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第7話 代償の法則

「封じた。自分の魂ごと」静江は天井を見上げた。「儀式は成功した。だが代償があった。チヨの存在そのものが人々の心から消えていった。お前からも」


 ルカの手が、膝の上で強く握られていた。爪が掌に食い込む感触。痛みだけが確かだった。胸ポケットの懐中時計が冷たい。七時四十二分。あれが——封印の瞬間の時刻だったのか。


「お前の目も変わった」静江が付け加えた。「橋爪の巫女は金の瞳を持つ。チヨもそうだった。だが封印がお前の力を眠らせ、瞳の色も灰銀に変えた」


 ——さっき、湿板のガラスに映った金の粒。写祓のたびに一瞬だけ浮かぶあの光。あれは眠らされた力の名残だったのか。


「守るために記憶を消した……?」


「チヨ自身が望んだことだ。お前を守るために」


「姉の最後の言葉は」


 静江が一瞬、口を閉じた。それから、静かに言った。


「『わたしのことを、ずっと覚えていてね』」


 ルカは動かなかった。長い沈黙があった。茶碗の湯気が、部屋の冷えた空気の中で細く立ちのぼっている。香炉の匂いが、時間の経過とともに濃くなったように感じた。


「……それなのに、忘れたんですね。私は」


 その声は平坦だった。だが静江は、ルカの膝の上の拳が白くなっているのを見ていた。


「封印の過程で、狐神の力は欠片となって散った」静江は話を続けた。「クロはその欠片を集め、封印を解こうとしている。だが封印が解ければ、狐神も解放される。再び暴走すれば——」


「欠片を集めるには代償がある」静江の声が低くなった。「チヨの代償は感覚だった。声を失い、色を失い、匂いを失い——最後には姿そのものを失った。お前の代償が何になるかは、お前自身の魂が決めることだ」


「法則はあるんですか」


「欠片の性質に引きずられる。声の欠片なら声に関わるものを。時の欠片なら時間に関わるものを。だが正確には——予測できない。失ってから初めて、何を失ったか分かる」


「姉は? 自由になるんですか?」


「可能性はある。だが確約はできない」


 静江はしばらく黙ってから、付け加えた。


「この町だけじゃないよ」


 静江は窓の外の霧を見た。


「この霧はね、時代とともに姿を変えるんだ。チヨの頃は、すべてを奪う恐ろしいものだった。今は——過去を映すスクリーンのようになっている。次の時代には、また違う形になるだろう」


 それ以上は語らなかった。


 それから、声を落として続けた。


「チヨには想い人がいた。上條健司という男だ。今も久遠木で暮らしている。チヨのことは覚えていないが——あの男だけは、何かを待ち続けているような顔をしている」


 ルカは立ち上がった。頭がぐらついた。視界の端がまだ暗い。


「ありがとうございました」


「待ちなさい」


 静江は布袋を差し出した。中に、朱色の印が押された古い札。和紙の手触りが粗く、印の朱色は乾いて暗くなっている。


「影写りの札だ。写し世の気配が強い場所で使え」


 ルカは受け取った。喉が詰まって、礼の言葉が出なかった。


「もう一つ」静江の目が鋭くなった。「あの懐中時計、まだ持っているね」


 ルカは反射的に胸ポケットに手をやった。


「姉が最後に使った道具だ。針が止まっている時刻——あれが封印の瞬間だよ」


 七時四十二分。その数字が、急に重くなった。時計の金属が、ポケット越しに体温を吸い取っているように冷たく感じた。


 神社を出ると、鳥居の下にクロが立っていた。


 霧の中で、彼の輪郭だけが妙にくっきりしている。周囲の景色がぼやけているのに、彼だけが鮮明だった。霧が彼を避けているのか、彼が霧を押しのけているのか。


「聞いたか」


「ええ」


「信じるか」


「……分かりません」


 正直な答えだった。静江の話、写真に写っていた少女、頭に走った痛み。どれも確かなはずなのに、心がまだ追いついていない。


 クロは少し間を置いてから言った。


「写真館に戻れ。二階の使っていない部屋に、チヨの荷物がある」


「あなたはどうして、そんなことを知っているんですか」


 クロの体が一瞬、硬くなったのが見えた。面の向こうで、奥底で何かが動いた気配。


「封印が俺を呼ぶ」


 声がかすれていた。


「彼女の光を……取り戻したい」


 その一言に込められた感情の重さに、ルカは何も言えなかった。この男は、姉と何らかの関係があった。それだけは確かだった。


 クロは小さな袋を差し出した。中に、青く光る結晶。親指の先ほどの大きさ。掌に載せると、冷たさの奥に微かな温もりがあった。結晶の表面に、青い光が明滅している。脈拍のようなリズム。自分の心臓の鼓動より少しだけ速い。


「持っておけ」


「これは何」


「欠片だ。使い方は、まだ教えない」


 ルカは結晶を見つめた。光が明滅している。呼吸するように。


「代償があるんでしょう」


 クロが一瞬、黙った。それから頷いた。


「ある」


 それ以上は言わなかった。ルカも聞かなかった。今は、それでいい。


 封印。欠片。狐神。写し世。分からないことだらけだった。だが一つだけ、確かなことがある。忘れていた人がいた。姉がいた。その人を思い出す。封印を解くとか、町を救うとか、大きなことは分からない。でも——忘れていた人を思い出すことだけは、私にもできる。

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