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第11話 違う顔、同じ私


 ミアは、レナに言いすぎたとは思っていなかった。


 けれど、言ったあとで何かが軽くなったわけでもなかった。


 翌朝、鏡の前に立つと、顔はいつも通りそこにあった。前より少し細くなった頬。光の当たり方で出る影。まだ自分に完全には馴染んでいない顎の線。ARレンズのセルフチェックは、何も知らないような顔でいつもの言葉を浮かべる。


Refined Contour(洗練された輪郭)

Mature Impression(成熟した印象)

Recognition Potential : Rising(認識可能性:上昇中)


 上がっている。


 ちゃんと、読まれやすくなっている。


 ミアは頬に触れた。


 前より、指が沈まない。もうそれには慣れてきたはずなのに、朝はまだ少しだけ驚く。自分の顔に触れているのに、ほんの一瞬、自分ではないものを確かめているような気がする。


 洗面所の外から、母が声をかけた。


「朝ごはん、食べる?」


「食べる」


 すぐに返事をした。


 返事が早すぎた気がして、ミアは鏡の中の自分を見る。


 食べる。


 たったそれだけの言葉に、誰かを安心させるための形が混じるようになった。母は最近、ミアが食べるかどうかを、食べている量よりも先に見ている。皿の上のトースト、ヨーグルト、サラダ。その配置には、気にしていないふりがきれいに並んでいる。


 ミアはそれをありがたいと思った。


 同じくらい、少し苦しいとも思った。

 

 

 学校では、何も壊れていないように一日が始まった。


 教室の入口で、誰かが前髪を直している。別の子が、進路フォームの提出状況を確認している。READFACEの仮スキャン結果を見せ合う声は、前より小さくなった。流行が落ち着いたのではない。声を張らなくても通じるくらい、もう日常に入ってしまったのだと思う。


 ミアの机には、文化祭ポスターの確認用データが届いていた。


 端末を開くと、候補写真が何枚か並んでいる。校舎、空、文化祭ロゴ、笑っている実行委員、準備中の教室。そして、自分の横顔。


 白い壁の前で、少し顎を上げている。


 リボンがわずかに曲がっている。


 その写真だけ、コメントが多かった。


「横顔が強い」

「学校感もあるけど、ちゃんと映える」

「LUMIAっぽさある」

「ポスター向き」

「この写真、目を引く」


 目を引く。


 ミアはその言葉を見て、しばらく指を止めた。


 嬉しかった。


 それは認めるしかなかった。


 昔のミアなら、集合写真の端で少しぼやけていた。ちゃんと写っていても、見返すときに誰かの目が先に別の子へ行く。柔らかい、優しそう、普通に可愛い。そういう言葉はもらえたかもしれない。でも、目を引く、とはあまり言われなかった。


 今は違う。


 横顔が強い。

 映える。

 ポスター向き。


 それは、ずっと欲しかった言葉に近い。


 近いのに、全部そのまま飲み込めない。


「ミアちゃん、これいいね」


 実行委員の子が、昼休みに端末を見せながら言った。


「そうかな」


「うん。候補の中だと一番目立つ」


 目立つ。


 その言葉も、少し嬉しい。


 ミアは笑った。


「リボン曲がってるけどね」


「そこが自然でいいんじゃない?」


 自然。


 ミアは一瞬だけ、箸を持つ手を止めた。


 その言葉に悪意はない。むしろ褒めている。分かっている。分かっているのに、自然と言われると、自分の今の顔が何でできているのかを急に思い出してしまう。


 手術。

 腫れ。

 保護者同意書。

 LUMIAの白い封筒。

 輪郭に引かれた線。

 術後の写真。


 その全部があって、それでも自然に見える。


 自然とは、何なのだろう。


「変かな」


 実行委員の子が言った。


 ミアは慌てて首を振った。


「ううん。大丈夫」


 大丈夫。


 最近、その言葉をよく使うようになった。


 大丈夫です。

 大丈夫だよ。

 うん、大丈夫。


 言うたびに、自分の中のどこかが少しずつ整えられていく。広告には使えないほど弱くなく、教室で浮くほど崩れてもいない形に。


 ミアは弁当箱の端を指でなぞった。


 レナとは、数日ほとんど話していなかった。


 避けているわけではない。


 そう自分には言っていた。


 朝は挨拶する。授業で必要ならプリントも渡す。菜月がそばにいれば、小さな会話に混ざることもある。でも、二人だけになる時間はなかった。ミアが作らなかったし、レナも作ろうとしなかった。


 それは少しありがたかった。


 すぐに謝られたら、きっと困った。謝られた瞬間、ミアは許すか許さないかを選ばなければならなくなる。そんなものを、あの翌日に渡されても持てなかった。


 でも、何も言われないのも、少し嫌だった。


 わがままだと思う。


 自分でもそう思う。


 言われたくない。

 でも、言われないと寂しい。


 レナは、何度かミアの方を見ていた。


 視線には気づいていた。


 けれど、声をかけてこなかった。端末にも何も来なかった。あの「たぶん」以降、二人のチャットは止まったままだった。


 ミアは時々、レナとのチャット画面を開いた。


 何も書かない。


 ただ開く。


 最後の言葉を見る。


 たぶん。


 それは頼りない言葉だった。


 でも、その頼りなさが、前は少し好きだった。

 

 

 放課後、ミアは文化祭ポスターの確認で少し遅くなった。


 実行委員室の端末には、自分の写真が大きく表示されている。白い壁。横顔。曲がったリボン。画面の横には、READFACE補助分析が試験的に表示されていた。


Camera Adaptability : High(撮影環境への適応度:高)

Recognition Lead Potential : A(認識誘導可能性:A)

Youthful Refinement(若さを残した洗練)


 ミアはそれを見て、少しだけ気分が悪くなった。


 でも、同時に、いい評価だとも思った。


 その二つが同時にあることに、まだ慣れない。


「これでほぼ決まりかな」


 実行委員のひとりが言った。


「ミアちゃんの写真、目に止まるし」


 誰かの目に止まりたいと思っていた。


 背景みたいなのが嫌だった。


 なのに、目に止まると言われるたびに、自分がどこかへ貼り出されていくような気がする。

 

 

 帰り道、駅前のスクリーンにLUMIAの広告が流れていた。


 今日はミアではなかった。


 別の人の横顔。似た白さ。似た影。似た言葉。


 ミアは立ち止まらなかった。


 自分の写真が流れる日もある。知らない人がそれを見て、予約ボタンを押すかもしれない。誰かが自分の顔を見て、端末の画面を開くかもしれない。


 それはもう起きている。


 LUMIAの中で。

 文化祭ポスターの中で。

 知らない人の端末の中で。


 ミアの顔は、自分の知らない場所へ少しずつ運ばれている。


 その中には、自分で頷いたものもある。カウンセリングに行くと決めたのは自分だ。写真の使用同意にも、自分で目を通した。文化祭ポスターだって、嫌なら断れたのかもしれない。実際には断らなかったし、選ばれて少し嬉しかった。


 だから、全部を誰かのせいにはできない。


 そのことが、余計にややこしかった。

 

 

 家に帰ってから、ミアは端末を机に置いた。


 制服のまま、ベッドの端に座る。部屋には小さなぬいぐるみがいくつか残っている。昔から置いてあるものだ。高校生の部屋にしては少し幼い気もするけれど、捨てるタイミングを失っている。


 捨てる。


 またその言葉が出てくる。


 前の顔を捨てた。


 誰かがNo Tag Roomでそう書いていた。


 ミアは、自分が前の顔を捨てたのかどうか分からなかった。


 嫌だった日はある。


 Low Memorability(記憶されにくい顔)と出た日。

 Soft Cheek Warning(柔らかな頬への注意)と出た日。

 Juvenile Volume Detected(幼さの残る立体感を検出)と出た日。


 あのとき、自分の顔が少し嫌いになった。


 確かに嫌いになった。


 でも、嫌いだったからといって、全部捨てたかったわけではない。


 クリームパンの端が遠いと言った日。笑って、レナに変な顔をされた日。リボンを何度直しても曲がっていた日。写真の中で頬が柔らかくて、目が細くなっていた日。


 その顔も、自分だった。


 でも、今の顔も自分だ。


 その二つを、誰かが片方だけ選ぶたびに、ミアは半分ずつ削られる気がした。


 端末を手に取る。


 レナとのチャットを開く。


 しばらく、何も打てなかった。


 画面の下で、カーソルだけが点滅している。


 ミアは文字を打った。


「話したい」


 違う気がして、消す。


「この前のことだけど」


 それも硬すぎて、消す。


「怒ってるわけじゃない」


 嘘ではないけれど、嘘に近い。


 怒っている。

 怒っているだけではない。


 だから消す。


「私もよく分からない」


 それは本当だった。


 でも、最初に送る言葉としては重すぎた。


 消す。


 ミアは端末を膝の上に置いて、しばらく天井を見た。部屋の照明が少し眩しい。ARレンズを外すと、世界はほんの少しだけ輪郭を失う。タグが消え、スコアが消え、顔の横の言葉が消える。


 でも、自分の中に残った言葉までは消えない。


 失われた完成。


 その言葉は、まだそこにあった。


 ミアはもう一度、端末を持った。


 短く打つ。


「会える?」


 送信した。


 送った瞬間、心臓が少し変な動きをした。


 既読はすぐにはつかなかった。


 ミアは端末を伏せた。伏せたのに、数秒後また見る。まだ既読はない。もう一度伏せる。今度は少し待つ。机の上のシャーペンを転がし、ぬいぐるみの耳を直し、意味もなく学生証ケースの端を指でなぞる。


 通知が鳴った。


 レナからだった。


「うん」


 それだけだった。


 ミアは、息を吐いた。


 その「うん」は短い。


 短すぎる。


 でも、長い言葉が来なかったことに、少しだけ助けられた。

 

 

 二人が会う場所は、ミアが決めた。


 駅裏の古いベンチ。


 駅前のスクリーンからは少し外れていて、LUMIAの白い広告も見えない。完全に何もない場所ではない。自販機はあるし、古いフェンスには誰かが貼ったシールの跡が残っている。通り過ぎる人の顔にREADFACEタグが浮かぶこともある。


 でも、駅前よりはずっと静かだった。


 ベンチの端には、雨の跡が少し残っていた。


 ミアはハンカチで軽く拭いた。


「そこ、濡れてる」


 後ろから声がした。


 レナだった。


「知ってる」


 ミアは答えた。


 レナは少しだけ困った顔をした。


 数日前なら、そこで何か軽いことを言えたかもしれない。濡れてるなら座るなとか、知ってるなら拭く前に言ってとか、そういうどうでもいい言葉を。


 でも、今日は二人ともすぐには続けられなかった。


 ミアはベンチに座った。


 レナも少し間を空けて座る。


 二人の間には、鞄ひとつ分くらいの隙間があった。


 自販機の明かりが、地面にぼんやり落ちている。遠くで電車が通る音がした。駅前の人の流れはここまで来ると少し薄くなり、代わりに換気扇の低い音や、どこかの店の裏口が閉まる音が聞こえる。


「寒くない?」


 レナが聞いた。


「少し」


「何か買う?」


 ミアは自販機を見た。


 温かいお茶。缶コーヒー。甘いカフェオレ。水。よく分からないエナジードリンク。


「カフェオレ」


「飲むんだ」


 レナが言った瞬間、少し気まずそうな顔をした。


 ミアはそれを見て、少しだけ笑った。


「飲むよ」


「いや、変な意味じゃ」


「分かってる」


 本当は、ほんの少しだけ刺さった。


 でも、刺さったことを全部その場で出していたら、会話はすぐに終わってしまう。


 レナは立ち上がって、自販機でカフェオレと温かいお茶を買った。戻ってきて、カフェオレを渡してくれる。缶は温かかった。ミアは両手で包んだ。


「ありがと」


「うん」


 また「うん」。


 レナらしい。


 ミアは缶の飲み口を開ける前に、少しだけ指でなぞった。こういう端を触る癖は、たぶんレナも知っている。知っていて、今は何も言わない。


 そのことにも少し救われた。


「この前」


 レナが言った。


 ミアは缶を持ったまま、横を見た。


 レナは膝の上で両手を握っている。カーディガンの袖口が少しだけ指にかかっていた。前に直してもらったらしい場所を、レナは無意識に押さえている。


「ごめん」


 レナは言った。


 ミアはすぐには返事をしなかった。


 謝ってほしくなかったわけではない。


 でも、謝られると、許すか許さないかを選ぶ場所に立たされる。その場所に立つのは、思っていたより重かった。


「ごめんで終わる話じゃないよね」


 ミアが言うと、レナは小さく頷いた。


「うん」


「でも、ごめんって言われたくなかったわけでもない」


「うん」


「その、うんばっかりなの、ちょっと困る」


 レナは少しだけ目を伏せた。


「ごめん」


「それも困る」


 言ってから、ミアは少し笑った。


 レナも、本当に少しだけ笑った。


 笑えた。


 でも、その笑いはすぐに消えた。


 ミアは缶のカフェオレを開けた。甘い匂いが少しだけ上がる。こういう甘いものを飲むと、どこかでまだ罪悪感が出る。顔を変える前より、むしろ今の方が増えた気もする。綺麗になったなら、それを保たなければいけない。読まれる顔になったなら、その読みやすさを落としてはいけない。


 誰もそんなことを直接言っていない。


 でも、言葉は直接言われなくても残る。


「戻りたいわけじゃないんだよ」


 ミアは言った。


 レナが顔を上げる。


 ミアは缶を見つめたまま続けた。


「前の顔に戻りたいって言いたいわけじゃない」


 声は思ったより落ち着いていた。


 言い始めるまでに何日もかかったからかもしれない。


「戻ったら、前の私は負けだったって認めるみたいでしょ」


 レナは何も言わなかった。


「READFACEに傷ついて、LUMIAに行って、痛いのも怖いのも我慢して、写真撮られて、広告に出て、知らない人に見られて。それでやっぱり前に戻りたいって言ったら、今までの私は何だったのってなる」


 ミアはカフェオレを一口飲んだ。


 甘かった。


 思ったより甘くて、少しだけ安心した。


「だから戻れない。戻りたくない。進むしかないって思う」


 自販機の光が、缶の側面に反射している。


「でも、進むたびに、どこまでが私だったのか分からなくなる」


 レナの指が、袖口を握った。


 ミアはそれを見ないふりをした。


「今の顔を成功例にされるのも嫌。LUMIAの広告で、誰かの予約ボタンを押す理由になるのも怖い。文化祭ポスターで、目を引く顔として使われるのも、嬉しいけど苦しい」


 言葉は、思ったより出てきた。


 出てきたら止められなかった。


「でも、前の顔だけを本物にされるのも嫌。あれが完成だったって言われるのも嫌。変えた私を、全部偽物にされるのも嫌」


 レナは黙っている。


 ミアは少しだけ笑った。


「わがままだよね」


「そうは思わない」


 レナはすぐに言った。


 ミアは横目でレナを見る。


「早い」


「え?」


「そういうの、早く言わなくていい」


 レナは口を閉じた。


 ミアは缶を両手で包み直した。


「わがままだと思うよ。自分でも。見られたいのに、貼り出されると怖い。変わりたかったのに、変わったことだけで読まれたくない。前の顔が嫌だった日もあるのに、前の顔をなかったことにもされたくない」


 自分で言いながら、全部本当だと思った。


 全部本当だから、矛盾する。


 ミアは矛盾している自分を、少しだけ恥ずかしく思った。でも、今ここで整った言葉にしてしまったら、それもまた別の広告みたいになる気がした。


「私」


 レナが言った。


 その声は、少し硬かった。


「昔のミアの顔が、好きだった」


 ミアは息を止めなかった。


 その言葉は、前ならきっともっと痛かった。


 でも、今は少し違った。


 レナは続ける。


「柔らかい頬とか、笑うと目が細くなるところとか、リボンが曲がってるところとか。そういうのが好きだった」


 ミアは缶の飲み口を見ていた。


「でも、それを本当のミアって呼ぶのは違うと思った」


 レナの言葉は、ところどころで止まった。


 綺麗な謝罪ではなかった。


「忘れたくないことと、戻れって言うことは、違うはずだと思った。でも、その違いを、まだうまく持ててない」


 ミアは、その「はずだ」という頼りなさを聞いた。


 断定されなかったことに、少しだけ救われた。


 それでも、全部受け取れるわけではなかった。


「それも、レナの見る話なんだね」


 ミアは言った。


 責めるつもりではなかった。


 でも、少しだけ刺さる言葉だとは分かっていた。


 レナは止まった。


 逃げなかった。


「うん」


 レナは言った。


「そうだと思う」


 ミアは少し驚いた。


 レナは続けた。


「私が見る話。私が忘れたくない話。だから、それをミアに押しつけたら、また同じになる」


「うん」


 今度はミアが言った。


「だから」


 レナは言葉を探した。


「ミアが嫌なら、止まる」


「見るのを?」


「それも含めて」


 レナは缶のお茶を両手で持っている。たぶんもう熱くないのに、まだ離さない。


「でも、見るのをやめればいいのかも、まだ分からない。見ないふりをするのも違う気がする。でも、ミアのことを、私の言葉の材料にするのは違う」


 ミアはしばらく黙った。


 自販機の光が、少しだけちらついた。


 ここまで来ても、自分の中の言葉はまだ整っていなかった。


 でも、ひとつだけ、はっきりしているものがあった。


「私のことを材料にするのは、やめて」


 ミアは言った。


 言ってしまうと、少し怖かった。


 レナはすぐに頷いた。


「分かった」


 短かった。


 でも、その短さは嫌ではなかった。


「No Tag Roomは?」


 ミアは聞いた。


 レナの指が、缶の側面を少し強く握った。


「分からない」


 正直な声だった。


「消せば済むとも思えない。あの場所に救われた人がいるのも、たぶん本当だから。でも、あのままにしていいとも思ってない」


「うん」


「ミアのことは、もう書かない。使わない。消せるものは、消す」


「全部消せる?」


 ミアが聞くと、レナは少しだけ顔を歪めた。


「分からない」


 その答えに、ミアは少しだけ息を吐いた。


 分からない。


 本当は、「全部消す」と言ってほしかったのかもしれない。


 でも、言われたら言われたで、それを信じられたかどうかは分からない。端末の中に入ったものは、簡単にはなくならない。誰かが読んだ言葉も、ミアが見た瞬間も、消えない。


 消せないものを、消すと言われるよりは、分からないと言われる方が少しだけましだった。


「私も、分からない」


 ミアは言った。


 レナがこちらを見る。


「何をしてほしいのか、自分でも分からない。謝ってほしいのか、消してほしいのか、何も言わないでほしいのか。全部少しずつ違う」


 缶の中身は、まだ半分くらい残っている。


「でも、私のことを、前の顔だけで覚えないで」


 レナは頷いた。


「今の顔だけで、成功例みたいにも見ないで」


「うん」


「変えたから偽物、とも思わないで」


「思わない」


 今度は少し早かった。


 ミアは横目で見た。


 レナはすぐに言い直した。


「思わないように、急いで決めない」


 その言い方に、ミアは少しだけ笑った。


「ややこしい」


「ごめん」


「謝らなくていいところまで謝るの、やめて」


「……うん」


 また、うん。


 ミアはカフェオレを飲んだ。


 甘さが少し薄くなっている気がした。缶が冷めてきたからかもしれない。


「明日、小テストだっけ」


 ミアは言った。


 レナは一瞬、まばたきをした。


 それから、少しだけ考える顔をした。


「たぶん」


 ミアは笑った。


 今度は少し、ちゃんと笑えた。


「レナのたぶん、信用できないんだよね」


「私も信用してない」


「じゃあ言わないで」


「他に言えることがなかった」


 その返事が、少しだけレナらしくて、ミアはまた笑った。


 笑うと頬が動く。


 前とは違う動き方をする。


 でも、それももう自分の顔だった。


 駅裏のベンチは、少し冷たかった。


 二人の間には、鞄ひとつ分の隙間がある。


 ミアは、それを詰めなかった。


 レナも、詰めなかった。


 電車の音が、駅の向こうから遅れて届く。自販機の光が、足元にぼんやり落ちている。誰かが遠くで笑いながら通り過ぎ、その顔の横に短いタグが浮かんで、すぐに見えなくなった。


 世界は、まだ顔を読んでいる。


 レナも、ミアも、きっとまだ何かを読んでしまう。


 それでもミアは、すぐには立ち上がらなかった。


 隣にいるレナも、立ち上がらなかった。


 鞄ひとつ分の隙間は、そのまま残っていた。


 その隙間を、今はまだ、埋めなくていい気がした。

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