第10話 急がないで見る
レナは、いつもより遅い時間に学校を出た。
空はまだ明るかったけれど、昼の光ではなかった。校舎の窓に夕方の色が薄く伸びていて、廊下の奥に残った声も、少しずつ遠くなっていく。運動部の掛け声だけが、校庭の方から規則正しく聞こえていた。
端末は何度か震えた。
No Tag Roomの通知だった。
見なかった。
見ると、また何かを選ばなければならない気がした。止めるのか、止めないのか。書くのか、書かないのか。消すのか、残すのか。
今のレナには、どれも選べなかった。
校門を出ると、風が少し冷たかった。カーディガンの袖口を押さえる。直された縫い目は、表からはほとんど分からない。けれど、指先でなぞると、そこだけ少し硬い。
隠した線は、なくなったわけではない。
その言葉が、頭の中に残っていた。
駅前のスクリーンでは、またLUMIAの広告が流れていた。
今日の広告はミアではなかった。白い背景に、別の女性の横顔が映っている。頬の下にきれいな影が落ち、顎の線は細く、唇は少しだけ開いていた。顔の横には、READFACEのタグが浮かぶ。
Verified Beauty(認証された美)
Refined Identity(洗練された自己像)
High Recognition Score(高認識スコア)
BECOME READABLE.(読まれる顔へ)
読まれる顔。
レナはその文字を見て、すぐに目を外した。
でも、目を外したところで、見なかったことにはならない。
LUMIAの広告は気持ち悪い。そう思うことは、まだできた。顔の横に言葉を置き、点数を置き、誰かの不安を白い光の中へ誘導する。その構造は、やっぱりおかしい。
けれど、そこで終われなくなっていた。
自分も、誰かの顔の横に言葉を置いた。
Beauty Indexではない。
Verified Beautyでもない。
Softness Removedでもない。
失われた完成。
その言葉は、広告よりずっと小さなノートに書かれたものだった。けれど、小さいから傷つけないとは限らない。やさしい言葉の形をしているから、閉じ込めないとも限らない。
端末がまた震えた。
レナは画面を見ないまま、ポケットの奥へ押し込んだ。
電車の窓には、ぼんやり自分の顔が映っていた。
タグ表示は切っている。けれど、顔の横に何かが浮かんでいるような気がして、レナは窓から目をそらした。向かいの席では、小さな子どもが母親の膝に頭を預けている。母親は端末を見ながら、その子の髪を指で梳いていた。何度も、同じところをゆっくり撫でている。
そういう手の動きは、どのタグにもならないのだろうと思った。
そう思った瞬間、また怖くなった。
どのタグにもならないもの。
その言い方さえ、もう自分のノートに似ている。
家に着くと、玄関の明かりがついていた。
靴を脱ぐ音で、台所から祖母が顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
返事は、少し遅れた。
祖母はすぐに何かを聞かなかった。台所へ戻り、鍋の火を弱める。味噌汁ではない匂いがした。大根と鶏肉を煮ている匂いだった。醤油の甘い匂いが廊下まで流れてくる。
レナは鞄を置き、洗面所で手を洗った。
水の音が長くなった。
石鹸をつけて、流して、もう一度指の間をこする。意味はない。手についたものはとっくに落ちている。それでも、何かが残っている気がした。
台所に戻ると、祖母は小皿を並べていた。
「今日は、褒められた顔じゃないわね」
レナは椅子を引く手を止めた。
「また顔」
「顔に出る子だから」
「それ、READFACEより嫌かも」
祖母は少し笑った。
「私は点数をつけないもの」
「タグはつけるじゃん」
「そうね」
祖母は否定しなかった。
大根の煮物を皿に移す。湯気がふわりと上がる。味噌汁より少し濃い匂いがして、レナは急にお腹が空いていることに気づいた。こんな日にまでお腹が空くのが、少し嫌だった。
「何かを言われた顔ね」
祖母が言った。
レナは座った。
「……言われた」
「誰に」
「ミア」
祖母は箸を並べる手を止めなかった。
「そう」
それだけだった。
その「そう」が、レナには少しありがたかった。驚かれたら、たぶん話せなかった。怒られても、慰められても、たぶん無理だった。
祖母はお茶を淹れた。
湯呑みをレナの前に置く。
「食べながらでいい?」
「食べられるか分からない」
「じゃあ、食べられる分だけ」
祖母は自分の椅子に座った。
しばらく、二人で黙っていた。
湯呑みの中で、お茶の葉が少しだけ沈んでいく。レナはそれを見ていた。話し始めたら、何かが決まってしまう気がした。まだ、何も決めたくなかった。
でも、黙っていても何もなくならない。
「ノートを書いた」
レナは言った。
声は思ったより小さかった。
「顔の横に出るタグが嫌で。READFACEとか、LUMIAとか、進路の空欄とか、そういうのが嫌で。タグなしで見たものを、書いた」
祖母は黙って聞いていた。
「それを、菜月が読んで。美術部のグループに上げて。分かるって言われて」
言葉が止まる。
分かると言われたときの温かさが、まだ身体に残っている。そのことが、今は恥ずかしかった。
「嬉しかった」
レナは言った。
そこは飛ばせなかった。
「嬉しかったんだと思う。自分だけじゃないって思った。自分が見てるものを、誰かも見てるって思って」
祖母は小さく頷いた。
「うん」
「それで、専用の場所ができた。No Tag Roomっていう、限定のグループ。最初は、ほんとに悪い感じじゃなかった。雨の写真とか、変な集合写真とか、READFACEだと低く出る笑顔とか、そういうのをみんなで上げて」
レナは湯呑みを両手で包んだ。
熱い。
熱いのに、手を離せなかった。
「でも、だんだん、本物とか、整いすぎてる顔は怖いとか、LUMIAの広告みたいな顔が苦手とか、そういう言葉が出てきて」
祖母はそこで少しだけ目を伏せた。
でも、何も言わなかった。
「私、止めなかった」
レナは言った。
「止められなかった。違うと思ったのに。ミアは違うって言いたかったのに。言ったら、その場所を壊す気がして」
「その場所が、大事だったのね」
祖母が言った。
レナは頷けなかった。
頷くと、何かを認めることになる気がした。
でも、もう認めているのと同じだった。
「大事だった」
声が少し掠れた。
「私を分かってくれる場所だったから」
祖母は箸を置いた。
レナは続けた。
「その中に、私が書いたページがあって。昔の写真を見たって。頬が柔らかかったって。笑うと目が細くなったって。あれは修正前じゃなかったって」
そこから先は、言いたくなかった。
でも言わなければ、祖母には届かない。
「失われた完成だったって、書いた」
台所が静かになった。
鍋の火はもう止まっている。外から車の音が遠く聞こえた。誰かが近所でドアを閉める音もした。
祖母は何も言わなかった。
その沈黙が、レナには怖かった。
「ミアが見た」
レナは言った。
「名前は書いてない。でも、ミアには分かった」
祖母の目が、少しだけ痛そうになった。
「それで」
「言われた」
レナは湯呑みを見つめた。
茶色い水面に、自分の顔が少しだけ歪んで映っている。
「名前を書かなければ、傷つけてないと思ってるのって」
祖母は目を閉じなかった。
逃げずに聞いている。
それが分かった。
「前の顔だけを完成って呼ばれたら、今の私は何って。レナは私の顔を使って、自分の感覚が正しいって証明したかったんじゃないのって」
言葉が詰まった。
レナは一度、息を吸った。
「否定してよ」
言った瞬間、自分が子どもみたいだと思った。
でも、言ってしまった。
「そんなことないって。私はミアを傷つけたかったわけじゃないって。LUMIAとかREADFACEとは違うって」
祖母はしばらく黙っていた。
それから、湯呑みを持ち上げた。
一口飲んで、置く。
「否定したら、楽になる?」
「なる」
レナはすぐに言った。
祖母は少しだけ寂しそうに笑った。
「じゃあ、今はしない方がいいかもしれないわね」
レナは唇を噛んだ。
分かっていた。
祖母なら、そう言う気がしていた。
それでも、言ってほしかった。
「ひどい」
「そうね」
「否定してくれてもいいじゃん」
「あなたを嫌いになったわけじゃないもの」
「そういう話じゃない」
「そういう話でもあるわ」
祖母の声は静かだった。
「否定してあげたら、あなたは少し楽になるかもしれない。でも、楽になったあと、その子の言葉をどこに置くの」
レナは何も言えなかった。
ミアの言葉。
名前を書かなければ傷つけてないと思ってるの。
前の顔だけを完成って呼ばれたら、今の私は何。
私たち、そんなに違う。
どれも、置き場所がない。
置き場所がないから、祖母の否定で消してほしかった。
「でも、私はミアに綺麗になれなんて言ってない」
レナは言った。
「顔を変えろとも、点数を上げろとも言ってない。LUMIAとは違う。READFACEとも違う」
「違うところはあるわね」
祖母はすぐに言った。
その言葉に、レナは少しだけ顔を上げた。
「違うところはある。あなたはその子を商品にしたかったわけではないし、点数をつけたかったわけでもない」
レナは息をした。
でも、祖母の言葉はそこで止まらなかった。
「でも、同じところがあるから苦しいんでしょう」
レナの指が、袖口を握った。
「同じところ」
「その子の顔を見て、自分の中にある何かを確かめようとしたところ」
祖母は皿の上の大根に箸を入れた。柔らかく煮えていて、すぐに崩れた。祖母はそれを見て、少しだけ困った顔をした。
「煮すぎたわね」
「今それ言う?」
「大事よ。煮物は戻せないから」
レナは笑えなかった。
でも、その普通の言い方で少しだけ息が戻った。
祖母は崩れた大根を小皿に寄せた。
「昔、衣装を作っていたときね」
レナは祖母を見た。
「美しい線を作るのが好きだった。首が長く見える襟。腰が細く見える切り替え。肩がきれいに落ちる袖。舞台の上で、その人が一番美しく見える線を探すのは、本当に楽しかった」
祖母の声には、後悔だけではないものが混じっていた。
懐かしさ。
誇り。
少しの痛み。
「悪いことをしているつもりはなかったの。実際、悪いことだけではなかったと思うわ。衣装を着て、自信を持てた子もいた。観客に覚えられた子もいた。線が、その人を助けることもあった」
祖母は自分の手を見た。
細い皺のある手。針を持つ指の形がまだ残っている手。
「でも、美しい線は、人を助けることも、人を縛ることもあるの」
レナは黙っていた。
「怖いのは、縛っているときほど、自分では助けているつもりになれることよ」
湯呑みの中のお茶は、少し冷めていた。
レナはそれを飲んだ。
苦かった。
「私、ミアを縛ったの?」
「分からない」
祖母は言った。
簡単に言わなかった。
「でも、その子がそう感じたなら、その感じたことは消せないわね」
レナは俯いた。
消せないことばかりだった。
ミアが見たこと。
ミアが思ったこと。
自分が嬉しかったこと。
自分が書いたこと。
自分が止めなかったこと。
どれも、なかったことにはできない。
「嫌いなものを持つとね」
祖母は言った。
「人は簡単に正義を手に入れた気になるの」
レナは顔を上げた。
「嫌いなもの」
「READFACE。LUMIA。顔の横に貼られる言葉。あなたはそれが嫌いなんでしょう」
「嫌い」
それはすぐに言えた。
「その嫌いは、間違っていないこともあるわ」
祖母は言った。
「嫌いだと思えるから、気づけることもある。怒れるから、守れるものもある。でも、嫌いなものがあると、自分の立っている場所が、何もしなくても正しく見えてしまうことがあるの」
レナはNo Tag Roomの画面を思い出した。
「分かる」
「刺さる」
「本物」
「安心する」
「レナの言葉、もっと読みたい」
そのどれもが、気持ちよかった。
「その正しさが、本当に誰かを守っているのか、自分を気持ちよくしているだけなのか、区別がつきにくくなる」
祖母は続けた。
レナは唇を結んだ。
「私は、気持ちよくなってた?」
「それは、あなたがいちばん知っているでしょう」
祖母は責めるようには言わなかった。
だから、余計に逃げられなかった。
レナは知っていた。
分かると言われたとき、嬉しかった。
もっと読みたいと言われたとき、口元を押さえた。
自分の似顔絵に True Eye と書かれたとき、胸が跳ねた。
本物を見る目。
それを嫌ではないと思った。
「美を見ることと、人を裁くことは、近い場所にあるのよ」
祖母は箸を置いた。
「近いから、離れているつもりでも、すぐ隣に立ってしまう」
「美を見ることが、だめなの?」
「だめじゃない」
祖母は首を横に振った。
「私も、今でも美しいものは好きよ。布の落ち方も、光の当たり方も、人がふっと笑ったときの線も。美しいと思うことまで捨てたら、たぶん何も見えなくなる」
祖母は少しだけ笑った。
「でも、美しいと思ったものに、すぐ名前をつけるのは怖い」
レナは、自分のノートを思い出した。
失われた完成。
名前だった。
顔の横に浮かべたタグではなくても、それは名前だった。
「名前は便利だから」
祖母は言った。
「早すぎると、人を閉じるの」
夕食は、少し冷めてしまった。
祖母は温め直そうかと聞いたが、レナは首を振った。冷めた大根は、温かいときより味が染みている気がした。煮崩れたところに箸を入れると、思ったより簡単に割れた。
食後、レナは部屋に戻った。
端末を机に置く。
通知はまだ残っている。
No Tag Room。
未読がいくつも増えていた。
レナは画面を開いた。
新しい投稿が並んでいる。
「もっと広げてもいいと思う」
「READFACE苦手な人、他にもいるはず」
「レナの言葉、ちゃんと届いた方がいい」
「誰かに救いになるかもしれない」
救い。
その言葉で、レナは指を止めた。
投稿欄を開く。
何かを書かなければならない気がした。
違う。
それは違う。
誰かを傷つけた。
一度止まろう。
私は間違っていた。
どれも、すぐに消した。
「私は間違っていた」と書けば、また自分が中心になる気がした。正しく反省している人として読まれる気がした。
「誰かを傷つけた」と書けば、名前を書かなくても、また誰のことか分かってしまうかもしれない。
「一度止まろう」と書けば、その場所に救われた子たちの言葉まで止めることになるのかもしれない。
何を書いても、誰かの顔の横に新しい言葉を置いてしまう気がした。
レナは投稿欄を閉じた。
次に、ミアとのチャットを開いた。
最後のやり取りは、短いものだった。
たぶん。
それが、今は遠い。
レナは文字を打った。
「話したい」
消した。
「ごめん」
消した。
「前の顔だけを本物にしたかったわけじゃない」
途中まで打って、指が止まった。
それは、説明だった。
言い訳に近かった。
今のミアにそれを送って、何をしてほしいのだろう。分かってほしいのか。許してほしいのか。自分はLUMIAとは違うと確認してほしいのか。
レナは全部消した。
何も送らなかった。
送らないことが正しいのかは分からなかった。
ただ、今すぐ届く言葉を、自分で信じられなかった。
端末を伏せる。
部屋が少し静かになった。
机の上にはスケッチブックがある。
レナはゆっくり開いた。
ラベルなしで見たもの
そのタイトルは、まだページの中央にあった。
嫌いではなかった。
今でも、嫌いにはなれなかった。
雨上がりの靴跡。
チョークの粉がついた先生の指。
クリームパンの端。
祖母の袖口の縫い目。
タグが拾わない笑い方。
それらを書いた自分まで、全部偽物にはしたくなかった。
でも、その同じノートに、失われた完成という言葉もある。
レナはそのページを開いた。
今日、昔の写真を見た。
頬が柔らかかった。
笑うと目が細くなった。
あれは、修正前ではなかった。
あれは、失われた完成だった。
何度読んでも、最後の一文だけがきれいだった。
きれいだから、怖かった。
レナは消しゴムを持った。
失われた完成、の上に置く。
消そうとして、手が止まる。
消したら、書かなかったことになるのだろうか。
ならない。
ミアが読んだことも、傷ついたことも、レナが書いたときに救われたことも、消えない。
レナは消しゴムを置いた。
代わりに、下の空白へ鉛筆を置く。何度か書きかけて、消した。消した跡の上から、もう一度、強い筆圧で書いた。
完成と呼んだ瞬間、
私はミアを過去に閉じ込めた。
そこまで書いて、レナは手を止めた。
強すぎる気もした。すべてを言い切りすぎている気もした。けれど、今はそれを薄める言葉の方が信用できなかった。
続きを書く。
ラベルを嫌いながら、
別のラベルを貼った。
鉛筆の芯が少しだけ鳴った。
それでも、あの頬を忘れたくない。
ここで、レナは長く止まった。
忘れたくない。
それはまだ本当だった。ミアの前の顔を忘れたくない。柔らかい頬も、笑うと細くなる目も、曲がったリボンも、クリームパンの端を遠いと言った声も。
でも、その「忘れたくない」は、ミアに戻れと命じることではないはずだった。
そうでなければ、いけなかった。
レナは、もう少しだけ書いた。
忘れたくないことと、
戻れと命じることは違うはずだ。
「はずだ」
その曖昧さが、今のレナには必要だった。
断定できない。断定したら、また誰かを閉じるかもしれない。
まだ分からない。
だから、まだ見る。
レナは鉛筆を置いた。
ページは、きれいではなかった。消した跡が残っている。線を引いた言葉もある。筆圧が強すぎるところも、弱すぎるところもある。人に見せるには、まだ整っていない。
それでよかった。
今は、人に見せるための言葉にしたくなかった。
レナは新しいページを開いた。
真っ白なページだった。
上の方に、ゆっくり書く。
急がないで見る。
その下に、何か続けようとした。
けれど、何も書けなかった。
書けないまま、しばらくページを見ていた。
空欄は、まだ空欄のままだった。
けれど、今度の空欄は、誰かを測るためのものではなかった。




