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第6話 封印の夜

 影向稲荷への石段は霧に埋もれていた。


 百二十三段。子供の頃に数えたことがある——と、なぜか知っていた。誰と数えたのかは思い出せない。苔むした石段の一段一段が年代を重ね、中央は踏まれて窪み、縁は苔に覆われている。痛んだ朱色の鳥居が霧の中に立ち、朱というよりは錆びた茶色に近い。何百回と通った道のはずなのに、足が重い。


 足が重いのは体力の問題ではない。この場所が何かを知っているからだ。体が覚えている。脳が忘れたものを、足が覚えている。この石段を誰かと並んで登った。小さな足と、少し大きな足。手を繋いで。——そこまで浮かんで、消えた。水面に映った顔が、指で触れた瞬間に崩れるように。


 鳥居をくぐった瞬間、視界がぶれた。朱色が一瞬だけ別の色——鮮やかな赤——に見え、すぐ戻る。新品の鳥居が目の前にあった気がした。立ち眩みのようなもの。ルカは額を押さえ、石段を上がった。


 境内は掃き清められていた。玉砂利の上に、まだ箒の跡が残っている。掃除をしていた年配の女性に静江の所在を尋ね、本殿裏手の社務所へ向かった。


 社務所への渡り廊下は、本殿の裏側を回るように造られている。足元は板張りで、歩くたびに軋む。壁には古い奉納写真が何枚も掛けられていた。白黒の集合写真、家族写真、祭りの写真。どれも色褪せているが、写っている人々は笑っている。ルカは何気なくそれらに目を向け——一枚の写真の前で、足が止まった。


 巫女装束の少女。魂写機を手にしている。隣に、小さな女の子が立っていて——


 ルカは目を逸らした。頭痛が刺すように来た。一秒だけ我慢し、歩き続けた。


 扉を叩くと、かすれた声が応えた。


「入りなさい」


 薄暗い室内。古い巻物や文書が積み上げられ、香の匂いがする。白檀と、もう一つ——沈香。火はついていないのに、部屋の隅に設えられた香炉から、煙のない匂いだけが漂っている。年季の入った机の前に、銀色の髪を厳しく結い上げた老婆が座っていた。八十を超えているはずだが、背筋は真っ直ぐで、目に鋭い光がある。机の上には硯と筆、そして半分だけ広げられた古い巻物。


「橋爪の娘か。来るのが遅いね」


 まるで訪問を予測していたような口調だった。


「……私をご存知ですか」


「夢写師の七代目だろう。それに」静江は言葉を切り、ルカを見つめた。「お前の姉も知っている」


 頭に痛みが走った。ルカは眉を動かさなかった。


「私に姉はいません」


 自分の声が不自然に平坦なことに気づいていた。心臓が速い。掌が汗ばんでいる。だが表情は動かさない。


 静江はため息をついた。


「座りなさい」


 茶碗を受け取った。熱さが指先に伝わり、わずかに現実感が戻る。茶の色が深い。静江の茶は、ルカが自分で淹れるものより遥かに丁寧だった。


「あの男が来たんだね。狐の面の」


「クロのことを知っているんですか」


「ああ。七年前から何度もここに来ている。お前の姉のことを、ずっと」


 ルカの手が震え、茶碗が傾いた。こぼさずに持ち直す。


「繰り返しますが——」


「両親が早くに亡くなったのは事実だ。だが姉は、確かにいた」


 静江は桐箱を取り出し、蓋を開けた。中に古い写真が一枚。桐箱の内側に防虫の樟脳の匂いが残っている。


 二人の少女。十二、三歳のルカと、その横に立つ十七、八歳の少女。黒い髪に穏やかな笑顔。巫女装束。少女の手が、ルカの肩に置かれている。その手が、どこか懐かしかった。重さを覚えている。肩に手を置かれる感触を、体が覚えている。


 ルカの指が写真に触れた瞬間、鼓動が跳ねた。こめかみが脈打ち、視界の端が暗くなる。——夏祭りの太鼓。「大丈夫、私がついてるよ」という声。川のせせらぎ。見覚えがあるのに、焦点が合わない。水面に映る顔のように、揺れて掴めない。


「橋爪チヨ。お前の姉だ」


 ルカは写真を見つめたまま、動かなかった。涙は出なかった。出し方を忘れているかのように。代わりに、喉の奥が焼けるように乾いていた。


「……なぜ、私は覚えていないんですか」


「忘れたんじゃない。忘れさせられた」


 静江は掛け軸を指した。巫女が鏡を手に月を見上げる絵。絵の中の巫女は白い装束を着て、月に向かって鏡を掲げている。鏡には巫女自身ではなく、狐の顔が映っていた。


「橋爪家は代々、影写りの巫女を務めてきた。影写り——写し世の影を現世に写す力のことだよ。影向稲荷の狐神——忘却と想起を司る存在——との契約だ。明治以降、鏡の代わりに写真技術を取り入れて夢写師となった」


 ルカは首を縦に振った。そこまでは両親——照也と美咲——から聞いていた。


「七年前の五月の夜」静江の目が遠くなった。「平成六年、五月二十五日。狐神が暴走した。人々の心が崩れ始め、写し世との境が壊れかけた。チヨは二十二歳だった。若すぎた」


 ——五月の夜。ルカの脳裏に、映像が走った。断片的。鳥居の朱色。誰かの叫び声。空が裂けるような光。そして——走っている。小さな足で。誰かの手を振りほどいて、神社の方へ走っている。「来ちゃだめ!」と叫ぶ声。姉の声。


 映像が消えた。一秒にも満たない残像。だが体が覚えている。あの夜、自分はそこにいた。


 老婆の声に悔恨がにじんだ。静江の手が机の上で握りしめられるのを、ルカは見ていた。


「だが、あの子には特別な力があった。写し世の存在と直接対話できる力だ。チヨは言った——『私には話せる。だから私が行く』と」


「姉が……狐神を」

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