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第12話 まだ見てる


 文化祭のポスターは、結局、ミアの写真が使われることになった。


 決まったのは、文化祭前の水曜日だった。


 放課後の校舎は、いつもより少しだけ雑だった。廊下には段ボールが積まれ、教室の後ろでは誰かがガムテープを歯で切ろうとして先生に注意されている。水道の近くでは、絵の具を洗ったあとの水が薄い灰色になって流れていた。模造紙の匂いと、乾きかけのアクリル絵の具の匂いと、どこかのクラスが試しに作った焼きそばソースの匂いが、階段の踊り場で混ざっている。


 その中で、ミアの横顔だけが、端末の画面の中で妙に静かだった。


 白い壁の前に立っている。少し顎を上げて、斜めから入る光を受けている。曲がったリボンも、そのまま残っていた。最初の案にあったREADFACE風のタグや、Beauty Indexを思わせる数字は、最終デザインでは外された。


 ただ、顔は残った。


 その顔が、人の視線を止めることも。


「タグ、なくなったんだね」


 美術室の端末画面を覗きながら、ミアが言った。


「うん」


 レナは頷いた。


「実行委員が、そっちは説明っぽすぎるって」


「ふうん」


 ミアは画面の中の自分を見る。横顔。少し細い顎。斜めから入る光。学校のポスターにしては、少し広告みたいにも見える。


「嫌?」


 レナは聞いた。


 前なら、たぶんすぐに「使わなくてもいいと思う」と言った気がする。今は、そう言えなかった。ミアが何を嫌がるのか、何を少し嬉しいと思うのか、レナには決められない。


 ミアは少し考えた。


「嫌だけじゃない」


 それから、リボンのあたりを指で拡大した。


「ここ曲がってるの、残したんだ」


「直す案もあったけど」


「直さなくてよかったかも」


 ミアはそう言って、端末から目を離した。


 レナはそれ以上、何も言わなかった。


 言葉を足せば、何かを決めてしまいそうだった。




 文化祭の準備は進んでいた。廊下には「二年三組 喫茶展示」と書きかけた看板が立てかけられている。誰かが貼ったマスキングテープが途中でよれて、床に斜めの線を作っていた。隣の教室からは、段ボールを切る音と、たぶん作業より話す方が多い女子たちの笑い声が聞こえる。男子が脚立を運んで、先生に「走らない」と注意される。


 普通の文化祭前だった。


 顔の横にタグが浮かぶ街でも、放課後の校舎には紙くずが落ちるし、絵の具は乾かないし、誰かは必ずガムテープをなくす。


 READFACEの進路支援プログラムも、もう特別な話題ではなくなっていた。誰かが仮スキャンを見せても、大きな声は上がらない。便利なものは、驚かれなくなってからが強い。


 LUMIAの広告も、まだ駅前で光っている。


 世界は、何も終わっていない。


 レナはそのことを、少しずつ分かるようになっていた。


 No Tag Roomの通知は減っていた。


 最初の頃は、放課後になるたび端末が何度も震えた。誰かが写真を上げる。誰かが「分かる」と返す。誰かがレナのノートの言葉を引用する。小さな部屋は、狭い教室に置いたストーブみたいに、近づくと熱かった。


 けれど、レナが新しい文章を書かなくなると、その熱は少しずつ下がっていった。


 投稿が止まったわけではない。


雨上がりの廊下の写真。


タグを切った集合写真。


誰かの横顔ではなく、机に置かれた手の写真。


 そういうものは、まだぽつぽつ上がる。


 ただ、前みたいにすぐ「分かる」が重ならなくなった。既読だけがついて、そのまま夕方になることが増えた。誰かが書きかけて消したのか、入力中の表示だけが一瞬出て、消えることもあった。


 部屋はまだある。


 でも、そこにいた人たちの呼吸が、前より聞こえるようになっていた。


 レナは、スケッチブックの表紙に貼っていた紙を一度はがした。


 そこには、前のタイトルが残っていた。


ラベルなしで見たもの


 嫌いではなかった。


 その言葉を書いたとき、レナは本当にそうしたかった。顔の横に出るタグではなく、点数でもなく、誰かの市場価値でもなく、もっと小さなものを見たいと思った。雨の跡。曲がったリボン。チョークの粉。クリームパンの端。笑う前に少しだけ迷う口元。


 その気持ちまで、全部間違いにしたくはなかった。


 でも、今そのタイトルを見ると、少しだけ強すぎた。


 レナは新しい紙を切った。


 白い紙を、前のタイトルの上にまっすぐ重ねる。完全には隠れない。角度を変えると、下にある古い文字の影が少しだけ透ける。


 その上に、ゆっくり書いた。


まだ見ているもの


 書いたあと、しばらくその文字を見ていた。


 ラベルなしで見た、と言い切ることは、もうできなかった。


 ただ、まだ見ている。


 それくらいなら、今のレナにも書けた。


 新しいノートには、以前より不安定な文章が増えた。


 きれいに刺さる言葉ではなかった。短くて強い怒りでもなかった。読めばすぐに誰が悪いのか分かる文章でもない。書いている途中で迷い、迷ったまま残したような行が増えた。


広告のミアは強い。


強いものは、美に似る。


でも、美に似るものが、すべて美とは限らない。


それでも、強さをすべて醜さに分類するのは、逃げかもしれない。


祖母の作った昔の衣装は美しい。


でも、その美しさは誰かの呼吸を狭くした。


美しいものが、人を傷つけないとは限らない。


ミアの昔の頬を忘れたくない。


でも、思い出を正義にすると、今のミアを消してしまう。


ラベルは危険だ。


だが、反ラベルもまたラベルになる。


私はまだ、その外へ出られていない。


 書いたあと、レナは何度も読み返した。


 分かりにくいと思った。


 前の方が、たぶんずっと強かった。


 失われた完成。


 その一文は、今でもきれいだった。きれいで、分かりやすくて、怒りがあって、誰かの胸にまっすぐ刺さる形をしていた。


 今の文章は違う。


 立ち止まる。曲がる。戻る。言い切らない。


 だから、前ほど読まれなくなるのは分かっていた。




 放課後、美術室で菜月がノートを読んだ。


 ページをめくる手が、少し遅い。読みにくいのだと思う。前はもっと早かった。読んだ瞬間に「分かる」と言えた。今は、読み終わってからも菜月はしばらく黙っている。


 窓の外では、文化祭用の紙花を持った下級生が廊下を走っていた。薄いピンクと黄色が束になって揺れている。美術室の机には、切り損ねた色紙や、乾きかけの絵の具皿が残っていた。誰かが水道を止め忘れていて、細い水音が奥から聞こえる。


「前の方がよかった」


 菜月は言った。


 レナは頷いた。


「うん。前の方が分かりやすかった」


 菜月は少し眉を寄せる。


「もっと刺さったっていうか」


「うん」


「今のは、結局どっちなの?」


「分からない」


 レナが答えると、菜月は端末を机に置いた。


「これ弱くない?」


 レナは少し考えた。


 それから、頷いた。


「弱いと思う」


 菜月は退屈そうな顔をした。


 少しだけ、困ったようにも見えた。


「そこ、認めるんだ」


「うん」


「反論しないの?」


「できない」


「……めんどくさ」


 菜月は椅子の背にもたれた。


 その声には、怒りはなかった。けれど、前みたいな熱もなかった。菜月は、熱いものを期待していたのだと思う。嫌なものを嫌だと言い切ってくれる言葉。自分のもやもやに、形をつけてくれる言葉。


 レナは、それをもう簡単には渡せない。


「でも」


 菜月は言った。


「読まないとは言ってない」


 レナは顔を上げた。


 菜月は少し気まずそうに、ノートの端を指で叩いた。


「弱いけど、なんか残るし」


 その言い方が菜月らしくて、レナは少しだけ笑った。


「ありがとう」


「褒めてない」


「うん」


「その、うんも最近多い」


「移ったのかも」


「誰に」


 レナは答えなかった。


 菜月は少しだけ笑って、それ以上聞かなかった。




 その日から、ノートを読む人は減った。


 No Tag Roomの投稿も減った。


 前はすぐに重なっていた「分かる」や「刺さる」は、あまり流れなくなった。既読だけがついて、何も返ってこないことも増えた。誰かがそっと抜けた通知もあった。抜けた理由は分からない。飽きたのかもしれないし、分かりにくくなったのかもしれないし、もう必要なくなったのかもしれない。


 でも、完全には消えなかった。


 数人だけが残った。


「昨日、予約画面まで開いて、閉じた」


 そう書いた子がいた。


 しばらく誰も返さなかった。


 その沈黙は、前より少し長かった。けれど、誰も茶化さなかった。誰かが「分かる」とすぐに押すこともなかった。


 やがて、別の子が短く書いた。


「読んだ」


 また少し時間が空いた。


「美しいって言葉を、嫌いになりたくない。でも、信じるのも怖い」


 そう投稿した子もいた。


「私はもう変えたあとだから、戻るとか戻らないとか言われると、しんどい」


 その投稿には、またしばらく誰も返信しなかった。


 少し経ってから、菜月が短く返した。


「読んだ」


 それだけだった。


 レナは、その「読んだ」を見て、少し息を吐いた。


 前なら、もっと何かを書きたくなったかもしれない。分かる、とか、ひどいよね、とか、あなたは悪くない、とか。強くて正しい言葉を置きたくなったかもしれない。


 でも、今は何も書かなかった。


 読んだ。


 その一言で足りるときもあるのだと思った。


 ミアも、ときどきノートを読みに来た。


 毎日ではない。


 何かを言うためでもない。


 美術室に来て、レナの机の横に立ち、ノートの開いているページを少しだけ見る。読む日もあれば、読まない日もある。ミアが来ると、レナはページを隠さない。ただ、ミアが嫌な顔をしたら閉じられるように、手だけはノートの近くに置いている。


 それにミアは気づいているようだった。


 ある日、ミアはノートのタイトルを見て言った。


「まだ見ているもの」


「うん」


「長い」


「そう?」


「レナっぽい」


「褒めてる?」


「分からない」


 ミアはそう言って、少しだけ笑った。


 その笑い方は、前とは少し違う。


 頬の動きも、目の細まり方も、前と同じではない。


 でも、それはもう、ミアの顔だった。




 その週末、祖母が昔の雑誌を処分しようとしていた。


 居間の隅に、古い段ボール箱が三つ出ている。箱の口は少し潰れていて、角には昔の引っ越し伝票の跡が残っていた。中には舞台雑誌や衣装の資料、切り抜き、古い公演パンフレットが詰まっている。紙は黄ばんでいて、ページをめくると、乾いた埃と古いインクの匂いがした。


 写真の中の女優たちは、みんな細く、美しく、決められた線の中で笑っていた。


 腰が細く見える切り替え。首が長く見える襟。肩から落ちる布。照明を受けて、舞台の上だけで完成する影。


 レナは、きれいだと思った。


 きれいだと思ってしまった。


 祖母は雑誌を数冊ずつ重ね、古い紐で縛ろうとしていた。指先は慣れていて、紙の角をそろえる動きだけで、昔この人がどれだけ布と線を扱ってきたのかが分かった。


「これ、全部出すの?」


 レナが聞くと、祖母は頷いた。


「もう見ないと思って」


「燃やすの?」


「昔の人は、そう言うでしょう。燃やしてしまいたいって」


 祖母は少し笑った。


「実際には資源回収だけどね」


 レナは箱の中をもう一度見た。


 美しかったものが、紙の中でまだ美しいまま残っている。


 傷つけたものが、傷つけた顔をしていないまま残っている。


「残した方がいい」


 レナは言った。


 祖母は手を止めた。


「なぜ?」


「失敗の証拠だから」


 祖母は少し笑った。


「厳しいね」


「おばあちゃんが言ったんだよ。簡単に綺麗にするなって」


 祖母は何も言わず、紐をほどいた。


 雑誌を箱に戻していく。ひとつずつ、紙の角をそろえる。手つきは丁寧だった。処分しようとしていたものなのに、粗く扱わない。


「失敗だけだったわけでもないのよ」


 祖母は言った。


「分かってる」


 レナは答えた。


「美しかったんでしょう」


「ええ」


「でも、傷つけたんでしょう」


 祖母は少しだけ目を伏せた。


「ええ」


 レナは白い紙を一枚持ってきた。


 黒いペンで、段ボール箱の上に貼る文字を書く。


美しかったもの/傷つけたもの


 紙を箱に貼ると、祖母がそれを見た。


「いいラベルだね」


 レナは顔をしかめた。


「ラベルじゃん」


「そうだよ」


 祖母は笑った。


「人はラベルなしでは生きられない。ただ、それを神様にしないことだ」


 レナはその言葉を、しばらく持っていた。


 台所の方から、湯が沸く音が聞こえる。窓の外では、近所の子どもが誰かを呼んでいた。段ボール箱の中の女優たちは、紙の上で昔の笑顔のまま止まっている。


 人はラベルなしでは生きられない。


 ただ、それを神様にしないこと。


 たぶん、大事な言葉だった。


 レナのノートに書けば、きれいに収まる言葉だった。きっと誰かが読んで、分かる、と言うかもしれない。菜月なら、今度は少し刺さると言うかもしれない。


 でも、レナは書かなかった。


 まだ早い気がしたからだ。


 言葉が正しすぎるときほど、書く前に少し置いた方がいい。


 そう思えるようになったことを、レナは少しだけ不思議に思った。


 顔は戻らなかった。


 戻れなかった。


 それは、誰かが悪いからというだけの話ではなかった。LUMIAのせいだと言えば、少しは分かりやすい。READFACEのせいだと言えば、もっと大きな話にできる。ミア自身が選んだのだと言えば、本人の責任にできる。


 でも、どれか一つだけでは足りなかった。


 顔は戻らない。


 その事実だけが、どの言葉よりも先にあった。


 ただ、ミアは前より少しだけ、広告以外の顔を見せるようになった。


 疲れた顔。苛立った顔。笑いかけて途中でやめる顔。泣く前に目をそらす顔。何かを言いたいのに、言わない顔。


 レナはそれを見た。


 美しいかどうかを、急がなかった。




 ある夕方、二人は駅裏のベンチに座っていた。


 前に座ったときより、風は少しぬるかった。自販機の下には、誰かが落としたレシートが丸まっている。線路の方から、電車のブレーキ音が遅れて届いた。


 駅前の巨大スクリーンでは、また新しい女優が映っていた。


 頬は深く沈み、目元は完璧で、タグは金色に輝いている。


Verified Beauty(認証された美)


 人々は見上げて言った。


「綺麗」


「完璧」


「ああなりたい」


 ミアはその声を聞いて、少しだけ頬に触れた。


「私も、誰かにああ言わせてるんだよね」


 レナはスクリーンを見た。


 白い光の中で、女優は笑っている。正確には、笑っている形をしている。顔の横に浮かぶ金色のタグは、夕方の街の色から少しだけ浮いていた。


「うん」


 レナは答えた。


 ミアは小さく息を吐いた。


「最低だね」


「それだけではないと思う」


「慰め?」


「違う」


 レナはすぐには続けなかった。


 前なら、たぶん急いで否定していた。ミアは悪くない、と言った。LUMIAが悪い、READFACEが悪い、こんな社会が悪い、と言った。そう言えば、ミアを少しは守れる気がしたかもしれない。


 でも、今はその言葉だけでは足りないことを知っていた。


「あの広告を見て傷つく人はいる。ミアの顔に影響される人もいる。それは本当だと思う」


 ミアは黙った。


「でも、ミアだけが悪いわけじゃない。悪くないわけでもない。私も、それを見て怒って、ミアを別の形で使った。おばあちゃんも昔、同じようなことをした」


「じゃあ、みんな悪いの?」


「たぶん、みんな少しずつ関係してる」


「救いがないね」


「うん」


 レナは頷いた。


「でも、関係してるなら、少しずつ見方を変えることもできるかもしれない」


 ミアは小さく笑った。


「それ、希望?」


「違うと思う」


「じゃあ何?」


 レナはしばらく考えた。


 巨大スクリーンの光が、駅裏のベンチまでは届かない。けれど、完全に届かないわけでもない。ビルのガラスに反射した白が、フェンスの端に薄く残っている。


「作業」


 ミアは今度こそ笑った。


 その笑顔は広告には使えなかった。


 美しくも、正しくも、強くもなかった。


 でも、そこにはミアがいた。


 少なくとも、レナにはそう見えた。


 街のスクリーンは輝き続けた。


 ラベルは消えなかった。人々はまだ顔を読み違えた。美はまだ市場で売られた。傷ついた人が、また誰かを傷つける標準になることもあった。


 何も解決しなかった。


 それでもレナは、ノートを開いた。




 文化祭の前日、美術室には遅くまで人が残っていた。


 段ボールの看板、乾ききっていない絵の具、床に落ちたマスキングテープ。机の下には、誰かが丸めた下描き用紙が転がっている。窓際の棚には、洗いきれていない筆がコップに立てられ、底に薄い青の水が溜まっていた。


 廊下では、実行委員がポスターを貼っている。


 ミアの横顔が、夕方の校舎の壁に並んだ。


 タグはない。


 数字もない。


 ただ、顔がある。


 それでも、通りかかった生徒は一瞬そちらを見る。


 レナも見た。


 ミアも見た。


 廊下の窓から入る光が、ポスターの表面で少し揺れている。誰かが横を通るたび、紙の端がほんのわずかに浮いた。曲がったリボンは、印刷されても曲がったままだった。


「目立つね」


 レナが言った。


 ミアは少しだけ肩をすくめた。


「うん、目立つ」


「嫌?」


 ミアは少し考える。


「嫌だけじゃない」


 同じ答えだった。


 でも、前より少し軽く聞こえた。


 そのあと、ミアは美術室に入ってきた。


 菜月は端末を見ながら、文化祭の案内文を直している。美術部の三年生は、看板の端に絵の具を塗り足していた。どこかのクラスから借りてきたらしい延長コードが床を這っていて、誰かがまたいだ拍子に小さく揺れた。


 レナは机の上で、ノートを開いていた。


 ミアは、レナの横に立った。


「見ていい?」


 レナは少しだけ手を止めた。


 それから、ノートをミアの方へ向ける。


「うん。でも、嫌だったら閉じて」


 ミアは頷いた。


 ページをめくる。


 ゆっくりと。


広告のミアは強い。


強いものは、美に似る。


 ミアの指が、その行の近くで止まった。


 でも、何も言わなかった。


 次のページ。


ミアの昔の頬を忘れたくない。


でも、思い出を正義にすると、今のミアを消してしまう。


 ミアは少しだけ息を吸った。


 レナは何も言わなかった。


 窓の外で、誰かが笑った。廊下に貼られたポスターの前で、何人かが立ち止まっている。美術室の中は、絵の具と紙と少し冷めた缶コーヒーの匂いがした。


 ミアはページを戻し、空いている場所を探した。端の方に、まだ何も書かれていない余白があった。


「書いていい?」


 レナは一瞬、驚いた顔をした。


 それから、鉛筆を渡した。


「うん」


 ミアは鉛筆を受け取った。


 少し迷う。


 鉛筆の先が、紙の上で一度だけ止まった。ミアは学生証ケースの端を触る代わりみたいに、鉛筆を軽く回した。


 それから、空白に書いた。


私は顔を変えた。


でも、顔を変えた私を、全部偽物にしないでほしい。


 書き終わると、ミアは少し顔を赤くした。


「長い」


 レナは文字を見た。


「長いね」


「レナのノートだから、うつった」


「それは責任取れない」


「取ってよ」


「何を」


「長さ」


 レナは少し笑った。


 ミアも笑った。


 菜月が離れた机から顔を上げる。


「何、楽しそう」


「長いって話」


 ミアが言うと、菜月はノートを覗きに来た。


 ミアの書いた行を見て、少し黙る。


「長いね」


「菜月まで言う?」


「でも、悪くない」


 菜月はそう言って、すぐに自分の端末へ戻った。


 その言い方が少し雑で、でも優しかった。


 ミアは鉛筆を持ったまま、もう一度ノートを見た。


「もっと短くするとしたら」


 レナが聞いた。


 ミアは首を傾げる。


「うーん」


 少し考えてから、ページの下の方に鉛筆を置いた。


 たった一行、短く書く。


まだ見てる


 レナはその文字を見た。


 何を。誰を。どこまで。


 聞きたくなった。


 でも、聞かなかった。


 窓の外では、文化祭のポスターが夕方の光に少しだけ揺れていた。顔の横に、もうタグは描かれていない。けれど、顔はそこにある。誰かが見る。誰かが何かを思う。きれいだと思うかもしれない。強いと思うかもしれない。苦しいと思うかもしれない。何も思わず通り過ぎるかもしれない。


 それを、レナはもう決められない。


 ミアも、きっと決められない。


 レナはページを閉じなかった。


 ミアも、閉じてとは言わなかった。


 菜月が向こうの机で、「この案内文、まだ弱いんだけど」と文句を言っている。三年生が「弱くても読めればいいよ」と返す。廊下では、誰かがポスターの位置を直している。端末の通知が、小さく一度だけ震えた。


 世界はまだ、顔を読む。


 言葉も、きっと貼られる。


 それでも、ページの下にはミアの字が残っていた。



まだ見てる





お読みいただきありがとうございました。

まだエピローグがありますが、本編はこれで完結です。

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