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エピローグ


 菜月がそのニュースを見つけたのは、昼休みの終わりごろだった。


 職場の休憩室には、あまり効きすぎていない空調の音が流れていた。窓際の席には誰かが置き忘れた紙カップがあり、底に少しだけ残ったコーヒーが、時間の経った匂いを出している。壁の小さなモニターでは、天気予報と交通情報と広告が順番に流れていた。


 菜月は端末でニュースを流し読みしていた。


 大きな記事ではなかった。


 画面の中ほど、芸能ニュースと新型ARレンズのレビュー記事の間に、小さく出ていた。


「顔印象分析サービスREADFACE、一般向けタグ表示機能を段階終了へ」


 菜月は、最初、その文字をただ通り過ぎた。


 少し遅れて、指を戻した。


 READFACE。


 その名前を見た瞬間、胸が痛むほどではなかった。息が止まるほどでもない。懐かしい、というほどきれいでもなかった。


 ただ、ずっと使っていなかった引き出しの奥から、薄い紙の束が出てきたような感じがした。


 まだあったんだ。


 菜月はまず、そう思った。


 記事によると、利用者数の減少と規制の強化、それから教育・採用分野での外部評価システム見直しにより、READFACEの個人向けタグ表示機能は翌年春までに終了するらしい。法人向けの一部分析機能は残るが、一般ユーザーがARレンズ越しに他人の顔の横へ短い印象タグを見る仕組みは、段階的に停止される。


 文字だけを追えば、ただのサービス終了記事だった。


 昔流行ったアプリが、いつの間にか使われなくなった。

 時代に合わなくなった。

 別の名前の、もっと新しいものに場所を譲った。


 それだけの話にも見えた。


 菜月のARレンズには、もうREADFACEは入っていない。


 アンインストールした日のことも、よく覚えていなかった。たぶん、大学に入って少ししてからだったと思う。新しいレンズに買い替えたとき、標準アプリの移行一覧にREADFACEが出て、もう使っていないから外した。それだけだった気がする。


 あれほど毎日見ていたものなのに、消すときには大した感情もなかった。


 便利なものは、生活に入り込むときも静かだが、出ていくときもわりと静かだ。


 菜月は記事を開いた。


 画面には、昔のREADFACEの画面例が載っていた。顔の横に浮かぶ短いタグ。見覚えのある水色の枠。少し古く見えるフォント。High Memorability、Soft Impression、Reliable Smile。サンプル画像の人物は知らない人なのに、タグの並びだけで、当時の教室の空気が少し戻ってきた。


 放課後の美術室。


 乾きかけの絵の具。


 机の上に置かれたレナのノート。


 No Tag Room。


 その名前を思い出したとき、菜月は少し顔をしかめた。


 軽い名前だった。


 軽い名前だったのに、あの頃の自分たちは、そこにずいぶん重いものを置いていた。


 最初は、ただ面白かった。


 いや、面白かったという言い方は少し悪いかもしれない。でも、正直に言えば、少し面白かったのだと思う。READFACEが拾わないものを見つける。タグにならない笑い方を書く。市場っぽい言葉や広告っぽい顔から、少しだけ離れた気になる。


 それは気持ちよかった。


 レナの言葉は、最初、強かった。


 短くて、冷たくて、読めばすぐに胸のどこかに当たった。誰かが悪くて、何かが間違っていて、自分たちはそれに気づいている。そう思える形をしていた。


 菜月は、そういう言葉が好きだった。


 自分だけではうまく持てないもやもやを、レナはきれいな刃物みたいに置いてくれた。だから「分かる」と言えた。「刺さる」と言えた。そう言うだけで、自分も何かを見ている側に入れた気がした。


 でも、最後の方のレナのノートは違った。


 長くて、弱くて、分かりにくかった。


 どちらが悪いのか、すぐには分からない。何を肯定して、何を否定しているのかも、はっきりしない。読んでも気持ちよくならない。怒りが薄くて、言葉が途中で曲がって、結論が手前で止まる。


 菜月は、それを見て言った。


 弱くない?


 そのときのレナの顔を、今でも少し覚えている。


 反論されると思っていた。


 違う、弱くない、こういうことなんだ、と言われると思っていた。レナはそれまで、そういう顔をしていたから。自分の見方を信じている顔。少なくとも、菜月にはそう見えていた。


 でも、あのときレナは頷いた。


 弱いと思う。


 そう言った。


 あの返事は、少し退屈だった。


 同時に、なぜか残った。


 菜月は端末の記事をスクロールした。


 READFACEに関する過去の問題が短くまとめられている。美容医療とのデータ連携、学校や企業での印象評価利用、プライバシー問題、未成年への心理的影響。見出しだけなら、当時のことをとても分かりやすく並べられる。


 顔を評価する社会。

 数字に傷つく少女たち。

 ラベルに抗う小さな部屋。

 その部屋もまた、別のラベルになる。


 そう書けば、たぶん分かりやすい。


 でも、実際には、もう少しぐちゃぐちゃしていた。


 ミアは傷ついていた。


 でも、見られたいとも思っていた。


 レナは怒っていた。


 でも、その怒りに自分を救わせてもいた。


 菜月は、分かると言いながら、少し面白がっていた。


 誰かの顔が話題になるとき、そこにはいつも本人以外の人間の気持ちよさが混じる。心配も、正義も、同情も、嫌悪も、憧れも、全部少しずつ混じって、誰のものか分からなくなる。


 あの頃の菜月は、そこまで分かっていなかった。


 今だって、分かっていると言い切れるほどではない。


 ただ、あのノートが弱くなった理由だけは、前より少し分かる気がした。


 弱くなったのではなく、簡単に使えなくなったのだと思う。


 誰かの顔を。


 誰かの傷を。


 誰かの選択を。


 自分が気持ちよくなるための形に、簡単にできなくなった。


 それは、言葉としては不便だった。


 読者としては、少し面倒だった。


 でも、たぶん大事だった。


 菜月は休憩室の窓の外を見た。


 向かいのビルの入り口から、若い女の人が出てくる。髪を後ろでまとめ、片手に紙袋を持っている。菜月のARレンズは、その顔の横に何も表示しない。もうREADFACEは入っていないし、最近の標準レンズは昔より表示規制が厳しい。


 タグは出ない。


 スコアも出ない。


 それでも、菜月の頭の中には、何かしらの言葉が浮かびそうになる。


 きれい。

 疲れていそう。

 仕事できそう。

 少し怖そう。

 優しそう。


 どれも、表示されていない。


 でも、ないわけではない。


 菜月は小さく息を吐いた。


 READFACEが終わっても、たぶんこういうものは終わらない。


 顔を見る。


 何かを思う。


 思ったことに、名前をつけたくなる。


 その名前で安心したくなる。


 あの頃、レナはそれを嫌がっていた。ミアはそれに傷ついて、それでもそこから完全には逃げなかった。菜月は、その横で分かりやすい言葉を欲しがっていた。


 その三人の誰が正しかったのか、今でもうまく言えない。


 レナとミアが、そのあとどうなったのかも、菜月にはうまく言えない。


 仲直りした、と書けば簡単すぎる。


 壊れた、と書いても違う。


 ただ、文化祭のあとも、二人は同じ写真の中に何度か写っていた。距離が近い日もあれば、少し離れている日もあった。卒業式の写真では、ミアのリボンがまた少しだけ曲がっていて、レナはそれを直していなかった。


 たぶん、それくらいがちょうどいい。


 菜月は記事を閉じた。


 休憩時間はもうすぐ終わる。机の端に置いた紙カップを、誰かがようやく片づけた。休憩室のモニターでは、READFACEとは何の関係もない化粧品の広告が流れている。白い光の中で、知らないモデルが笑っていた。


 菜月はその顔を見た。


 何かを思いそうになった。


 その言葉が浮かぶ前に、少しだけ止まった。


 止まったところで、何もかも消えるわけではない。


 でも、少しだけ遅らせることはできる。


 あのノートの最後に、ミアの字で短く書かれていた言葉を思い出す。


まだ見てる


 当時は、きれいな締め方だと思った。


 今は、少し違う。


 あれは、締めではなかったのかもしれない。


 終わりの言葉ではなく、終わらせないための言葉だったのかもしれない。


 菜月は端末をポケットにしまった。


 レンズには、もう何も表示されない。


 それでも菜月は、休憩室を出る前に、自分がまだ誰かの顔へ言葉を探してしまうことを知っていた。


 だから、少しだけ遅れて歩き出した。

 

 

あとがき


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 『ラベルの顔』は、顔認識AIや美容医療を題材にした物語です。けれど、私が本当に書きたかったのは、「AIは怖い」とか「美容医療は悪い」といった、ひとつの分かりやすい結論ではありませんでした。


 この物語で一番書きたかったのは、人が誰かを見るとき、どれほど早く名前をつけてしまうのか、ということでした。少し気取って言えば、偽のロゴスと真のロゴス。真のロゴスへ向かう姿勢とは何かというテーマでした。


 READFACEは、顔の横にタグを表示します。LUMIAは、読まれやすい顔へ人を近づけます。No Tag Roomは、タグに抗う場所として生まれました。


 けれど、その三つは形こそ違っていても、どこかで同じ危うさを持っています。どれも、目の前の人間を一瞬で読み、名前をつけ、分かったことにしてしまうからです。


 名前は便利です。


 私たちは、名前なしでは世界をほとんど扱えません。美しい、普通、怖い、優しそう、本物、偽物、強い、弱い。そうした言葉があるから、私たちは見たものを覚え、考え、誰かと共有できます。


 でも、名前は早すぎると、人を閉じます。


 顔の横に浮かんだタグだけを読んで、その人を見た気になる。広告の中の顔を見て、それを完成形だと思う。逆に、広告のような顔を嫌い、本物ではないと決めつける。ラベルに抗っているつもりで、別のラベルを貼る。


 この物語の中で、レナはREADFACEやLUMIAに違和感を抱きます。けれど、レナ自身もまた、ミアの顔に「失われた完成」という名前をつけてしまいました。


 それはたぶん美しい言葉でした。でも美しい言葉だからこそ危うい。


 ミアは、ただの被害者ではありません。傷つけられた人であり、同時に見られたいと願った人でもあります。顔を変えた人であり、前の顔をすべて捨てたわけでもない人です。今の顔を成功例にされたくないし、前の顔だけを本物にされたくもない。


 人間は、ひとつの言葉では足りません。それなのに私たちは、すぐにシンプルな言葉を置きたくなります。


 この作品で何度も出てくる「急がないで見る」という言葉は、何も判断しないという意味ではありません。何も名づけないという意味でもありません。


 むしろ、人は必ず名づけてしまうのだと知ったうえで、その速度を少しだけ遅らせること。


 自分の中に浮かんだ最初の言葉を、すぐ神様にしないこと。


 見たものを言葉にする前に、その言葉で相手を閉じてしまわないか、少しだけ立ち止まること。


 それが、この物語でレナがようやく持つことができた姿勢でした。


 だから、この物語は何も解決しません。


 READFACEがあったとしても、なかったとしても、人は誰かの顔を見て何かを思います。美しいと思うことも、怖いと思うことも、羨ましいと思うことも、見下してしまうこともあると思います。システムが消えても、私たちの頭の中からラベルが消えるわけではありません。


 それでも、少しだけ遅らせることはできるかもしれない。


 顔を見る。


 言葉が浮かぶ。


 でも、その言葉をすぐに相手そのものだと思わない。


 もう一度見る。


 まだ見る。


 この物語の最後に残った「まだ見てる」は、答えではありません。救いでも、許しでも、綺麗な結論でもありません。


 ただ、他者を閉じないために続ける作業です。


 読んでくださったあなたが、いつか誰かの顔を見たとき、自分の中に浮かんだ最初の言葉をほんの少しだけ遅らせることがあれば、この物語はその瞬間にまだ続いているのだと思います。


 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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