときに一度。駅へ向かう途中、ARレンズの経路案内がLUMIA CLINICまでの矢印を出したときにも、もう一度。


「相談だけだからね」


「分かってる」


「レナがそんな顔するから言ってるんだけど」


「そんな顔って何」


「だから、その顔」


 ミアは言いながら、少しだけ口を尖らせた。


 そういう表情を見ると、レナは一瞬だけ安心しそうになる。ミアはまだミアだと思ってしまう。けれど、その安心が何を守ろうとしているのか分からなくて、すぐに胸の奥が濁った。


 夕方の東京は、朝よりも少し厚みがあった。


 人の数が増えると、ARレンズ越しの街はさらに忙しくなる。帰宅ラッシュの混雑予測、雨雲の接近通知、店舗の待ち時間、最短経路の矢印、限定クーポン、友達からの既読通知。どれも便利で、どれも少しずつ視界を埋めていく。


 裸眼で歩いている人は、もうほとんどいない。


 たまに見かけても、自由そうというより不便そうに見えた。地図を見るためにスマホを取り出し、店の入口で支払い方法を確認し、人とぶつかりそうになってから初めて立ち止まる。


 不便な人。


 そう見えてしまうことが、少し怖かった。


 見えない人が不便なのではなく、見えることに慣れた人間が、見えない人を不便だと読むようになっているのかもしれない。


「近いね」


 ミアが、ARレンズの案内矢印を見ながら言った。


 LUMIA CLINICまでは駅から三分だった。


「近いから行く人多いんじゃない」


「近くなくても行く人は行くよ」


「それはそう」


 会話は普通だった。


 普通にしようとしているのが分かるくらい、普通だった。


 LUMIA CLINICは、駅前の大きな交差点を渡って少し歩いたところにあった。


 白い建物だった。


 ただの白ではない。青みを含んだ、清潔すぎる白。夕方の光を受けても黄ばんだ色にならず、むしろ周りのビルより少しだけ明るく見える。病院というより、ホテルか、美術館か、あるいは大きな広告の中にそのまま入っていくような建物だった。


「高そう」


 ミアがぽつりと言った。


 レナは少し意外で、ミアを見た。


「そこ?」


「だって高そうじゃん。床とか、たぶんめっちゃ高いよ」


「床の値段、気にするんだ」


「こういうところで転んだら、弁償とか怖くない?」


 ミアは真面目な顔で言った。


 レナは少しだけ笑った。


 笑ってから、今笑っていいのか分からなくなった。


 入口の上には、白い文字が浮かんでいる。


LUMIA CLINICルミア・クリニック

BECOME READABLE.(読まれる顔へ)


 その下で、顔のない女神像が立っていた。


 白く、細く、なめらかだった。肩から腰にかけての線は美しく、服のひだも、手の指先も、どこにも迷いがない。ただ、顔のあるべき場所には何もなかった。目も、鼻も、口もない。


 そのかわり、ARレンズが女神像の周囲にタグを表示していた。


Refined(洗練)

Elegant(優雅)

Timeless(時代を超える美)

Recognizable(認識される顔)

Premium Trust(上質な信頼感)

Verified Beauty(認証された美)


 顔がないのに、美しいと読まれている。


 レナは足を止めた。


「どうしたの」


 ミアが振り向く。


「いや」


「怖い?」


 ミアは冗談みたいに言った。


 レナは答えなかった。


 怖い、と言えばよかったのかもしれない。けれど、怖いと言った瞬間、そこへ入ろうとしているミアまで否定する気がした。


「綺麗だね」


 ミアは女神像を見上げながら言った。


 レナも見上げた。


 確かに綺麗だった。どの方向から見ても線が整っていて、影の落ち方まで計算されている。誰にも似ていないのに、誰もが綺麗と言いそうな形をしている。


「うん」


 レナは曖昧に頷いた。


 入口に近づくと、ARレンズの表示が切り替わった。


PUBLIC TAG LAYER : DISABLED(公開タグレイヤー:無効)

Medical Privacy Zone(医療プライバシー区域)

LUMIA Internal Guidance : ON(LUMIA院内ガイド:オン)


 街のタグが、一斉に消えた。


 通行人の横に浮かんでいたClean Luxury(清潔な高級感)も、Stable Impression(安定した印象)も、Low Memorability(記憶されにくい顔)も消える。視界から人の評価が抜けると、世界が少しだけ静かになった。


 レナは、ほんの少し息をしやすくなった。


 けれど、それは長く続かなかった。


 すぐに、別の表示が浮かび上がる。


Welcome to LUMIA CLINIC.(LUMIA CLINICへようこそ)

Face Scan Consent Required.(顔面スキャンへの同意が必要です)


 タグが消えても、読むことが終わるわけではないらしい。


 受付には、二人のスタッフがいた。


 一人は人間の女性で、もう一人は接客用AGIだった。どちらも同じ白い制服を着ていて、髪型も、声の高さも、笑う角度もよく似ていた。ただ、AGIの方は笑ったあと、表情が消えるまでの速度が少しだけ正確だった。


 レナのARレンズには、人間スタッフの顔には何も表示されない。


 医療プライバシー区域だからだ。


 AGIの方には、短い機体情報だけが出ていた。


AGI-5 Medical Reception Unit(第5世代医療受付機体)

Interaction License : Human-Care Standard(対人ケア標準ライセンス)


 第5世代。


 レナはその文字を読んで、すぐ視線を外した。


 そこを考え始めると、別の話になる気がした。今ここで考えるべきなのは、AGIのことではない。ミアのことだ。


 受付AGIは、ミアに向かって丁寧に頭を下げた。


「ご予約の確認をいたします。お名前をお願いします」


「高瀬ミアです」


 ミアの声は、少しだけ普段より高かった。


「高瀬ミア様ですね。本日はFace Readability First Consultation(顔面リーダビリティ初回カウンセリング)でお間違いありませんか」


 顔面リーダビリティ。


 顔の読みやすさ。


 その言葉は、ミアの名前のすぐあとに置かれた。


「はい」


 ミアは答えた。


 レナは、ミアの手元を見た。


 親指が、学生証ケースの端をこすっている。細かく、何度も。ミアは緊張すると、何かの端を触る癖がある。ノートの角とか、リボンの先とか、紙コップの飲み口とか。


 受付AGIは微笑んだ。


「ありがとうございます。未成年の方のため、保護者同意データを確認いたします」


 空中に小さな認証画面が開く。


Guardian Consent Verified(保護者同意:確認済み)

School Partnership Discount(学校提携割引)

First Diagnostic Session(初回診断)

Optional Treatment Proposal(任意施術提案)

Risk Explanation Required(リスク説明必須)


 文字はきちんとしていた。


 きちんとしているものほど、かえって怖いことがある。


「こちらの同意項目をご確認ください」


 受付AGIが言うと、ミアの前に半透明の同意書が開いた。レナの位置からも、いくつかの項目が見えた。


本診断は美容医療行為の必要性を断定するものではありません。

本診断は本人の人格・価値を評価するものではありません。

提示される改善案は市場傾向に基づく参考情報です。

最終判断は本人および保護者に委ねられます。


 全部、正しいことが書いてある。


 だから、余計に何も言いにくい。


 ミアは数行だけ読んで、確認ボタンに指を近づけた。


「読まなくていいの」


 レナが聞くと、ミアは少し肩をすくめた。


「読んでも、たぶん全部は分かんないし」


「分からないものに同意するの、怖くない?」


 ミアは一瞬だけレナを見た。


 その目が、少し尖った。


「怖いから、一緒に来てもらったんだけど」


 レナは黙った。


 そうだった。


 自分は止めるために来たのではない。少なくとも、ミアはそう思っていない。ミアにとってレナは、怖い場所についてきてくれる友達だった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 ミアは確認ボタンを押した。


 押す音はしなかった。


 けれど、何かが一つ進んだ気がした。


 待合室は静かだった。


 静かすぎて、椅子の布が擦れる音まで聞こえた。壁は白く、床も白く、置かれている雑誌の表紙まで白を基調にしている。窓際の観葉植物だけが緑だったけれど、その葉にもほとんど埃がなく、少し作り物のように見えた。


「座ろ」


 ミアが小さく言った。


「うん」


 二人は隣同士に座った。


 ソファは見た目より柔らかく、沈み方まで上品だった。レナは自分の制服のスカートが少し皺になっているのが急に気になって、膝の上で手のひらを滑らせた。ミアも同じことをしていたので、少しだけおかしかった。


 壁には症例写真が並んでいる。


Before : Ordinary(施術前:普通)

After : Cinematic(施術後:映像映え)


Before : Full(施術前:ふくよか)

After : Sculpted(施術後:彫刻的)


Before : Natural(施術前:自然)

After : Recognizable(施術後:認識される顔)


 レナは、最後の言葉の前で足を止めた。


 Recognizable(認識される顔)。


 美しくなるのではなく、認識されるために変わる。


 その言い方は、妙に正直だった。


 待合室には、いろいろな人がいた。制服姿の女子高生、仕事帰りらしい女性、俳優志望に見える少年、母親に付き添われた中学生、目元だけメイクを落とした配信者、帽子を深くかぶった男。


 誰も大声で話さない。誰も他人の顔をじろじろ見ない。


 その代わり、みんな自分の診断画面を見ていた。


 公共タグは消えている。けれど、ここではもっと細かい言葉が顔に貼られていた。


Jawline Weakness(顎ラインの弱さ)

Smile Instability(笑顔の不安定性)

Excess Softness(過剰な柔らかさ)

Age Ambiguity(年齢印象の曖昧さ)

Camera Fatigue(カメラ映え疲労)


 街より静かで、街より深いところまで読まれている。


 ミアは膝の上で手を握っていた。右手の親指で、左手の爪を押している。押して、離して、また押す。普段ならスマホを見ている時間なのに、今日は画面を開かない。


 レナはその指先を見ていた。


「帰る?」


 小さく聞いた。


 ミアは首を振った。


「まだ何もしてない」


「相談だけなら、帰ってもいいでしょ」


「帰ったら、相談もできないじゃん」


 それはそうだった。


 正しすぎて、レナは何も言えなかった。


 ミアの名前が呼ばれた。


 呼んだのは、人間の看護師だった。やさしい声だった。やさしい声で、「こちらへどうぞ」と言った。


 やさしい声は、人を安心させる。


 安心した人は、少しだけ抵抗しにくくなる。


 診察室は、待合室よりさらに白かった。


 机の上には余計なものが何も置かれていない。壁には大きな鏡があり、その表面には薄いガイドラインが走っていた。顔を見るための鏡というより、顔を測るための鏡だった。


 担当医は、驚くほど整った人だった。


 年齢が分かりにくい。若くも見えるし、年を重ねているようにも見える。髪は白に近いグレーで、指は細い。白衣には皺ひとつなかった。


 医師の横には、補助用のAGIが立っていた。


 人型ではあるが、顔はかなり簡略化されている。目の位置に細い光があり、口はない。人間に似せすぎないための設計なのかもしれない。


 レナのARレンズには、短い表示だけが出た。


AGI-5 Diagnostic Assistant(第5世代診断補助機体)

Bio-risk Free Unit(生体リスク非搭載機体)


 Bio-risk Free(生体リスク非搭載)。


 その言葉が、妙に乾いて見えた。


 医師はミアに椅子を勧めた。


「高瀬ミアさんですね。今日は初回カウンセリングですので、まず現在の顔情報を確認しながら、希望を整理していきましょう」


 希望。


 それは綺麗な言葉だった。


 ミアは椅子に座った。


 レナは少し離れた場所に座る。


「付き添いの方も同席でよろしいですか」


 医師がミアに聞いた。


 ミアは頷いた。


「はい。友達です」


 友達。


 その言葉に、レナは少しだけ安心した。


 安心したあとで、そんなことで安心する自分が嫌になった。


 鏡の前に座ると、ミアの顔がスキャンされた。


 青い線が、目元から頬へ、頬から顎へ走っていく。ミアの顔が、細かい点と線に分けられていく。


 レナは、その画面を見ないようにしようとした。


 でも見てしまった。


 頬、顎、鼻筋、額、唇、目元。すべての部位に色のついた線が引かれていく。ミアの顔が、顔ではなく図面になっていった。


 医師は穏やかに言った。


「あなたの顔には、まだ幼さが残っています」


 ミアの肩が少し動いた。


「悪いんですか」


「悪くはありません」


 医師はすぐに答えた。


 その早さが、少し怖かった。


「ただ、現在の視覚文化では、幼さは未完成として読まれやすい。特に頬の柔らかさと顎下のラインが、印象の成熟度を下げています」


 空中に、ミアの横顔が投影される。


Current Face(現在の顔)

Prediction Model A(予測モデルA)

Prediction Model B(予測モデルB)

Market Adapted Model(市場適応モデル)


 ミアの頬が、画面上で少しずつ削られていく。


 削られたあと、Beauty Index(美的印象指数)の予測値が上がった。


 76.4。

 82.1。

 87.6。


 数字が上がるたびに、ミアの顔からミアらしさが少しずつ遠ざかるように見えた。


 それはレナの見え方でしかない。


 分かっていた。


 分かっているから、余計に厄介だった。


「市場適応モデルって何ですか」


 レナは聞いた。


 医師はレナの方を見た。


 嫌な顔はしなかった。


「広告、配信、推薦資料、面接、プロフィール画像などで、初見の認識効率が高くなる顔の傾向です」


「認識効率」


「ええ。美しさそのものではありません。読まれやすさ、と言った方が正確です」


 医師はミアの画像を指で動かした。


「今のミアさんの顔は、親しみやすさがあります。ただ、印象が柔らかく分散しやすい。見る人によって評価が揺れやすいんです」


「揺れたら駄目なんですか」


 レナの声は、思ったより硬かった。


 医師は少しだけ首を傾けた。


「駄目ではありません。ただ、不利になる場面がある」


「どんな場面で」


「選ばれる場面です」


 その言葉は、部屋の白に吸い込まれず、レナの耳の奥に残った。


 選ばれる場面。


 医師は続けた。


「進学、就職、配信、広告、SNS、交友関係。第一印象が決定に関わる場面は多い。もちろん顔だけで決まるわけではありません。ただ、顔が入口になることは否定できません」


 言葉だけなら、筋が通っている。


 通っているからこそ、気味が悪かった。


「それは、美しいことと同じなんですか」


 レナは聞いた。


 医師は初めて、少しだけ黙った。


 それから、穏やかに笑った。


 その目には、怒りも軽蔑もなかった。ただ、古い機械を見るような静かな憐れみがあった。


「同じである必要がありますか?」


 レナは返事ができなかった。


 同じである必要。


 その言い方は、ずるいと思った。


 同じではない、と言わない。違う、とも言わない。ただ、同じである必要があるのかと聞き返す。


 必要がないなら、何をしてもいいのか。


 そう言おうとして、レナは言葉を飲み込んだ。


 言えば、たぶん古く見える。感情的に見える。ミアの選択を邪魔する友達に見える。


 それが嫌だった。


 レナは、自分がどう見えるかを気にしていた。


 ラベルが嫌いなのに。


 医師はミアに向き直った。


「もちろん、今すぐ決める必要はありません」


 その言葉に、レナは少しだけ息をついた。


 しかし医師は続けた。


「ただ、ミアさんの年齢なら、骨格印象の調整は早い方が自然に馴染みやすい。学校生活の中で変化していく方が、周囲にも受け入れられやすいでしょう」


 今すぐ決める必要はない。


 でも、早い方がいい。


 急がせていない形をした、急がせる言葉だった。


 ミアは画面を見ていた。


 削られた自分の顔を。予測値の上がった自分の顔を。


 その目が、少しだけ光っていた。


 恐怖か。期待か。どちらでもあるのか。


 レナには分からなかった。


「痛いですか」


 ミアが聞いた。


 レナはミアを見た。


 それは、もう相談だけの質問ではなかった。


 医師はやさしく答えた。


「痛みは管理できます。腫れも数日で落ち着く方が多いです。学校生活への復帰も早い。もちろん個人差はあります」


 補助AGIが、空中に回復期間の目安を表示する。


Recovery Estimate : 3 Days(回復目安:三日)

Visible Swelling : 5 Days(目立つ腫れ:五日)

Social Return : 7 Days(社会復帰目安:七日)


 短い数字が並ぶ。


 顔を変えるには、思ったより短い時間で足りるらしい。


「費用は」


 ミアの声は、さらに小さくなった。


 医師は料金表を出した。


Standard Price(通常価格)

Student Support Plan(学生支援プラン)

School Partnership Discount(学校提携割引)

Installment Payment(分割払い)

Ambassador Candidate Program(アンバサダー候補制度)


 レナは最後の項目を見た。


 アンバサダー候補制度。


 一定条件を満たす顔には、施術費の一部免除と引き換えに、症例写真や広告利用への同意を求めることがあるらしい。


 きちんと説明されている。


 だから、きちんと怖かった。


「ミア」


 レナは思わず呼んだ。


 ミアは振り向かない。


「まだ決めなくていいんだよ」


 ミアは少しだけ頷いた。


「分かってる」


 その声で、分かっていないことが分かった。


 いや、違う。


 分かっているからこそ、もう止まれないのかもしれない。


 ミアの横顔は、白い画面の光を受けていた。その頬に、現在の線と、削った後の線が二重に重なっている。


 レナは、今のミアの顔を見ようとした。


 でも、未来の顔が邪魔をした。


 LUMIAが提示した、読まれやすい顔。


 それが、ミアの上に薄く重なっている。


 まだ変わっていないのに、もう失われたように見えた。


 止めるなら、この場だった。


 たぶん。


 やめなよ、と言えばよかったのかもしれない。


 でも、その言葉は本当にミアのためなのか。


 ミアが変わるのを止めたいのか。自分の好きだったミアを残したいだけなのか。ミアの不安を見ているのか。自分の美意識を守っているのか。


 レナには、分からなかった。


 分からないまま言う言葉は、刃物になる。


 そう思った。


 それも、ただの逃げかもしれなかった。


 医師はミアに資料を渡した。


「今日は持ち帰って、ゆっくり考えてください」


 ゆっくり。


 その言葉は、部屋のどこかで薄く光って消えた。


 クリニックを出るころには、外は暗くなっていた。


 医療プライバシー区域を抜けると、ARレンズの表示が戻る。


PUBLIC TAG LAYER : ON(公開タグレイヤー:オン)

READFACE ACTIVE(READFACE:起動中)


 街の顔に、また言葉が貼られていく。


Clean Luxury(清潔な高級感)

Low Memorability(記憶されにくい顔)

Verified Beauty(認証された美)


 ミアの横にも、いつものタグが戻った。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)


 レナはその文字を見た。


 そして、見たことを後悔した。


 ミアは資料の入った白い封筒を抱えていた。


 封筒には、金色の文字でこう書かれている。


BECOME READABLE.(読まれる顔へ)


「相談だけだったね」


 ミアが言った。


「うん」


 レナは答えた。


 相談だけ。


 そう呼べば、まだ何も起きていないように見える。


 でも、レナには分かっていた。


 何かは、もう起きていた。


 ミアは歩きながら、白い封筒を胸に抱き直した。その仕草が、少しだけ大切なものを守っているように見えた。


 レナは何も言わなかった。


 言えば、ミアを否定することになる気がした。

 言わなければ、ミアを見捨てることになる気がした。


 どちらも嫌だった。


 だから、何もしなかった。


 人はそうやって、いちばん嫌な場所に立つことがある。

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