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第1話 顔より先に

初投稿です。本日5話まで掲載します。


 レナがそれに気づいたのは、いつからだっただろう。


 たぶん、はっきりした日付はない。


 朝の駅で誰かとすれ違ったとき。教室で友達が笑ったとき。コンビニのレジ横で、前に並んでいる人の横顔をなんとなく見たとき。そういう小さな瞬間が少しずつ積み重なって、ある日、もう戻れないくらい自然なことになっていた。


 街の人たちは、顔を見る前に、顔の横に浮かぶ言葉を読むようになった。


 レナはそれを、顔を読む人がいなくなった、と思っていた。


 もちろん、実際にはみんな顔を見ている。笑っているか、怒っているか、眠そうか、機嫌がよさそうか。そのくらいは、今でも誰だって分かる。友達が機嫌の悪い歩き方をしていたら分かるし、先生が怒る前に少し息を吸うのも分かる。


 ただ、その前に一度、別のものを読んでしまう。


 顔の横に浮かぶ、短い言葉を。


 二〇五〇年代の東京の朝は、目が覚めるより先に街の方が起きている。


 駅前の大型スクリーンは、ニュースと広告を休みなく切り替えていた。ビルの壁には天気と混雑予測が薄く重なり、歩道の端では清掃ドローンが紙くずを吸い込んでいる。コンビニの入口では接客AGIが、眠そうな会社員に向かって「いってらっしゃいませ」と頭を下げていた。


 うるさい、というほどではない。


 ただ、朝からよく光る街だった。


 接客AGIの声は、人間とほとんど変わらない。笑い方も、ほんの少しだけ変わらない。けれど、レナのARレンズは、AGIの顔にREADFACEのタグを出さなかった。代わりに、機体情報だけを視界の端に小さく表示する。


AGI-5 Civic Unit(第5世代公共機体)

Human Interface : Standard(標準対人インターフェース)


 顔はあるのに、読まれ方が違う。


 その違いが何を意味するのか、レナはまだ深く考えたことがない。第4世代AGIが人間そっくりに作られすぎて、生体部品の劣化や感染で人間のように「死ぬ」ものだったこと。第5世代ではその弱点が克服されたこと。そういうことは、現代社会の授業で習った。


 でも、朝の駅前でまで考えることではなかった。


 今のレナにとって気になるのは、もっと近くにあるものだ。


 目の表面に貼りついた、薄い光。


 改札を抜ける前に、レナは右目の端を軽く瞬かせた。ARレンズの確認表示が、視界の左下に淡く浮かぶ。


PUBLIC TAG LAYER : ON(公開タグレイヤー:オン)

READFACE ACTIVE(READFACE:起動中)

Privacy Filter : School Mode(プライバシーフィルター:学校モード)


 見慣れた表示だった。


 見慣れてはいけないものだとも、少し思った。


 駅前の人波が動き始める。


 向かいから歩いてくる女の人の横に、タグが浮いた。


Clean Luxury(清潔な高級感)

Premium Symmetry(上質な左右対称性)

Trust Formation : A(信頼形成率:A)


 レナはそれを読んでから、ようやくその人の顔を見た。


 頬の線、目元、口元。どこも普通に人の顔なのに、最初に読んだタグのせいで、最初からそういう顔だったように見えてしまう。


 順番が逆だ、とレナは思った。


 そう思ったあとで、自分も最初にタグを読んでいたことに気づく。気づくたびに、喉の奥が少しだけ狭くなる。


 ホームへ続く階段の下で、スーツ姿の男性が二人、すれ違った。


 一人には、Stable Impression(安定した印象)と出ていた。もう一人には、Low Memorability(記憶されにくい顔)と出ていた。二人とも、ただ歩いているだけだった。それなのに、レナは一瞬だけ前者の顔を長く見て、後者の顔から少し早く視線を外した。


 嫌だった。


 でも、一度動いてしまった視線は、なかったことにはならない。


 READFACEは、最初から物騒なものとして広まったわけではない。


 ARレンズを入れている人なら、初期設定のまま誰でも見られる。眼鏡型の端末でも、携帯端末でも、駅前スクリーンでも確認できる。顔認識と美容市場をつなげた、民間企業の印象分析サービス。


 公式には、それは美醜の判定ではなかった。


 視認性、記憶されやすさ、信頼されやすさ、映像にしたときの見栄え、購買行動への影響。そういう安全そうな言葉をいくつも足して、顔の横に短いタグを置く。ただそれだけだと、説明には書かれていた。


これは美の序列ではありません。

あくまで非言語印象の補助情報です。


 企業は何度もそう言った。


 たしかに、嘘ではなかったのだと思う。


 ただ、人間はそこまで器用ではない。


 顔の横にVerified Beauty(認証された美)と光っていれば、その人は少し美しく見えやすくなる。Low Memorability(記憶されにくい顔)と出ていれば、その人から少し早く視線が離れやすくなる。


 それだけのことだった。


 それだけのことが、毎日積み重なっていた。


「レナ」


 後ろから声がした。


 振り向くと、ミアが小走りで近づいてきた。


 少し明るいブラウンの髪に、小さなヘアクリップ。制服はきちんとしているのに、リボンだけが少し曲がっている。バッグについた小さなチャームが、走るたびにころころ揺れていた。


 ミアはいつも、どこか一か所だけ整いきっていない。


 レナは、そこが少し好きだった。


「おはよ。今日、人多くない?」


 ミアは息を弾ませながら言った。


「月曜だからじゃない」


「月曜って毎週あるのに、毎回びっくりするの変だよね」


「毎週あるからじゃない?」


「え、どういう理屈?」


「毎週あるのに、慣れないから」


「レナ、朝からめんどくさい」


 ミアはそう言って笑った。


 笑うと、頬が少し上がる。目の下に小さな影ができる。口より先に頬が動いて、それから声が出る。話しているうちに表情がころころ変わり、怒るとすぐ赤くなる。泣きそうなときは、唇より先に頬が震える。


 レナは、その顔が好きだった。


 好き、という言葉が正しいのかは分からない。けれど、ミアがそこにいると分かる顔だった。


 そして、その横にもタグが浮いていた。


Soft Cheek(柔らかな頬)

Low Memorability(記憶されにくい顔)

Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)


 レナはそれを読んでから、ミアの顔を見てしまった。


 まただ、と思った。


「何?」


 ミアがレナの顔を覗きこんだ。


「何でもない」


「絶対なんか見た顔してる」


「見てない」


「見てない顔じゃない」


「どんな顔」


「見てるのに、見てないって言う顔」


 当たっていた。


 レナは少しだけ視線をそらした。


「ミアってさ、そういうときだけ鋭いよね」


「そういうとき以外も鋭いよ」


「自分で言う?」


「言わないと誰も言ってくれないし」


 ミアは少し得意そうに笑った。けれど、その横にはまだLow Memorability(記憶されにくい顔)が浮いている。薄い灰色で、礼儀正しく、本人の価値を決めるものではありません、という顔で。


 レナはそれを言えなかった。


 二人で駅前の信号を待つ。


 ミアはバッグの肩紐を直しながら、片手でリボンを触った。曲がっているのを直そうとして、逆に少しだけ斜めになる。


「曲がった」


 レナが言うと、ミアはリボンを見下ろした。


「どっちに?」


「右」


「私から見て?」


「私から見て」


「それ、どっち?」


「もういい、直す」


 レナが手を伸ばすと、ミアは少しだけ顎を上げた。リボンを直している間、ミアはおとなしくしていたけれど、目だけは駅前の大型スクリーンの方へ向いていた。


 白い広告が流れている。


LUMIA CLINICルミア・クリニック

BECOME READABLE.(読まれる顔へ)


 朝の駅前は、いつもなら人が流れていくだけの場所だ。けれどその日は、何人かの学生が足を止めていた。


 画面の中で、世界で最も美しいとされる女優が笑っている。


 白い背景に、白い服。頬骨の下に深く落ちた影。細い顎。きれいに持ち上がった目元。柔らかそうなのに、少し硬い唇。


 すべての線が、広告に向いていた。


 ARレンズが、女優の顔を勝手に読み取る。


Beauty Index 98.9(美的印象指数:98.9)

Verified Beauty(認証された美)

Model Hollow(モデル型の頬の影)

Global Recognition : S(国際認識度:S)


 金色の文字が、彼女の頬の横で静かに輝いていた。


「すご」


 ミアが言った。


 小さな声だった。驚いた声でもあり、少し羨ましそうな声でもあった。


 周りの学生たちも、同じ画面を見ている。


「完璧じゃん」

「骨格から違う」

「本物って感じ」

「ああなりたい」

「BI98.9って、人間で出るんだ」


 その言葉は、画面の女優ではなく、数字に向かって言われているようにも聞こえた。


 レナは何も言わなかった。


 美しいのだろうとは思った。実際、整っている。どこを見ても無駄がなく、顔のどの線も、広告の白い背景からきれいに浮き上がるために置かれているようだった。


 でも、胸の奥が少し冷えた。


 怖い、と思った。


 ただ、その怖さを口にするのは難しかった。


 怖いと言った瞬間、自分の方が古い人間になる気がした。新しい美しさを理解できない人。負け惜しみで文句を言っている人。美しいものに選ばれなかったから、美しいものを疑っている人。


 レナは、そう見られるのが嫌だった。


 この時点で、もう少し面倒な性格をしていたのである。


 ミアは広告を見上げたまま、頬に指を当てた。


「やっぱ強いよね、ああいう顔」


 レナは女優の顔を見た。


 それから、ミアの横顔を見た。


「強い顔と、綺麗な顔って同じ?」


 ミアは少しだけ眉を寄せた。


「またそういうこと言う」


「何」


「レナって、たまに全部めんどくさくするよね」


「簡単にしてる方が変なんだよ」


「そういうとこ」


 ミアは信号が変わるのを待ちながら、少し笑った。


「ちょっと羨ましいけど、ちょっとムカつく」


「どっち」


「両方」


 信号が青になった。


 人の流れが動き出し、二人もそれに混ざって歩き出す。横断歩道の途中で、清掃用AGIが一体、落ちていた紙コップを拾っていた。人間に似た顔はある。けれど、そこにBeauty Index(美的印象指数)は出ない。


 人間の顔だけが、読まれている。


 レナはふと、そう思った。


 歩道を渡りきると、ミアが端末を取り出した。薄くて軽い、学校指定の携帯端末だった。授業でも連絡でも決済でも使うので、持っていないと一日ずっと不便になる。


「ちょっとだけ」


 ミアが言った。


「何を」


「今の広告、スキャン連動してたじゃん。私も出るかなって」


「やめとけば」


 言ってから、少し強かったと思った。


 ミアはレナを見た。


「なんで?」


「朝から見るものじゃない」


「そういうの、見る時間で変わる?」


 ミアは笑ったが、もう端末のカメラを起動していた。


 画面の中で、ミアの顔に青い線が走る。頬、顎、鼻筋、目元、唇。ミアは画面を見ている。レナは、画面を見るミアの顔を見ている。


 数秒後、結果が出た。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)

Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)

Facial Maturity Gap : High(顔の成熟印象差:高)

Recommended : Buccal Refinement / Jawline Slim Correction(推奨:頬の精密調整/顎ラインの細化補正)


 ミアの指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 それから、画面を少しだけ自分の方に引き寄せる。


「やっぱり、頬が重いんだ」


 レナはミアの顔を見た。


 重い、という言葉が、その頬に貼りつくのが嫌だった。


 ミアの頬は柔らかい。笑えば目の下に小さな影ができ、話せば表情がよく動く。怒ればすぐ赤くなるし、泣きそうなときは唇より先に震える。そこには、ミアが何かを感じるたびに少し遅れて揺れる、短い時間があった。


 レナは、その時間ごと好きだった。


 けれど、それをどう言えばいいのか分からなかった。


「重くないよ」


 レナが言うと、ミアは画面から目を離さないまま答えた。


「でも表示された」


「表示が間違ってるかもしれない」


 ミアは笑った。


 友達に向ける笑いではなかった。まだ世の中の仕組みを知らない子どもに、仕方ないな、と言うときの笑いに近かった。


「間違うわけないじゃん。これ、セレブも使ってるんだよ」


 レナは、それ以上言えなかった。


 セレブも使っている。


 それは何の証明にもならないはずだった。

 でも、その場ではとても強い言葉だった。


 学校に着くころには、ミアはいつもの調子に戻っていた。


 少なくとも、そう見えた。


 下駄箱で靴を履き替えながら、ミアは隣のクラスの子に手を振った。廊下で先生に挨拶をした。教室に入る前、曲がったリボンをまた直しながら「今日、小テストだっけ」と聞いた。


 レナは「たぶん」と答えた。


「たぶんって何」


「あるような、ないような」


「そういう一番困る情報やめて」


「じゃあ、ある」


「もっと困る」


 ミアはそう言って、少しだけ口を尖らせた。


 その横には、まだタグが出ている。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)


 消えない。


 レナはARレンズの表示を切ろうとして、やめた。


 切れば見えなくなる。

 でも、見えなくしたことになる。


 それが抵抗なのか、逃げなのか、レナには分からなかった。


 昼休み、ミアはパンの端を残した。


「いらないの?」


 レナが聞くと、ミアは明るく答えた。


「朝、食べすぎた」


 朝、ミアは駅前で何も食べていない。


 レナはそれを知っていた。


 でも、「嘘でしょ」とは言わなかった。


 次の日、ミアはサラダのドレッシングを半分残した。その次の日は、弁当のご飯を三分の一残した。理由は毎回少しずつ違った。ちょっと胃が重い、朝が遅かった、昨日食べすぎた、別にダイエットじゃないよ。


 ミアはそう言った。


 レナは見ていた。


 止めなかった。


 止められなかった、という言い方は少し綺麗すぎる。


 本当は、止めるための言葉を持っていなかった。


 そんなの美しくない、と言いたかった。


 でも、その言葉を出せば、すぐに別の問いが返ってくる。


 じゃあ、美しいって何?


 ミアの頬が柔らかいこと。笑うと顔が少し崩れること。怒ると分かりやすく赤くなること。それを美しいと呼んでいいのか。それとも、自分が勝手に好きなだけなのか。


 レナには、まだ分からなかった。


 分からないくせに、何かを守りたいとは思っていた。


 それが一番、たちが悪かった。


 放課後、美術室の窓から駅前のスクリーンが少しだけ見えた。


 白い広告は、まだ流れている。


LUMIA CLINICルミア・クリニック

BECOME READABLE.(読まれる顔へ)


 ミアは窓際の席で、端末の黒い画面を見つめていた。画面は消えているのに、そこにまだ自分の結果が残っているみたいに、じっと見ていた。


 レナはスケッチブックを開く。


 鉛筆を持つ。


 ミアの横顔を描こうとして、手が止まった。


 先に思い浮かんだのは、頬の線ではなかった。


Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)


 その文字だった。


 レナは鉛筆を置いた。


 顔を見たいのに、言葉が先に来る。


 そのことが、どうしようもなく気持ち悪かった。


 そのとき、ミアの端末が短く震えた。


 画面が明るくなる。


 LUMIA CLINICからの通知だった。


Free First Consultation(無料初回カウンセリング)

You may become more readable.(あなたの顔は、より読まれやすくなる可能性があります)


 ミアはそれを見て、しばらく黙っていた。


 画面の下には、小さく予約ボタンが出ている。


 レナは、それを見なかったことにしようとした。


 でも、ミアの指は、まだ画面の上に残っていた。


「相談だけなら、行ってみてもいいかな」


 レナはすぐに答えられなかった。


 白い広告の光が、美術室の窓に薄く映っている。


 読まれる顔へ。


 その言葉だけが、二人の間に残った。

お読みいただきありがとうございます。

全12話予定です。続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。

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