第8話 閉ざされた部屋
写真館に戻る道すがら、二人はほとんど口をきかなかった。
クロが半歩前を歩き、ルカがその後ろをついていく。霧が薄くなりかけた道を、足音だけが埋めている。クロの足音は不思議と軽い。コートの裾は地面に触れそうなほど長いのに、泥がつかない。
玄関の鍵を開けると、チクワが飛び出してきた。ルカの足首にすり寄り、小さく鳴く。だがクロに目を向けた瞬間、猫は動きを止めた。逃げもせず、唸りもしない。ただ、クロの顔をじっと見つめている。面ではなく、面の下の——顎の輪郭を。
ルカはそれを見て、奇妙な確信を覚えた。この猫は、クロの中に何かを見ている。
「二階に行く」
ルカは靴を脱ぎながら言った。
「ああ」
階段を上がる。古い木が軋む。三段目で、ルカは足を止めた。
「……ここ、いつも鳴るのよね」
なぜそれを知っているのか。昨日まで、この階段の三段目を意識したことなどなかった。
二階の廊下の突き当たり。閉ざされた障子。ルカは日頃、ここを素通りしていた。部屋があることは知っている。だが開けようと思ったことがない。——いや、思えなかった。意識がそこを避けるように滑っていく。封印の力が、記憶だけでなく認識そのものを曲げていたのだ。
障子に手をかける。埃がない。
ルカは息を止めた。自分は無意識に、この戸を拭いていた。部屋の存在を忘れているのに、手入れだけは続けていた。体が覚えていたのだ。
クロは廊下の壁に背をつけ、部屋には入ろうとしなかった。
「入らないの」
「入れない」
「なぜ」
クロは面の下で、低く息を吐いた。
「お前の匂いが強すぎる」
体臭の話ではないと、ルカには分かった。クロの体が微かに強張っている。面の奥で、何かをこらえている。飢えをこらえる獣の姿勢に似ていた。
「橋爪の血は、俺にとって——近づきすぎると、自制がきかなくなる」
ルカの背筋に冷たいものが走った。この男は人間ではない。狐の半身。そして今、はっきり分かった——クロにとってルカは協力者であると同時に、食べ物に近い存在なのだ。
「……出ていいわよ。一人で見る」
「ああ。——開けろ」
声が低かった。平坦なようでいて、どこかが軋んでいた。
障子を引く。
小さな和室。六畳。畳の上に桐の箪笥、机、窓際に三脚と古いカメラ。壁に写真が数枚。——そして、桜の香り。
机の上には、現像液の染みが輪を描いている。コップを置いた跡ではない。薬品瓶の底の形。何百回と置いて、引きずって、また置いた痕跡。机の隅に鉛筆削りがある。刃が錆びている。その隣に、鉛筆が三本。HB、2B、4B。スケッチ用だろう。一番短い4Bが最も使い込まれている。チヨは濃い線が好きだったのだ。
窓際のカメラは小型の二眼レフ。革のケースが使い込まれて飴色に変わっている。レンズキャップが外れたまま置かれていた。最後にカメラを使った日、キャップを閉める暇がなかったのかもしれない。ファインダーを覗くと、窓の外の景色が逆さまに映った。影向稲荷の鳥居が、小さく見える。チヨはこの窓から、毎日鳥居を見ていたのだ。
閉め切っていたはずの部屋に、なぜ花の匂いがするのか。空気は冷たく、長く人が入らなかった部屋特有の澱んだ重さがある。だがその重さの底に、桜。桜の花びらそのものではなく、桜の花びらを乾燥させて粉にした匂い。現像室の霧露液と同じ匂い。この部屋の主は、現像液の材料を衣類に忍ばせていたのだろう。七年経った今も、箪笥の中の着物がその匂いを保っていた。
一歩踏み入れた瞬間、視界が揺れた。目の裏に映像が走る。桜の木の下、手を引かれて走る。「ルカ、こっちだよ!」笑っている。黒い髪の少女が笑っている。カメラを構えた背中。「今日の光、すごくいいよ!」
ルカは壁に手をついた。こめかみが脈打つ。何かが物理的な力で押し込まれるような感覚だった。
壁の写真に目が行った。風景写真が三枚。どれも霧梁県の山々。一枚は朝霧の谷間、一枚は夕日の尾根、一枚は月夜の影向稲荷。構図が美しい。光の掴み方が的確で、繊細で、どこか切ない。この写真を撮った人は、風景を見つめるとき、風景の中に自分の感情を透かしていた。
箪笥の引き出しを開ける。丁寧に畳まれた着物。藍染めの着物。触れると、布地は冷たいのに、どこか温かみが伝わってくる。繊維の一本一本に、着ていた人の体温が染みついているかのように。着物の下に、革張りの小さな手帳。
手に取ると、インクの匂いがした。そして桜。革の表面が手に馴染む。何百回も開かれた形跡がある。背の糊が剥がれかけ、ページの角が丸くなっている。開くと、美しい筆跡。右下がりの丁寧な字。ところどころにスケッチが入っている。カメラの構造図、花の輪郭、光の角度を示す矢印。
姉の日記。
ルカは畳の上に座り、ページをめくった。
「平成六年、四月十日。今日も桜を撮りに行く。ルカを早起きさせるのは可哀想だけど、あの子の寝顔を見ていると目が覚めるまで待ちたくなる。でも、朝の光は逃したくない」
声に出して読んでいることに気づいた。声が揺れていた。
「フィルムがあと三本しかない。今度町に行ったとき、買い足さなきゃ。でも現像液の材料を考えると……予算が……」
脳裏に映像が浮かぶ。町の写真材料店。木の床が軋む古い店。棚にフィルムの箱が並んでいる。少女がその箱を手に取る。「これは光の感度がいいから、朝霧の撮影に向いてるよ」と教える声。少女の横顔が——ほんの刹那だけ鮮明になり、すぐにぼやけた。それは確かに記憶だった。日記の文字が、封じられた扉をこじ開けている。
次のページ。
「六月三日。ルカが熱を出した。三日目。まだ下がらない。手ぬぐいを替えながら、あの子の好きな話を読んでやる。寝顔を見ていると泣きそうになる。この子がいるから、私は頑張れるのに。この子がいなくなったら、私は」
文字がにじんでいた。インクではなく、書いた人の涙の跡だった。紙が波打っている。涙が乾いた跡は、紙を凸凹に変形させる。七年前の涙が、紙の上に化石になって残っていた。
ルカの視界がぼやけた。
頬を、何かが伝った。
涙だった。いつから流れていたのか分からない。止め方が分からなかった。七年間、凍っていたものが溶けるとき、手順などない。ただ溢れる。日記を濡らさないように、顔を上げて天井を見た。古い木目が霞んでいた。
廊下から、かすかに息を呑む音が聞こえた。クロが、面の下で何かをこらえているような気配。
ルカは袖で目を拭い、日記に戻った。




